第一話 よかった。お姉様、助かった
短編版をもとに、その後を少しだけ広げた全4話版です。
本作だけでもお読みいただけます。
「リリアーナ。私は君との婚約を破棄する」
夜会の広間に、侯爵令息エドガーの声がよく通った。
楽団の音が止まる。誰かが扇を落とす。母が短く息を呑み、父の顔から血の気が引いていく。周囲の貴族たちは驚いたふりをしながらも、隠しきれない好奇心でこちらを見ていた。
今夜は、姉とエドガーの婚姻契約を最終確認する夜でもあった。
両家の親族と主だった証人がそろい、王宮法務院の立会人も招かれている。
姉は、エドガーの正面に立っていた。
白いドレス。薄い真珠の髪飾り。どれもよく似合っていたけれど、姉が昔から好きだった菫色は、もうどこにもなかった。
「私は真実の愛を見つけた。君のように、ただ私の隣に立つだけの女性とは結婚できない」
ひどい言葉だった。
夜会の真ん中で、婚約者に向けて言う言葉ではない。ましてや、何年も婚約者として努めてきた姉に投げつけてよい言葉では、絶対にない。
だから私は、怒るべきだったのだと思う。
あるいは、姉のために泣くべきだったのかもしれない。
けれど実際の私は、心の中で小躍りしていた。
もちろん、実際に踊ったりはしない。
そんなことをしたら、伯爵令嬢としても妹としても、いろいろ終わる。けれど心の中では、確かに両手を上げていた。
よかった。
お姉様、助かった。
そう思ってしまったのは、私が薄情だからではない。
少なくとも、私はそう信じている。
私は、姉の婚約者が少し苦手だった。
嫌い、と言い切れるほどの決定的な何かをされたわけではない。彼は怒鳴らない。乱暴な言葉も使わない。むしろ周囲からは、穏やかで思慮深い青年だと思われていた。
けれど私は、姉のお供として彼に会うたび、小さな棘を拾っていた。
「リリアーナは控えめなところが美点だね。無理に意見を言おうとしなくていい。そういう難しいことは、僕が考えるから」
姉はそのたび、少し照れたように笑った。
私は、その笑顔があまり好きではなかった。
笑っているのに、姉の指先が固くなっていたからだ。
別の日、姉が菫色のリボンを選ぶと、エドガーは穏やかに首を傾げた。
「悪くはないけれど、君には淡い桃色の方が似合うと思うよ。リリアーナは、そういう柔らかな色を身につけている方が安心する」
姉は「そうかしら」と言って、翌週から菫色を身につけなくなった。
彼は姉に命令しない。
ただ、姉が選んだものを少しだけ横に押しのけて、自分が正しいと思うものを、優しい顔でそこへ置いていく。
父も母も、それを「大切にされている」と言った。
姉も、そう信じようとしていた。
けれど結婚が近づくにつれて、姉の笑顔は少しずつ薄くなっていった。
姉は手紙を丁寧に扱う人だった。
季節の挨拶状も、親族への近況報告も、受け取ればきちんと返す。社交とは、そういうものだと教えられてきたからだ。
その中で、母方の遠縁にあたるルーカス卿から届く便りだけは、姉が少し肩の力を抜いて読んでいた。
王宮勤めの若い騎士で、顔を合わせることはほとんどない。けれど春の庭について書けば庭の話が返り、読んだ本について書けば本の話が返ってくる。姉の言葉を勝手に飾らず、そこにない好意まで読み取ろうともしない。
ただ言葉を、そのまま受け取ってもらえる。
それが姉には、思っていた以上にありがたかったのだろう。
だからこそ、エドガーから届く手紙を読む前に、姉が必ず一度、深く息を吸うようになったことが、私には余計に引っかかった。
彼に会う日の朝、姉は朝食を半分残すようになった。好きだった詩集を客間に置かなくなり、代わりに彼が褒めた詩人の本を読むようになった。
ある夜、姉は私の部屋に来て、小さな声で尋ねた。
「ミレイユ。私、明日の茶会で菫色のリボンをつけても変ではないかしら」
「お姉様は菫色が一番お好きでしょう」
「ええ。でも、エドガー様は淡い桃色の方が私らしいとおっしゃるの」
「では、菫色がいいと思います」
姉は困ったように笑った。
「あなたはいつも、そう言ってくれるわね」
その笑顔は嬉しそうで、けれど少しだけ泣きそうだった。
姉はよく、私に確認するようになった。
「この言い方は、出しゃばっているかしら」
「この髪飾りは、派手かしら」
「エドガー様は、こういう話を退屈に思われるかしら」
私はそのたびに、違います、変ではありません、お姉様はそれがお好きでしょう、と答えた。
けれど姉は、ほっとするより先に困った顔をした。
私の答えでは、足りないのだ。
姉が本当に欲しかったのは、自分の好きなものを好きだと言っていいという許可だった。
だから、婚約破棄を告げられた姉が、ほんの一瞬だけ肩の力を抜いたのを見た時。
私は、思ってしまったのだ。
よかった。
お姉様、助かった。
「そして私は、ようやく気づいた」
エドガーが、ゆっくりとこちらを見た。
嫌な予感がした。
「ミレイユ、君――」
「お断りします」
お読みいただきありがとうございます。
次話『もちろん、当然のようにお断りします』へ続きます。




