三十四話「城の記憶」
金色の文字を読んだ後、アリスの右手が勝手に動いた。
本の上で指を広げ、手のひらをページに押し付けていた。
アリスは本から手を引き離そうと、必死に引っ張った。
どんなに力を込めても微動だにしない。
何かの力によって本に固定されていた。
羽ペンはひとりでに動き、アリスの手の甲に金色の文字を書き始めた。
「血を頂くぞ。」
文字を書き終えると、羽ペンはそのままアリスの手の甲を刺した。
「ギャー!」
アリスの痛々しい叫び声が響く。
鮮やかな水色の羽ペンは、赤黒く変色した。
血が滲み出し、本に滴り落ちる。
本は血を飲み込んでいく。
左のページに、血のように赤くドロドロと滲んだ文字が浮かび上がる。
「汝の血を喰らった。
知りたい過去を魅せよう。」
「いや、離して!」
アリスは左手で羽ペンを引き抜こうと力を込めた。
羽ペンは動く気配がない。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響き、頭が激しく痛む。
呼吸が苦しくなる。
眩暈がして、全身から力が抜けていく。
やがて、視界が真っ暗になった。
体が宙に浮くような感覚に包まれる。
なんだろう。
少し前にも、似たような体験をした気がする。
そう、確かこの感覚は深淵の闇に落ちたときと同じだった。
目の前が明るくなる。
次の瞬間、全身に激しい痛みが走った。
落ちたのだ。
アリスは知らない女性の声で叫び、息を引き取った。
目が覚めると綺麗な森にいた。
体が勝手に動き始めている。
本には「血のつながりを持つ其方に体験させよう」と書かれていた。
もしかして、これは母が体験した昔の記憶なのか?
その間にも、目まぐるしく景色が変わる。
見たこともない生き物に殺され、生き返る。
また別の何かに殺され、再び生き返る。
殺されるたびに、恐怖も痛みもアリスに流れ込んでくる。
気が付けば城の中庭にいる。
処刑台のギロチンに首を固定され、動けない。
目の前には王冠を被り、嘲笑う女がいた。
その女は、アリスが身に着けているものと同じ銀の首飾りをしていた。
宝石の色だけは違い、赤色だった。
この女がこの城の女王なのだろう。
女王が何かを叫ぶと、アリスの首に冷たくて重い衝撃が伝わる。
直後、アリスの首は刎ね飛ばされた。
意識の途切れるさなか、アリスは固定されている体を眺めた。
そのまま地面に叩きつけられ、完全に意識を失った。
目が覚めると、手錠を掛けられて鎖に繋がれていた。
どうやら牢屋に捕らえられているようだ。
赤の鎧を着た兵士が母……アリスを檻の中から連れ出そうとする。
アリスは必死に抵抗した。
しかし、無駄だった。
アリスは目隠しをされ、引きずられた。
目隠しを外されたときには、またあの中庭。
女王が笑顔で命じる。
ギロチンの刃が振り下ろされ、首が飛ぶ。
そして、また牢屋の中で目覚めた。
兵士が来る。
連れ出される。
そして、ギロチンに殺される。
何度も何度も、それを繰り返した。
アリスの中に、女王への恐怖と怒りがこみ上げた。
そして、憎しみの感情が渦を巻き、膨れ上がる。
いつの間にかアリスは抵抗するのをやめた。
生きることさえも諦めていた。
しかし、何度死んでも蘇る。
この苦しみは地獄でしかなかった。
絶望するアリスのポケットから一枚の小さな家族写真が落ちた。
父親と母親、そして生まれたばかりの赤ん坊が写っている。
写真は地面を滑り、檻の外に出た。
アリスは突然、写真の中にいた。
そこから、牢屋に閉じ込められている母を見ている。
母が牢屋の外に落ちた写真を見ると、その目に輝きが戻った。
何かを決意したように動き出し、手錠を無理やり外そうとした。
肉は削れ、血が流れている。
それでも、母はやめなかった。
先ほどまでは、母の痛みも感情もアリスに流れ込んできた。
しかし、いまは何も感じない。
母はもだえ苦しみながら、なんとか手錠を外した。
その手は、見るも無残な姿になっている。
それから母は、手錠で檻を叩き壊そうとしていた。
そんな母を、アリスは宙に浮いて眺める。
いつの間にか、写真からも解き放たれていたのだ。
牢屋の檻は錆び付いていた。
何度も、何度も檻を叩き、やがて壊れた。
檻を壊した音に気が付いたのか、兵士が母を捕らえようと追ってきた。
母は写真を拾う余裕もないまま、必死に逃げた。
暗い地下を逃げる母。
しかし、逃げた先は行き止まりだった。
先を塞ぐ壁には梟の絵が描かれている。
母は梟と話していた。
アリスには母の声が聞こえない。
おそらく母は梟の問題に答えたのだろう。
壁が沈んで、そこを通り抜けた。
そこは、アリスが『憂いの真実』を見つけた禁書の部屋だった。
アリスは母の跡を追いかけた。
兵士たちは後ろから来ていない。
おそらく、梟の問題に答えられなかったのだろう。
母は禁書の部屋から階段を上り、青い光に照らされた廊下を抜けた。
梟の壁がまた開き、仮面の女がいた書庫にたどり着く。
螺旋の本棚を見た母は面食らっていた。
近くにいた仮面を付けたやかましい女が、母に話しかけた。
母は驚いて仮面を殴る。
殴った後、母は書庫から逃げ出した。
その後をアリスは必死で追いかけた。
アリスが追いついたころには、母は玄関広間にいた。
大勢の兵士が扉の前で武器を構え、母の逃げ道を阻む。
兵士たちが後ろからもゆっくりと、母との距離を詰める。
母は逃げ道を塞がれて、仕方なく正面にある大きな階段を上った。
正面には巨大な鏡があった。
二階に上っても、左右から兵士たちが迫ってくる。
さらに、一階にいた兵士たちも階段を上がってきた。
母は完全に包囲されていた。
アリスは母を何とか助けたくて、兵士を殴ってみた。
拳は兵士の頭を通り抜け、虚しく空を切るだけだった。
兵士たちがじりじりと迫ってくる。
槍や剣の切っ先が母に向けられていた。
母はどんどん後ろに下がり、ついには背中が鏡に触れた。
万事休すかと思われたそのとき、母の体が鏡に吸い込まれた。
アリスにも何が起こったのかわからない。
先頭の兵士が鏡に触れてみる。
すると、手が鏡の中へ入っていった。
兵士は恐怖におののき、後ずさりした。
他の兵士たちも鏡から遠ざかっていく。
アリスは鏡に近づいて中に入った。
そこで目にした光景に、アリスは驚いた。
鏡の向こうは、なんと女王の部屋だった。
母の姿に女王は驚き、衛兵を呼ぶように口を大きく開けて叫んでいた。
そんな女王に、母は平手打ちを食らわせた。
そのあとも何度か殴っていた。
もみ合いになっているところに、衛兵がやってきた。
もうだめかと思った矢先、母は女王の首飾りをつかみ、無理やり奪い取った。
母の手に移った首飾りは強烈な青色の光を放つ。
その光は部屋全体を包み込み、その場にいる者たちの視界を白く染めた。
アリスも眩しさに目をつむった。
しばらくして、アリスはゆっくりと目を開けた。
眩い光は消え、代わりに太陽の光が目に入る。
ここは城の外だった。
近くには母の姿がある。
幸いなことに女王も衛兵もいない。
アリスは、母があの絶望的な状況から奇跡的に逃げられたことに安堵した。
母は城から離れていった。
アリスも母を追おうとしたが、体が何かに阻まれて進めない。
空中に金の文字が書かれ始めた。
「時間切れだ。」
文字を読んだあと、頭が激しく痛み出した。
アリスは地面に転がり、叫び声を上げた。
目の前が激しく揺れ、視界が再び真っ黒になった。
やがて、アリスは黒い本の前で椅子に座っていた。
頭の痛みは消えている。
「なぜ、最後まで見せてくれなかったの?」
アリスは怒りながら本に聞いた。
本の左のページにまた文字が浮かぶ。
「一つ目の質問にはすでに答えた。
二つ目は気まぐれで見せてやっただけだ。
其方にすべてを教える義理も道理もない。」
アリスの中で怒りと憎しみが沸き起こっていた。
この感情は本に対してだけではない。
むしろ、この城の女王に向けられたものだった。
そして、いまから本に行うことは、ただの八つ当たりだ。
本当なら、この城の女王に対して行いたいのだが、いま女王はいない。
しかたないから、この本に女王の代わりになってもらう。
羽ペンはまだ、アリスの手の甲に刺さっていた。
アリスは羽ペンをゆっくりと引き抜いた。
さきほどとは違い簡単に抜けた。
焼けるような痛みが伝わってくる。
しかし、アリスは気にもとめない。
完全に引き抜くと、赤黒く染まっていた羽ペンは、元の水色に戻った。
それから、アリスの意思に反応するように羽ペンの先端は鋭くとがっていく。
そして、小さなレイピアのような姿に変わった。
アリスはレイピアを力強く握り、本に突き立てた。
「フザケルナァー!」
本からどす黒い煙が沸き起こりアリスにまとわりつく。
アリスはかまわず何度も本を刺した。
刺すたびに、部屋に置かれた様々な本から奇怪な叫び声が響く。
アリスは腕が上がらなくなるまで刺し続けた。
千切れた無数の紙片が宙を舞う。
「ホ、ホ、ホ。」
「そのくらいにしておきなさい。」
部屋の奥の壁から梟の声が聞こえてきた。
アリスは部屋の奥に進み、梟に問いかけた。
「どうしてこの部屋に導いたの?こんな真実なら知りたくなかったわ。」
アリスは泣き叫びながら梟に詰め寄った。
「その手に持った狂気をしまいなさい。
アリス、残酷じゃが、これは昔に起きた真実なのだよ。」
「過去を変えることはできないのじゃ。」
その言葉を聞いたアリスは、膝から崩れ落ちた。
そんなアリスを見て、梟は優しく声をかけた。
「気休めにしかならないが、其方の母は城から逃げのびて、家族の元に帰れたのじゃ!
その首飾りが何よりの証拠じゃよ。」
「だったら、なぜ母はいないの?」
アリスは涙を流しながら叫んだ。
「悲しいことじゃが、寿命が尽きて黄泉の人となったのだ。」
梟はそう言うと、壁と一緒に沈んでいった。
アリスは再び梟の空けた道をひたすら進んだ。
暗い道は見たことのある景色だった。
そして、アリスはたどり着いた。
アリスと母がいた監獄に。
牢屋の外には薄汚れた写真が落ちていた。
アリスはそれを拾った。
写っているのは、父と母、そしてアリスだった。
アリスは泣き叫んだ。
その叫びは、虚しく地下牢に響き渡った。




