革命を超えて 〜何もかもが変わったとしても、それでも変わらぬあなたへの想いをずっと〜
数代前に爵位を失い、平民へと身を落とした家系。それがエマの家族だった。
かつて名門だった証は、今や古びた蔵に眠る埃をかぶった家系図の中にしかない。
しかし、父も母もかつての権勢など気にすることもない真面目な働き者であり、特に父は先祖が没落したと知っているからこそ、教育を重要視する人だった。
兄のテオは父の教育によって優秀な子に育ち、長じて彼はその明晰な頭脳と執念とも言える努力で、貴族の子弟が集う名門校の「平民特待生」という座をもぎ取った。
その兄が連れてくる学校の友人が、ルカだった。
ルカはこの国でも高位に属する伯爵家の嫡男でありながら、テオの才能をいち早く認め、身分を鼻にかけることなく対等な「友」として接していた。
12歳のエマにとって、居間のかたい椅子で兄と難解な法学や哲学について議論を交わす3つ年上のルカは、神話の英雄のように眩しかった。
ルカはエマの頭を撫で、「テオの妹は、将来きっと賢い淑女になるね」と、春の陽だまりのような微笑みをくれた。
だが、その微笑みが自分だけに向けられたものではないとエマが知ったのは、夏の日差しが照りつける午後のことだった。
街へ出たエマは、見たこともないほど豪華な馬車から降り立つルカを見た。そこには埋めようもない身分の格差が存在していた。
彼の隣には目も眩むほど美しい貴族の令嬢がいた。二人は親密に腕を組み、宝石店へと消えていった。
それが婚約者に対するただのエスコートだなどとエマは知らなかった。
それを見た瞬間、エマの中で何かが音を立てて砕けた。
自分はルカの隣を歩くことなど、一生かかっても叶わない。身分の格差は教育や礼儀だけで埋められるほど甘いものではなかった。ドレスや宝飾品は特に、どうすることもできない部分だ。
巨大な河川のようなルカとの間の差を感じて涙が止まらなくなったエマは、自分がルカに恋をしていたのだと知る。
そして、その想いが叶うことはないのだということも……幼いながら気が付いてしまったのだ。
年の差とは違って、永遠に埋められないだろう身分の差というものに。
叶わない。それなのに消えない想い。
それがエマの心の奥底へと深く、深く沈んでいく。どこまでも、深く……。
その夜、自室で泣き腫らすエマのもとへ、兄のテオが心配してやってきた。
「どうしたんだ、エマ。そんなエマを見たらきっとルカも心配するよ?」
友の名を口にする兄の優しい声が、今は刃のようにエマの胸を刺す。名前を聞くだけでも痛い。
兄のテオにはルカとの身分差を乗り越えて友となるだけの優秀さがある。でも、それは女の子として教育を受けたエマにはないもので。
結局のところ、エマには……ルカが好きだという気持ちしか、ないのだ。
「……身分が違いすぎて、決して結ばれない人を好きになってしまったの。その人があまりに遠くて、悲しくなっただけ」
エマはその相手がルカだとは言わなかった。
(……ルカを好きになったのか……)
妹を誰よりも近くで見てきたテオはすぐに気づいた。
でも、それを口にすることはなかった。
エマが隠したいのなら、そっとしておく。兄として。
そうしていつか、エマの中でその気持ちがゆっくりと消えていくことを願って。
どれほどエマが努力したとしても……ルカと結ばれることはないのだから。
エマが14歳になった時、平穏な日々は終わった。
かつてのエマの家もそうだったが、貴族であるというだけでは家を保てない時代がきていたのだ。
没落する貴族が後を絶たない時代の流れの中で、それは自然に起きたとも言える。
革命。
贅沢に暮らす王や王妃に対する貧しい民衆の怒りは止まることなく、叫びを上げ続ける群衆は王城を焼き、古い秩序を根底から覆した。
有名校での平民特待生だったテオは名を知られており、その清廉さと実務能力を買われて新政府の若きリーダーとして瞬く間に歴史の表舞台へと押し上げられていった。
対照的に、旧貴族たちは審判の場に引きずり出されていく。
エマはルカのことが心配で眠れない夜を過ごした。
ただ、ルカの婚約者だった令嬢が革命の中で亡くなったと聞いたとテオに聞かされた時には少しだけ昏く微笑んだ。
多くの旧貴族たちが命も含めて全てを奪われていく中で、ルカの伯爵家はまだ残っていた。
ルカは革命期にどちらの陣営にも与せず中立を貫き、伯爵家の騎士をまとめ上げて領地を守るとともに領民の衣食を援助し続けて助けていたから。
そのルカの賢明な判断により、一族の処刑という最悪の事態は免れたのだ。
革命軍とは戦わなかったため、かなりの資産を維持できたが、爵位と特権は新政府によってすべて剥奪された。
ただ新政府にとって、領民に慕われている中立派の旧貴族ほど、扱いに困る存在はなかった。
旧貴族でありながら、民衆が味方をしているのだ。うかつには手を出せない。
それでいて多くの資産を握ったまま、静かに生き残っている。その資産は喉から手が出るほどに欲しい。
革命はまだ成ったばかり。
いつ、旧勢力が力を盛り返すかも分からない。
そんな状況で、ルカは優秀であるが故に今や新政府から監視される存在となり、広大な屋敷の中で孤独に沈んでいた。
人望に厚いルカが旧貴族たちの旗頭となる可能性があったからである。
資産こそ守られたが、彼にはもはや、この国で生きるための「居場所」がなかった。
テオは友を案じながらも、新政府の要職にある身として、公然とルカを庇うことはできなかった。
「……彼は何も悪いことはしていない。ただ、生まれる時代を間違えただけだ……」
家の中だけで漏らすテオの苦渋に満ちた言葉を聞きながら、エマは決意を固めていた。
今しかない、と。
新政府の悪意ある宣伝によって、世間がルカを「日和見主義の旧貴族」と嘲笑し、遠巻きにする中、エマだけは毎日、彼の屋敷へ通い続けた。
銀食器さえも輝きを失ったような薄暗い応接間で、ルカは自嘲気味に笑った。
「……エマ。もうここへは来ないほうがいい。君の兄、テオは、新しい国の希望だ。その妹が、没落した僕のような男と関わっていることが分かれば、テオの地位に泥を塗ることになる」
しかし、エマは首を振った。
「私が慕っているのは、伯爵家の跡取りではないの。兄さんとあんなに楽しそうに未来を語っていた、一人の人間としてのあなたなんです。旧貴族とか、没落とかは関係ないわ」
ルカは押し黙った。
エマの瞳には、かつての幼い憧れではなく、一人の女性としての揺るぎない覚悟が宿っていた。そして、ルカ自身もその覚悟を決めた瞳に魅かれていると自覚していた。
それでもこのままエマの気持ちを受け止める訳にはいかないとルカは分かっていた。
エマが自身の近くにいればいるほど、新政府でのテオの立場が危うくなる。ルカは監視されているのだから。
ルカは親友テオの立場をより強固にするとともに、エマを自分への初恋から解放し、自由にするために決断を下した。
「新政府参与テオの統治を助けるために、旧伯爵家の残りの財産の7割を新政府の国庫に献上する。その代わり、この国でのすべての権利を捨てて、僕は国外へ去る。だから、監視はもう解いてもらいたい」
それは、自らの存在をこの国から抹消し、静かに消えていくことを意味していた。
新政府首脳陣はこれを民衆の星であるテオの功績とし、テオをより輝かせるため、ルカの要求を受け入れた。
ルカがテオを助けるためと明言していたから。
その裏には旧伯爵家の財産へとよだれを垂らしている者も多かったが、新政府首脳陣はルカが二度とこの国に戻らないことを誓約させ、旧伯爵家の財産の7割を受け取った。
失った資産が新政府によってどのように使われようとルカは構わなかった。
革命時に中立派だった旧貴族たちがルカと同様のことを求めたため、乏しかった新政府の国庫が潤うようになっていく。
ルカは残した3割の資産を一族の者、伯爵家の騎士たちや使用人たちに分け与えて、自分自身はその身ひとつで海の向こうの新大陸を目指すと決めたのだった。
それはテオとエマを守るためであり、同時に自身のエマへの淡い想いを封じるためでもあった。
ルカの旅立ちの夜、国境近くの港には霧が立ち込めていた。
新政府へのルカの資産譲渡手続きを終えたテオが、公務用の馬車から降り立った。
その後ろから、旅装を整えたエマが続く。
「……本気、なのか、エマ?」
テオの声は少しだけ震えていた。
エマは新時代の名家の令嬢として、誰よりも幸福な結婚が約束されている身だ。
それを捨てて、自分が生き抜くためだけの財産すらほとんど残していない男と共に異国へ行くなど、狂気の沙汰と言えた。
「兄さん、ごめんなさい。でも、私はずっとルカのことを……」
「……ああ、知っているよ」
エマの気持ちは変わらないのだとテオは理解した。もう止めることはできない。
タラップの近くで、見送りに来たテオの隣に立つ、旅装のエマを見たルカは、衝撃に目を見開いた。
「馬鹿な……。今の僕は、財産も地位も名誉も……何ひとつ持たない男だ。エマ……君を幸せにする力なんてもう僕には……」
「ルカは私のことを財産や地位や名誉に恋するような女だと思ってるの?」
「いや、そんなことは思っていない! だが、君の幸せを……僕は……願って……」
エマは一歩踏み出し、ルカの冷えた手を取った。
「兄さんと競い合っていたあの頃の情熱も、革命で中立を貫いて誰の血も流さなかったあなたの高潔さも、何ひとつ、失われてなんかいないわ。私には、それだけで十分なの。あなたと一緒にいることが私の幸せなの」
大切な妹のその言葉を聞いたテオは長い沈黙の後、深く溜息をついた。
そして、胸に付けていた新政府の記章を外し、ひとりの男に戻って、そっとルカの肩に手を置いた。
「ルカ、友として頼む。俺の妹をよろしくな」
「……テオ。君まで……分かった。必ず、エマを幸せにすると誓おう」
二人の男は、かつて学校の図書室で交わしたような、熱い握手を交わした。
それは、身分や政治を超えた、魂の再会だった。
船の汽笛が鳴り響く。
エマとルカは、タラップを上がり、甲板から小さくなっていくテオの姿を見つめた。
「愛してるわ、ルカ。どんなに時代が変わっても、私が選ぶのはあなただけ」
エマがようやく口にした愛してるという言葉は、霧の中に溶けることなく、力強く響いた。
ルカは彼女を抱き寄せ、その額に優しく口づけをした。
「僕もだ、エマ。君がいない世界なんてもう、考えられない」
船は静かに港を離れ、境界の地平線へと向かう。
エマは船首からの風で乱れる髪を押さえながら、ルカを想う。
(……革命のお陰で私はルカと結ばれたわ。殺されてしまった王様や王妃様には悪いけれど、革命が起きて本当に良かった……)
ルカのわずかな資産では、二人で生きていくにはかなり厳しいかもしれない。
でも、エマは贅沢な暮らしなどこれまで望んだことはない。
ただ、自分の初恋の人のそばにいたい。それだけなのだ。
革命が起きても、身分が変わっても……エマの想いだけは変わらなかったのだった。




