05
今ダイニングにいるのは、二人と使用人が一人。
アストメリア伯爵夫人は我関せずと終始無言で食事を続けていたが、隣に座る彼女の夫であるアストメリア伯爵は絶大なショックを受けていた。
糸が切れた人形のようにすとんと座って、ずーんと落ち込んだ様子で机の上に肘を突き、組んだ手に額を付けて俯いている。
そんな自身の夫を暫く放置してみたが、らちがあかないと思った夫人は呆れた息を零す。
「…もう、あなたたち本当に不器用ねぇ。さみしいから帰ってきてって素直に言えばいいのに」
もう、とむくれながらも黙々と食後のお茶を啜る夫人は、重たいため息を吐いて項垂れる自身の夫に困ったような顔で微笑んだ。
構うな、とはっきり言い切った後さっさと出て行った末の娘の顔は、言いたいことを言ってすっきりしたというよりも、苦渋が滲んだ顔だった。きっとあの子は言った端から後悔していたに違いない。そういう子だ。
自分の至らなさが、事実誰の所為であったとしても、人の所為にはできないのだ。
だからこそただのやっかみだと思う自分の気持ちを、今までずっと隠していたに違いない。
けれどそれを親はなんともしてあげられない。彼女が自分で、自分の納得できる道を見つける以外に方法はないのだから。
歯痒い気持ちはあるけれど、自分たちができることは道を間違えそうになったときに叩いて気付かせてあげることくらいしか無いのだ。
フレアに関しては、いつしっぺ返しが来ても仕方ないことをしていたのは事実だし、庇ってあげる気はなかった。青天の霹靂みたいな顔をしていたが、あっちはアイザックに任せておけば問題ないだろう。
だからどちらにも口を出さない。喧嘩両成敗だと思う夫人は、娘たちを甘やかす気は毛頭なかった。
…それにしても、アイザックのあの顔こそ見物だった。
しっかりと全員の顔色を見ていた夫人は、罵声を浴びせられた本人以上に驚愕していたアイザックの顔を思い出してちょっと口端を持ち上げる。
暴言も暴言。『あんた』に『馬鹿か』ときたもんだ。なりふり構わないその口に、ちょっと清々しい気持ちになったのだが、純粋な貴族様にとってはそれこそ青天の霹靂だったのかもしれないなと思う彼女は、おかしくて仕方なかったのだ。
「…君は寂しくないのかい?」
けれど、アストメリア伯爵はそんなこと気付かない勢いで沈んでいた。
両肘を机について、組んだ手で額を覆っていた伯爵はそんな陽気な妻の言葉にちらりと横目で不思議そうな視線を向ける。
「私ですか? うーん…それが子供の成長につながるなら、寂しい気持ちもきちんと受け止めますよ。それに、…ふふ」
「…?」
何か言いかけて楽しそうに笑う妻に首を傾げた。
「私には貴方がいますもの。…私としては、子供ばかりに構っていないでちょっとは私のことも構って欲しいです」
むう、と少し戯けてむくれて見せる妻に、思ってもいなかったその言葉にきょとんと瞬く。
そうして改めて、きっと彼女には一生勝てないのだと思ったアストメリア伯爵は、少しだけ面映ゆく笑って愛しい人の頬にキスをする。
そんな伯爵に、彼女は優しげに微笑んで見せた。
「…大丈夫ですよ、心配しなくても。あの子随分と逞しくなったもの。やっぱり、娘は成長が早いわねぇ」
寂しいわと、大して寂しそうではない口調でおどける妻に、アストメリア伯爵はその横顔を見ながら思う。
この妻は、いつも物事を悲観的に考えない。前向きで、楽しげで、いつもそれで何もかもを乗り越えるのだ。思えば、末の娘はこの妻に一番似ているかもしれない。
平民上がりの妻は、最初こそ貴族社会に慣れずに大変な苦労したことだろう。末娘と同じように、四方からやっかまれたことも数知れないほどあった。だからこそ、あの子の気持ちが痛いほど分かるのだろうと思う。だからか、あまり無理を強いらないのだ。
そしてそれを伯爵自身もきちんと分かっていた。
でもこの人はいつもそんなこと微塵も感じさせないほど、笑顔で前を向いていた。
そして、嫌なことを言われて腹が立ったときはそれを隠さない。どうしてあんな風な言い方しかできないのかと憤慨するけれど、決して相手を貶める言葉は使わないのだ。そして一通り文句を言うとすっきりするのか、長々と引き摺らない。
人の手を借りずとも、自分で一歩を踏み出す強さを持っている。
そんな潔いところはそっくりだが、彼女を心配していたときと同じくらい、末娘のことが心配で仕方ないのだ。
けれどあんな爆発の仕方をするほどため込んでいたなんて思いもしなかった。そこまで追い込んだ一端が自分にあると気付いた以上、伯爵の気分は到底浮かばない。
嫌ならば結婚などしなくてもいい。引きこもっていてもいいが、危ないことだけはして欲しくない。それだけなのだ。
…まあ、結婚するならしてくれるに越したことはないとも思うのは複雑な親心故なのだが。
それを言うと妻は「あなた分かってないですねぇ」と少しだけ呆れた顔をした。
「あの子は、別に結婚が嫌なんじゃないですよ」
訳知り顔でそういう妻の言葉は、自分には全く理解できなかった。
ならばなぜたった一言であんなに吠えたというのか。
「そりゃあなたがしつこいからですよ。だいたいそれはあなたの方がよく分かるでしょう? 『伯爵家らしく』と耳に蛸ができるほど言われてきたのは、あなたの方ではありませんか」
その言葉の意味に気付いて目を見張る伯爵に、夫人はにこりと微笑んで続けた。
「それに、あの子が結婚を嫌がるのはそれそのものにではなく、相手に問題があるからですよ」
「…どういうことだ?」
なんだか打ちのめされたような気分で、それでもその先が知りたくて意味が分からない伯爵は問いかけたのだが、彼女は「うーん」と考えた後、笑って誤魔化した。
「イラニア。私、あなたと一緒になれて幸せなんですよ」
「…なんだ、いきなり…」
頬杖を突いて横にいる彼女を見ていた伯爵は、ぽかんとした。
こっちの方が照れてしまうほどほんとうに幸せそうに笑うから、いきなりなんだと思ってしまった。でもそれは、なんでも人に答えを求めるなと言う妻の手厳しい言葉だったと後で気がついた。
「確かに最初は大変でしたけどね。でも、私はそれも楽しかったんです。そりゃ腹の立つこともありましたけど…でも、それだって、あなたがここまで引き上げてくれなかったら一生経験できなかったことですから」
懐かしむように目を細めて言うその横顔は、年こそ取ったものだったけれどあの時と全く同じだった。
自分が惹かれた優しい顔だった。
「あの子にもそう思って欲しいんです。大好きな人と一緒にいるのは幸せなことだって。それはあの子にしか見つけられないんですよ」
「それはそうだが…」
「それに、私は経験は財産だと思っています。目には見えませんが、それでも経験したことは覚えている限りそれはずっと自分のものです。私のつらかったときの経験も、それがあるから今の私があるんです。あの子が今、手に豆を作ってやっていることも、あの子のこの先必ず意味のあるものになります。…心配なのは分かりますが、もうちょっとだけ、見ているだけにしませんか?」
穏やかに真剣な顔でそう言われては、反論などできなかった。それを分かっていて彼女は言っているのだから端から負けたも同然だった。
そもそもこの人に勝てたことなど一度もないのだ。
盤上遊戯もカードも、そんな遊戯でさえ自分より器用にこなしてしまうこの人には、さっきだって一生勝てないと思い知ったばかりだった。
そうしていつもこっちまで嬉しくなるような笑顔をくれるのだ。
「大丈夫です。あの子は賢いもの。きっと本当に助けて欲しいときはそう言ってきてくれますよ」
行き場のない気持ちを、しょうがないなという思いを込めてため息にしたところで、目の前の人は再びふふ、と楽しそうに笑った。
「それに、あなた知っていますか? フレアやゲイルより、フレディの方がずっと人を見る目があるんですよ」
そういう夫人には分かっていた。
納得できないのは見えてしまうからだ。見なくていいところに気付いてしまうから、受け入れられない。
見えない人は気付かないから、多少行き違いがあっても大して気にしないのだ。深く考えない人は、躓いたとき楽な方に逃げることを優先する。そして平坦な道を生きていくならば、その方がずっと幸せだということを知っていた。
貴族の世界では損な性格だと思うけれど、だからこそ掴めるものは大きいと確信していた。
見てくれではない、本当に自分と一緒に寄り添って生きていける人を見つけられるまで、好きなだけ足掻いたらいい。喚きたかったら喚けばいいと思っている彼女は、初めて声を上げた娘を見て少しだけ嬉しく思っていたのだ。
いつもいつも損ばかりの末の娘には、いろいろなものを見て、経験して、成長してほしかった。
いつも悲観的に小さくなるのではなく、それがなんであれ自分はこうだと胸を張れる強さを持ってほしかった。
そして、欲しいものは欲しいと自分から言える子になってほしかった。
自分の夫にさえ言ったことはないけれど、それが彼女の願いだった。その自分の願いを汲み取ってくださったあの方には、とても感謝しているのだ。
自分の感情を第一に、本当に自分が望む人と一緒になったらいいという結婚観は、この家では夫妻共に共通認識なのは今も変わっていないのだから。
「釣り合わないお馬鹿な男を無理矢理宛がうより、あの子が自分で手を伸ばす相手が見つかるまで、気長に待ちましょうよ。こういうのは、楽しみながら待つのが醍醐味というものですよ」
ふわりと微笑んだ彼女の顔には、その言葉が嘘ではないようにその時を想像しているのか好奇と慈愛が滲んでいた。
「う、うむ…だがな…」
それでも心配性を覗かせる自身の夫に、夫人はいつものように豪快に言ってのけた。
「だーいじょうぶですってばっ。またあなたが心配するといけないから黙ってましたけど、あの子昔っから身体だけは軽いんですから。川に落ちたって平気で戻ってくるし、木の上から降りてくるのだって朝飯前なんですよ? ある程度のことならひょいっと躱しちゃいますって。それに、今どき二十歳までに結婚しないと行き遅れ、なんて古いですよ。まだまだ全っ然平気です。というか、うちの子はみんな可愛いので二十歳だろうが三十路だろうが、行き遅れることなんかありませんよっ」
ばしっと小気味いい音を立てて夫の背中を叩く彼女は、終始にこにこしていた。




