04
「――じゃあ、なんなの?」
言葉を切って黙り込んだフレディに、そう言ったのは姉のフレアだった。
「私も知りたい。どうしていきなり仕事を始めるなんて言って、家を出たりしたの?」
そういうフレアの顔は、本気で心配をして、本気で知りたがっている顔だった。
優しくて思いやりがあって、いつもフレディを励ましてくれていた。そんなフレアの次の言葉に、フレディは自分でも信じられないくらいに憤然した。
「反抗したい気持ちは分かるけれど、私たちも貴女には帰ってきてほしいわ。貴女ともこの家で…昔みたいに、一緒に生活したいと思っているのよ。だから憂いがあるなら教えて欲しいの」
フレアの言葉を耳に入れるにつれて瞠目したフレディは、一瞬思考が停止した。
そして、言葉の意味を理解した瞬間にふざけるなと思った。
思わず何も考えずに、お前が言うなと怒鳴ってしまいそうになる気持ちをぐっとこらえる。
それを口にするのはダメだと思った。そんな自分勝手な気持ちで相手を傷付けていいはずがない。だってフレアは、姉はただ心配してくれているだけなのに。
(…心配って、なんの心配だっつーの)
瞠目した目に、虚ろな光が戻ったのが自分でも分かった。その目を伏せ、俯いたフレディは自分の心に自分でツッコんだ。
一体何を心配しているというのだ。
フレディが結婚できないことを心配しているのか? いや、そんなんじゃないだろう。
じゃあお家柄関係か。そんなことは間違ってもないだろうが、見窄らしく生活する身内がいれば自分にまで火の粉が来るからか。
はたまた、行き遅れれば伯爵家の名前に泥が付くという思いから来る心配か。
――ふざけるな。
「…ふざけないで」
――至った思考に、すべてがどうでもよくなった。
我慢することが阿呆らしくなったフレディは、もう体裁なんかどうでもよかった。親が見ていようが義兄がいようが知ったことか。
呟いた声は小さなものだったけれど、怒りに抑えたそれは低くしんとした空間には驚くほど響いてしまった。
それに驚いた顔をしているフレアの態度が、必要以上の文句を口にしても仕方がないと諦めていたフレディの琴線に触れてしまった。
何も知らない顔をして、そんなことをフレアにだけは言われたくなかった。
はっと乾いた歪笑は、皆が、おそらく親でさえ見たことないフレディのその様に、一様に驚愕している中、空しく霧散した。
「何言ってんのよ、馬鹿じゃないの。反抗? …反抗ってなんだよ」
「…フレディ?」
ぼそりと呟いた言葉はきっと聞こえなかったのだろう。首を傾げるフレアの顔には疑問の色が浮かんでいた。
まるで何も悪いことなんかしていないという態度に、表情に、虫唾が走った。
ぎり、と音がするんじゃないかと思うほど歯噛みした。
「――あんたに…、っあんたに何が分かるって言うのっ!!」
ガタンッと椅子を引き倒して勢いのままに声を荒げると、目の前に座るフレアはびくりと肩を揺らした。
その姿は今の怒りに支配されている自分が見ても庇護欲をそそられるもので、それが余計に癪に障った。
苛立ちのままに口を開こうとした途端に制止がかかる。
「やめないか! なんだその口の利き方はっ、だからお前は慎みが足りないと――」
同じように乱暴に椅子を引いて立ち上がった父親に怒鳴られた。けれどそんなことも今のフレディにとっては制止の力にもならなかった。
声が上がった方に瞬時に強い視線を向けると、熊のような風体の父親が怯むのが分かった。言いかけた言葉を途中で引っ込めた父親を、フレディは容赦なく切って捨てた。
「口挟まないで! いまそこ必要!?」
「…っう」
あまりの剣幕に、滅多に会話に反応を示さない使用人でさえ驚いているが、今のフレディにとってはそんなこともどうでもよかった。もう知らない。
誰もが口を挟めない空気に任せて、視線をフレアに戻したフレディはぎゅっと眉間を寄せる。
たったそれだけで泣きそうに目に涙を溜めるフレアを、睨む勢いでその姿を射貫く。
なんでそんな被害者みたいな顔をされないといけないのか、フレディにはまったく分からなかった。
「あ、あの…わたし、何か……っ」
気に障ることを言ってしまったか、と震えた声で両手を胸の前で握るフレアの目には、その顔が俯いていても分かるほど涙が溜まっていた。
今のこの状況を見たら、きっと誰もがフレアを擁護するだろう。
怒りに感情を顕わにするフレディに、父親と同じように姉に対して暴言を吐くなど令嬢としての慎みはどうしたと詰め寄るに違いない。
そもそも激昂など、令嬢にあるまじきことだと嫌悪するだろう。
――それがどうした。
「…気に障る…? そうね。あんた別に何もしてないわよ。今だって善意のつもりで言ったんだって、悪いなんてこれっぽっちも思ってないんだって分かってるよ。本当に私に帰ってきて欲しいって、一緒に生活したいって思ってくれてるんだね。…でも」
説明できない苦さが迫り上がってくるのを感じて、無意識に眉間を寄せる。
苦しくもあって苦くもあるこの感情がなんなのか分からないまま、ぎゅっと握った拳にさらに力を込める。一つ瞬いて、真っ直ぐフレアを見据えた。
「善意だったら何やっても許されるなんて思わないで。ていうか、なに『何も知らねぇ』って本気で思ってんだよ。いい子ぶらないでよ。それとも何? あんたの目には、どうでもいいことは映らないわけ?」
言っている途中で今度は鼻の奥が痛くなってきた。つんとした痛みが引かなくて、目頭が熱くなる。
(…分かってるよ)
こんなのただの八つ当たりだ。
でももう止まらない。
「あんだけ人が笑われてんの傍で見といて、よくそんなこと平気で言えるよな。実際に面と向かって言われてたんでしょ? 『あんな妹で大変ですね。それに引き替え貴女はすばらしい』って。あんたそれになんて返してたの? 私が、それを知らないとでも思ってた? …なのに、なんで? どうして? だと? …ほんっと、神経どっかに落としてきたんじゃないの? 無神経すぎるだろ! あんたはそんなつもり無いのかもしれないけどな、いつもいつも! 私がどんな気持ちだったか、考えたこともないんでしょう!? なのに、反抗だと…? ふざけるな、分かった風に言うなよ…っ!」
絶対に泣くもんかと目に力を込めるあまり、いっそう凄んだような目になっていたかもしれない。
声だって正常な状態とは思えないほど、最後の方は情けなくも震えた声になってしまっていた。
別に自分は反抗しているわけじゃない。ただ惨めな思いをするのはもう沢山だと思っただけだ。
家にいてお淑やかにしていても、結局フレアの引き立て役だった自分には彼らの今の言葉が全く理解できなかった。一体自分に何を望んでいるんだ。
伯爵家の人間らしく振る舞って、良縁を結べば満足なのか。
ならばそこに、自分の気持ちは存在するのか聞きたかった。
一生『劣化品で我慢する』と思われて過ごせとでも言うのか。
そんなのは嫌だ。
――いつも、いつもそうだった。
好きな人ができても恋人になっても、結局最後は『所詮劣化品はつまらない』と言って放り出される。そうして必ずそれらの人はフレアに言い寄るのだ。
確かにそう言われる要因を作った一端は自分にあるけれど、でもそれならばどうして皆が皆、姉に目を向けるようになるのだ。
分かっている。そんなの、どうせなら美人の方がいいからだ。
皆似たり寄ったりでつまらないならば、目に良い方がいいに決まっているからだ。
好きじゃないだけならまだいい。それは自分が至らなかっただけだから。でも、必ず姉と比べられることは苦痛以外の何物でもなかった。
姉と自分の容姿に優劣があるのは分かっている。比べられるところがあっても仕方ないことも、きちんと理解している。
当然だ。それが人間で、それが感情というものだ。
でもそれは、千差万別であるべきだろう。
そうある人とそうでない人がいていいはずなのに、どうして自分と姉に関してはそうじゃないのだろうか。
そしてそれが側にあればあるほど、目について仕方なかった。
…それでもはじめは、頑張った。頑張る、という感情の時点で間違っていることは薄々気付いていたけれど、それでも、向けられる言葉を素直に信じていた。可愛いねも、好きだと言ってくれるその言葉も。
でも、次第に分からなくなった。
なんの為に自分にその言葉を言ってくれるのか、なんの為に自分はそれを信じるのか、分からなくなってきたのだ。
人の目というのは不思議なもので、慣れてくると段々分かってくる。本当に『こっちで我慢している』人と『姉に近づきたい』人のどっちなのか。
そしてそのどちらも、フレディのことなんか見ちゃいなかった。
不出来なことを責められて、側にある優れているものを賞賛する。まるで、お前もそうあれと言わんばかりに。
イーサンが良い例だ。劣化品だと目に付くのは、すぐ傍に比較する対象がいつもあるからに他ならない。
それに気付いてからあまり外に出たくなくなった。姉と一緒にいたくなかった。
それはよくないことだと分かっていたけれど、当時は荒んだ気持ちの昇華方法がそれしか思いつかなかったのだ。
小さい頃はそれでよかった。見たくないものは見なくてよかったから。けれどすべてを遮断することはできなくて、そんな視線を受ける度にいつも同じ気持ちが涌き起こる。
どうしてこんなに違うんだ。
見てくれだけの話じゃない。性格も考え方も、どうしてこんなに差が生まれる。たかが数年生まれる年が違っただけなのに。
…どうして、自分はフレアのようにできないのかと。
「…っ」
本当は分かってる。そんなのはただの我が儘だと。
別に好きでもない相手と家の為に結婚する人だっているし、ちょっと前まではそれが普通だった。
それが貴族の世界だから。親も姉も何も間違ったことなんか言っていない。
そんなことは分かっている。
それを受け入れられない自分がおかしいのだと、ちゃんと理解している。
けれど理解できても納得はできなかった。
…本当は、あんなにも迷いなく『良家の為に結婚する』と言えるサンドラが羨ましかった。自分もそう思えていたら、きっとこんな気持ちにはならなかっただろう。
たとえ自分の夫が本当は何を見ているか気付いても、それを上手く昇華できたはずだ。
でも自分は馬鹿だから、それができない。器用じゃないから、それでいいと思えない。
でも、それはフレアのせいじゃないことくらい分かっている。
だけどそれを分かっていても、この感情をどこに捨てていいか見当も付かなかった。
…捨てられないから、いつまでもずっと澱のように堪るばかりだったのに。それを見ないことで捨てた気になっていただけだった。
きっと無意識のうちに理解していたのだ。
森にばかり遊びに行っていたのも、引きこもって友達を作らなかったのも。
そんな風に姉と行動を違えるようになったのは、彼女の近くにいるとそんな自分勝手な気持ちがいつか爆発すると分かっていたのだ。
ぎゅっと眉を寄せる視線の先には、それこそ血の気が引いたような顔色があった。生まれてこの方怒鳴られたことも、罵倒されたこともないフレアは恐怖さえ感じていたのかもしれない。驚愕に言葉もない様子で、震える手を胸の前で握りしめていた。
けれどフレディもそれ以上の言葉が出てこなくて、でも涙なんか見せたくなくて、くしゃりと前髪をかき混ぜて歪んだ目元を隠した。
「――お願いだから、もう構わないで」
あの幸せそうな姉の顔を見て、ようやく気がついた。
自分が手にできないものを当たり前みたいに入手できるフレアが、自分にないものを持っているフレアが、堪らなく厭ましかった。
そんなこと、一生気付きたくなかった。