19.セオドア視点
第一騎士団での仕事に明け暮れて、心身ともに疲れていた。本来ならば、オークウッド卿に疑われている状況と秋の狩猟大会が近い状況でここに来ることなどしない。だが、耐えられなくなっていた。神経を擦り減らしていく日々に、己が壊れそうになる。どうしたらいいのか、分からなくなっていた。
旧貴族の廃城に、尾行がいないことを確認した後にやって来た。オークウッド卿の疑念は晴れていないため、恐らく泳がされているのだろう。尾行を付けていないことから見て、秋の狩猟大会が私達の目的であることも分かってのこと。それまでは事件を起こさないだろうと判断されていると見て間違いない。
ならばいいだろう。もし万が一このぐらいのことで私が捕まろうと、彼女さえ後夜祭の宴に出てくれさえすればいいのだから。
彼女の寝室の前まで足を向けて、ふと足を止める。悪魔とはいえ、トリクシーの体である以上、休息は必要だ。今頃寝ているだろうに、何故、このように夜も更けた時刻に来てしまったのだろう。
せめて顔を見て帰りたい。だがそれはやめて置くべきか、と踵を返そうとするが、中から声が聞こえてくる。まだ、起きていたのか。
思わず扉に手を置いたが、決して入ろうと思ったわけではなかった。立て付けが悪いのか、力も入れていないのに開いてしまう。ゆっくりと、室内の状況が見えてきた。
「アリア様、どうか」
「おやめ、私は疲れているの。どきなさい」
一体何が起きているのか。何を見ているのか分からない。ただ、椅子に腰かけている彼女に覆いかぶさるようにあの侍女が服を乱して迫っている。それを煙たがる彼女に対して、侍女の方は必至な表情だ。
これは一体、どういう状況なのか。
「嫌です。アリア様を満足させられるのは私だけ。決して、あの人間などでは」
「お黙り」
怒りを滲ませているわけではないが、とてつもない威圧感を与える言葉に、遠くにいるはずの私でさえも身動きできなくなる。これが、絶対的強者の能力。逆らうことを許さぬ威厳なのか。
直にそれを感じたであろう侍女は、何故か恍惚の表情を浮かべながら身を引いた。謝罪を述べてそのまま部屋の外へと出て行く際、すれ違い様に憎々しげに睨まれる。
乱れた服を整えることもせず、侍女は闇の中に消えていった。だからこそ、私はどうすればいいのか分からない。あの侍女は、彼女の側近として常に傍にいると同時に、彼女のことを愛しているのだろうか。
もしそうだとすれば、私はこのことをどう受け止めればいいのだろう。私の中で芽生えた感情は、私自身でも信じ難い、宿ったばかりのものだ。苦楽を共にしてきたであろう彼女達には、遠く及ばない。
悪魔にとって、性別はないに等しいと以前聞いた。彼女はあえて魔王が作ったままの姿でいるのだというが、その気になれば見た目はいくらでも変えられる。そうだとするならば、あの侍女も性別を変えられるのだろうか? ならば二人は、私が知らぬだけで……
「いつまでそんなところで突っ立っているつもり?」
何か用事があったんじゃないの、と彼女に聞かれて、扉が開いて室内が見えているのだから、向こうから私が丸見えてあることに気付く。それ以前に、彼女ならば扉越しでも私のことが分かったかもしれないが。
ためらいながら室内に入る。受け止めきれない現実と可能性の事実に混乱し、まったく頭が回らない。そんな私をどう思ったのか、彼女は溜息を吐きながら立ち上がり、窓辺へと向かった。
「リリスのアレは病気だから、気にすることはないわよ」
「病気、とは?」
聞けば、あの侍女には耳を覆いたくなるような過去があった。悪魔の世界の事情など、私には関係ないものだと考えていたが、それとこれとは違う気がする。それが魔界の掟だとしても、あまりにも酷いのではないかと眉間に皺が寄る私に対して、彼女は言った。
「悪魔の世界は実力主義。力のないものは食われて終わり。悪魔に生まれるということはそういうことよ。お前達人間とも通じるところがあるわね?」
家柄がものをいう部分はあれど、実力を兼ね備えた者にはそれなりの地位が約束される。とは言え、それがすべてというわけではないことは、義賊の案件で明るみになった。
人間の醜い部分が剥き出しとなり、圧政に苦しんだ者達は喜び勇んだであろう。しかし、一人消えたところで再び後釜が名乗り出るだけで、根本は変わらない。力を持たねば、奪われるだけ。
「最下位悪魔が下位悪魔の餌食となって蹂躙されようが、生き残ったものの勝ちよ。最後に勝てばいいの。そんなことより、何をしに来たの? 普段慎重なお前が、随分と軽率ね」
それを言われてしまうと何も返せない。理由があって来たわけではない。ただ顔が見たかっただけ、だなんて彼女には通じないだろう。
何も言えず視線を落とす私を彼女は下から覗き込んだ。
「また、寝ていないのね?」
まったく人間という生き物は不便だ、と彼女は溜息を吐く。再び離れて行こうとするのを思わず後ろから抱きすくめた。彼女から漂うクロラの香りのせいなのか、彼女への愛おしさなのか、この行動の意味を説明できない。
それでも、今はこうしていたいと思ってしまった。どこにも行かず、腕の中にいてくれと……
しばらくそのままでいると、彼女は余程ベアトリスが恋しいのねぇと言った。トリクシー? 違う、今のはそういうことではなくて。
腕の力が緩んだ隙に、彼女は私から離れて向き合った。
「ベアトリスを呼び覚ませられるかも知れない奴がいるから、それまで待つのね。まぁ、あいつがいつ目を覚ますかまでは分からないから、気長に待って貰うことになるかもしれないけど」
私の行動が、自分に気持ちが向いているからだとは考えていない彼女。トリクシーへの気持ちがそうさせるのだと思っているようだ。それは、恨み憎しみ嫉妬などの憎悪や敵意に対してのみ鋭敏な感覚を持った代償なのか、愛情に関する感情への欠落が伺える。
もし万が一、私の気持ちがトリクシーではなく彼女へ向いていることを知ったら、どうなるのだろうか。不快に思う? 煩わしがられる? 分からない。だが……
窓辺へと歩いて行く彼女。外を見ながら口を開く。
「少なくとも、もうすぐこの件は決着が付くかしらね? 下位悪魔如きが上位悪魔に牙を剥くなんて……二度とそんな気が起きないよう、嬲ってくれるわ」
怒りを滲ませる彼女だったが、私からは表情を確認できない。しかしどこか、憤りよりも悔しさが滲んでいた気がする。悪魔としての信念を貫く彼女からすれば、人としての人生を生きなければ力を取り戻せないことは屈辱だっただろう。しかしそれを受け入れその日を待っていたというのに、こんな形で縛られたのだ。
握られた拳が雄弁に語る。
その拳に手を添えて、力が抜けたのを見計らって手の甲に口付けるため膝を折る。トリクシーの繊細な手。しかし、今この瞬間に誰のために唇を寄せたのかというと……
彼女の顔を見上げた。驚いた表情を浮かべた彼女だったが、すぐに妖艶に微笑んだ。トリクシーの顔で、トリクシーではない表情を浮かべる。複雑な感情が渦巻き、自分自身の心が分からなくなる。それでも私は、今は、今だけは、彼女のために生きたいと思った。彼女の傍にいたいと、強く願う。
近付いてくる彼女は、私の首に両腕を回しながら言った。
「私の眷属になりなさい。そうすれば、お前の欲しいものをくれてやるわ」
そこに誘惑するような素振りはない。それでも、彼女の瞳にはお前を寄こせと書いてある。求められている、というだけで心は満たされ、もっと求められたいと思う。今ならば、あの侍女の気持ちが分かる気がした。彼女に望まれるということは、とても光栄なことなのだと。
彼女の言葉に了承の意を示すように唇を己のそれで塞げば、応えるように食んでくる。ぎこちない動きに愛おしさは増し、完全に理性は飛んだ。
欲しいのは貴女だ、アリア。貴女を私にくれ。




