10.ドロレス視点
私には、とても大切な友人がいた。美しく可憐で、誰に対しても優しい令嬢の鏡のような女性。身分を問わず人を大切にし、時には服が汚れることも厭わず地に膝を付けて孤児と目線を合わせる清々しく高潔な姿。
もう、あんなにも穢れなき女性は現れることはないでしょう。美徳というものを体現できる、素晴らしい女性は。
「ドロレス、ちょっといいかしら?」
「はい、お母様」
刺繍をしていたら、お母様が部屋に入ってきた。手には何やら手紙のようなものを持っていたけれど、何かあったのかしら?
身重な私にお茶会の招待状が届くはずもないし、お母様宛の招待状なのかもしれないわ。けれど、どうしてそんなに嬉しそうなのかしら。
「今、王都で有名になっている占い師が占ってくれることになったのよ? 凄いでしょう?」
「占い師? 以前お母様がお手紙に書いていらした占い師のことですの?」
「えぇ、そうよ」
それは、一年も前の話ではなかったかしら? それなのに、今になってやっと占ってくれるというの? 予約の取りにくい占い師だとは聞いていたけど、そんなに時を必要とするだなんて。
そう勘違いした私に、お母様は違うのよと仰った。どうやら、以前予約した際にお母様の都合で会うことが叶わなかったらしく、お詫びの品を送ったところ、向こうから一通の手紙が届いたのだそう。次に占う日には恐らく、お嬢様の幸運を占うことになるでしょうと。
対面せずに予言のような占いをされてお母様は驚いたそうだけど、その後はとにかく忙しいことが続いて占い師のことは忘れていたみたい。けれど今回、私の帰省に伴いそのことを思い出して予約を入れてみたところ、幸運なことに今日会えることになったのだとか。
「是非ともお嬢様も一緒に、と書かれているのだけど、どうかしら? 一日に一組しか占わないから誰とも会うことはないのだけれど……やめて置きましょうか?」
楽しみになさっていたであろう占い師との対面を私のせいで断念しようとなさっているお母様に、躊躇する。来客がある度に部屋に籠り、あまり部屋の外にも出ない私を気遣って下さっているのでしょう。
ダンフォースとの破談で王都に居場所をなくし、皇帝陛下の計らいで新たな婚約話が進んでそのままキッシンジャー伯爵家に嫁いだけれど、今でもあの場の人々の視線を思い出す。ダンフォースの軽蔑の表情よりも、社交界の人々の射るような視線が思い出されて今でも怖い。
そんな私の恐怖心をお母様は敏感に感じ取っていらっしゃるのだわ。けれど、いつまでも怯えているわけにもいかない。ここから一歩歩み出て、強い女性にならなくては。
「いえ、行きましょう。私も楽しみですわ」
私の答えに胸を撫で下ろすお母様。本当に、心配ばかりかける駄目な娘ね。
不安がないわけではないけれど、どうしてか会ってみたいという気持ちになってしまう。手に取った手紙から香る懐かしい香りのせいなのかしら。
ベアトリスが大好きだった、クロラの花の香りがする。
何もかもが不安だった日々の中で、心の支えになってくれたのはベアトリスだった。ダンフォースの様子がおかしくなってからというもの、私の心は晴れることはなく、まるで暗闇にいるかのようだったけれど、彼女はずっと私を励ましてくれた。
見目麗しい男性ばかりがある令嬢に心を奪われる、そんな悲劇が社交界で巻き起こる中、そのことに心を痛める令嬢を支え、悲しみと嫉妬に震える淑女達の心に寄り添ってくれる。皆が嫌悪を表す中で、ベアトリスだけはアディントン男爵令嬢を憐れんでいた。彼女は悪魔に憑りつかれている、と言って……
悲観する私には、ベアトリスの言っている意味が分からなかった。
アディントン男爵令嬢は、令嬢らしからぬ礼を欠いた振る舞いで幼さを感じるけれど、人を惹き付けるほどの特別な魅力を持った女性かと言われるとそうではない。我儘を通す姿勢には皆が呆れ、陰で嘲笑されていた。
それなのにも拘らず、何故か男性達は異常なほどの執着心を見せている。かつては目を合わせるだけで険悪になっていた党派の違う人達でさえも、彼女の前では露ほどもそんな態度を見せることはない。それだけを見ても、異様な光景だったと言える。
この帝国内において、強硬派と新興派の二派は常に対立していた。血筋と家紋の歴史こそすべてな強硬派と、強硬派の暴利に苦しめられた経験や損得勘定でしか相手を見られない新興派の牽制は、とても見ていられないほどの誹り(そし)合いとなる。穏健派や中立派な貴族は、その対立に関わることを嫌って敬遠していた。
その最中、アディントン男爵令嬢がデビュタントを迎える。それがすべての悲劇の始まりだった。私にとっては、悪夢の始まり。
数日前から体調を崩し、参加を辞退していた私の元に届いた知らせは私を絶望させた。ダンフォースの心変わりの知らせだった。私の体調を気遣った手紙をダンフォースから受け取ったその翌日に、まさか天国から地獄へと突き落とされることになるとは思わず、泣き崩れる日々を送る。
初めは信じられず、徐々に真実味を帯びて私を苦しめ始めた頃には、彼からの手紙は一切届かなくなった。
ダンフォースのご両親も彼の心変わりには大変ご立腹され、目を覚ますよう何度も説得されたけれど全く聞く耳を持たない。彼への風当たりはアディントン男爵令嬢に心酔していく度に悪くなるけれど、剣士としての実力が彼の行動を止められない大きな要因となっていた。
彼のご両親が、婚約者である私を蔑ろにしている以上に強く怒っていた理由は、クロムウェル侯爵家が強硬派だったから。そして、アディントン男爵令嬢は新興派。彼の行動を心から許せない理由はそれだった。
新興派を忌み嫌い、血筋以上に確かな王族への忠誠心と帝国への貢献はないと考えているのはダンフォースとて同じ。だからこそ、貴族としてのプライドの高いダンフォースがその状況下に甘んじているなどと、信じ難いものがあった。
けれど、当時の私はそんなことも考えられないほどの苦しみの中にいて、涙を拭うことすらできない心境のただ中にいた。中立派でありながら強硬派の家と婚約関係になることはとても勇気のいることだったけれど、そんな不安を感じさせないほどダンフォースは私に優しい。それだけが、将来クロムウェル侯爵家に嫁ぐとしても心を尽くして行けると確信できる唯一の希望だったのに……
もう昔のことだと分かっていても思い出すだけで苦しくなるのは、それだけの時間を彼に尽くしてきたから。今はもう彼への気持ちはないけれど、彼を愛していた時間は確かにあった。
二度と戻ることのできない過去を憂えむのは、戦う勇気もなく退いた私にも罪はあると思ったから。流されるだけ流されて、何もしないままに失った。ベアトリスのことも、ダンフォースのことも、今も昔も戦うことすらせずに日陰の道を行く。
けれど、本当にそれでいいのかしら? この子のためにも、フレッドのためにも、私のためにも、一本の細い道ばかり歩いていていいの? このまま流れ流され目を背け続けたら、罰が下ってしまうのでは?
もしもあの時、勇気を持って歩み出ていたら何かが変わっていたかもしれない。今でさえ、逃げ続けている己自身に疑問を抱いている。正しい道は分からない。けれど、もしその道が存在するのだとしたら、私は今度こそ貴女を助けに行くでしょう。
ベアトリス・アークライト・アインツ公爵令嬢。私の自慢の親友にして、誰よりも高潔な女性。も高潔な女性。