第七話 だけど、の男
楽団関係の興行:ライブイベント、コンサートみたいなもの
毎度、こういう前書きを書かないと通じないと思っているのは私の文章が未熟であるが故です。生暖かくお付き合い下さい。
「ボドくん、ちょっとこれ持ってて」
レオンが軽い調子でそう言って、畳んだ服の束をこちらに押し付けてきた。
「アッシュだけど」
「ん、ああ、はいはい」
レオンは特に気にした様子もなく、そのまま作業を続けた。カインが来てからというもの、レオンは時々こうして、うっかりした調子で本名を口にするようになっていた。悪気があるようには見えない。ただの言い間違いか、あるいは、その程度の重みでしか「アッシュ」という名前を扱っていないだけなのか、ボドにはどちらとも判断がつかなかった。
言い返したい気持ちはあったが、実のところ、ボドにはレオンに対して強く出られない事情があった。
レオンは、この店の経営だけでなく、フェリシオンの楽団関係の興行の主宰も務めている。服屋の常連には楽団関係者やモデル、俳優が多く、その人脈をそのまま活かした形の興行だった。そして――あの夜、ボドが運命だと信じ込んだガルシオンの出演も、実はレオンが自分の伝手で呼んだものだった。
「あの日のガルシオン、レオンが呼んだのか」
以前、何気なくそう尋ねたことがあった。
「ああ、あれ? 知り合いの知り合いくらいの伝手で、無理言って出てもらった感じ。あの人本来、あんな小さい箱じゃ滅多に出ないから」
(え……)
その一言を聞いたとき、ボドの中で何かが微妙に軋んだ。あの夜の運命的な出会いは、突き詰めれば、レオンの人脈の産物だった。つまり、あの日ボドの人生を変えたはずの出来事の裏側には、常に「レオンのおかげ」という注釈がついて回ることになる。
そう考えると、多少呼び方が雑になったところで、強く文句を言える立場ではない気がした。あくまで客の一人としてこの店に通っている以上、機嫌を損ねて出禁にでもなれば、次にガルシオンが呼ばれる時に自分だけ蚊帳の外、ということも十分あり得た。
「アッシュだけど」
結局、口から出るのは、そのくらいの弱い抵抗だけだった。
「はいはい、アッシュくんね」
レオンは特に悪びれる様子もなく、笑いながらそう言い直した。だが、次に呼ぶときにはまた「ボドくん」に戻っていることを、ボドはまだ知らない。
店の奥から、二人組の客が顔を出した。
「レオン、この生地の新作、そろそろ入る?」
声をかけてきたのは、絵の具の匂いを微かにまとった女――フィオナだった。レオンの店の興行告知イラストを一手に手がけているだけでなく、フェリシオンの楽団・劇団関係の紙面にも度々名前が挙がる絵描きだった。この界隈で何かのポスターや装丁を頼むなら、まずフィオナの名前が挙がる、という程度には顔が知られている。
その隣には、渋い顔立ちの職人風の男、アルノが並んでいる。服の仕立てを本職としており、彼が卸している服の何着かは、店の一番目立つ棚に並んでいた。ここ最近フェリシオンで流行りだしている裾の切り方も、元をたどればアルノの仕事だという噂もあるくらいで、界隈の流行そのものを陰で作っている側の人間だった。
ボドにとって、この二人は単なる常連客ではなかった。この店に出入りする人間の中でも、界隈の空気そのものを作っている側の人種だ。こういう相手の前でこそ、きちんと「クールで寡黙な男」を演じ切らなければならない。むしろ今日出会えたのは僥倖に近い、とすら思っていた。
「来週入るよ。アルノのところの新作と一緒に」
「楽しみにしてる」
フィオナはそう言いながら、ふと視線をボドの方へ向けた。
「あ、その人が例の」
「例の?」
「いや、こっちの話」
フィオナは特に深く説明することなく、小さく笑ってごまかした。実のところ、彼女とアルノの間では、すでにボドのことが何度か話題に上っていた。理由は単純で、以前カインがこの店に居合わせた日、彼らはたまたま近くの席にいたのだった。
「ボドさん、でしたっけ」
「アッシュだけど」
律儀な訂正だった。フィオナとアルノが、ほとんど同時に目を合わせた。二人の間で、何かが通じ合ったらしい。
「いや、失礼。アッシュさん」
アルノがそう言い直したが、口元にはまだ小さな笑いが残っていた。
「その、寡黙な感じの喋り方、地元でもそうなんですか」
「……別に、普通に喋る方だけど」
「あ、やっぱり」
フィオナが小さく吹き出した。何がおかしいのか、ボドには正確なところが分からなかったが、少なくとも自分が笑われていることだけは、なんとなく察しがついた。
「二人とも、そんなに笑うことないだろ」
レオンが、特に助け舟を出すでもなく、軽い調子で口を挟んだ。だが、その言い方には、彼自身もこの状況を面白がっている気配が、隠しきれていなかった。
ボドは何も言い返せないまま、手元の服の束を抱え直した。多くを語らない男という看板は、この店ではすでに、看板としての機能をほとんど果たしていなかった。ただ本人だけが、まだそのことに、はっきりとは気づいていない。
「今度、フィオナのポスターのお披露目興行あるけど、顔出す?」
アルノが、話を変えるようにそう振った。
「行く!」
(顔売るチャンスだ……!)
食い気味の即答だった。フィオナとアルノが、また目を合わせた。
寡黙な男は、こういう誘いにだけは、いつも異様に反応が早かった。




