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可燃性少女短編  作者: 可燃性少女


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#SPILL!

#SPILL!

挿絵(By みてみん)


 響枷(ひびかせ)巡莉(めぐり)は、学校では絶対にしない派手なメイクと、日常生活では絶対に着ないメイド服を着て、カウンター越しの店内を眺めていた。響枷には「めぎゅ」とあだ名で呼ばれるほど巡莉という名前が沁みついていたが、この場所では「めると」と名乗っていた。

 ちらりと落とした視線の先、これでもかと装飾された手書きの「めると」が、居心地悪そうに名札に収まっている。

 どうやら、今日一人目の客は上客だったようで、開店から一時間で既にオリジナルシャンパンがぽん!と音を立てていた。癖付けていたので、巡莉はすぐに、壁際に設置してあるつまみを回して店内音楽の音量を下げた。

 シャンパンを貰ったのは巡莉───ここでは「めると」───ではなく、人気ナンバーワンを誇る嬢だった。

 ちーん、と間の抜けたベルの音がしたので、巡莉はすぐに視線を投げ、隣のカウンターで接客をしていた嬢からピースのハンドサインをもらう。巡莉のカウンターには誰も座っていなかったので、断る必要はなかった。

 店の奥にあるバーでショットグラスを二つ見繕う。手に取ったのが違う種類のグラスだったので、片方を仕舞って同じものを探した。巡莉は目端が利く方だったので、すぐに見つけてテキーラ───タランチュラ───を注いだ。メキシコ・ハリスコ州からやってきた竜舌蘭(マゲイ)の蒸留酒は、毒々しい水色をしていた。

 嬢を笑わせようと必死で道化を演じる客に、テキーラを運んできた巡莉の姿は見えていなかった。接客をしていた嬢だけが、巡莉に目線だけで感謝を送った。

───接客やってると、店員を人間じゃないと思い込んでる救いようのない馬鹿によく遭遇する。

 巡莉は、とうとうやることがなくなってしまったので、そんなモノローグを胸中で呟いた。

 本当であれば、客と繋がっているインスタで営業でもかけてこい、と言われるものなのだが、巡莉は接客以外では全く理想的な店員だったので、そうしてただ突っ立っているだけでも何も言われることはなかった。

 店用のアカウントとはいえ、気軽にインスタグラムを交換するのが受け付けなかった巡莉は、最初の方に交換して結局ブロックされた客の連絡先しか持っていなかったから、営業をかけろと言われても無理だった。

 意識を完全にニュートラルに入れて、困っている嬢やドリンクを頼んでいる嬢がいないか、それとなく確認していた。ぼんやりとしていても、見逃すことはなかった。すると、キャストが好きな音楽(可愛い曲調のもの限定)を追加しているプレイリストから、「ヒステリックナイトガール」が流れ始める。店内のそれなりに高価なDAMのスピーカーは、店の代表のスマホとBluetoothで繋がっていた。

 巡莉が追加したわけではなかったが、彼女はそれがお気に入りだった。

 いつも通りの退屈な勤務時間が、少しだけマシになったような気がした。

 入り口の扉が少しだけ浮き上がる。それは、誰かが扉に手をかけて、その立て付けの悪さに二の足を踏んだ合図だった。誰よりもそれを理解している巡莉は、「めると」を装いなおして扉の前に立つ。扉がゆっくりと開き、

「ぁ」

 ふわり、肩を零れ落ちた黒髪。


「ごしゅ───お嬢様のお帰りでーす!」


 「おかえりなさいませーお嬢様!」とキャスト総出のお出迎えコールが続く。

 扉が開いた余韻でりんりんと音を立てるドアベルの残響の中、その女は目を細めた。

 その仕草は、ともすれば機嫌を損ねた、感情に由来するような仕草に見えたが、巡莉はそれが、ただ音と光に起因する反射なのだとわかった。なぜ、なのかはわからないが、巡莉にはそういうことが昔からよくわかった。

 だからこそ、それだけではないのだともわかった。

 「ご主人様」を用意していたことを見抜かれた。

 巡莉は、どこか後ろめたい気持ちになりながらも、その女をカウンターまで案内した。物珍しそうに店内をぐるりと見まわした所作は、なにか幼稚に見えてもおかしくないはずなのに、その女は成熟した女性性を全く損なわないまま所作を完了した。

 飾り気のない白のトップスと、黒のワイドパンツ。肩にひっかけたジャケットのポケットには、ジェットストリームのボールペンが一本刺さっていた。典型的なオフィスカジュアルだった。

 おしぼりを差し出す間、巡莉はそうして節々を観察する。

 肩まで伸びている黒髪はカールしているものの、意図しているにしてはボリュームがない。眉がはっきり見えるほどに分けた前髪も、整えたわけではなくただ掻き上げただけ、のように巡莉には見えた。女が手首にはめているシュシュも、その想像を組み立てる重要なパーツだった。

「来られるのは初めてですか?」

 巡莉は、自分のキャラ付け───空回りしがちな元気っ娘───にチューニングした声で女を迎えた。女はまた、目を細めた。

 わかりやすい所作。本人は無意識なのだろう。完璧だった巡莉の擬態に、女はそうした反応をしたのかもしれない。巡莉は、そう思わずにはいられなかった。

 萎みそうになる声をすぐに持ち直し、いつもより矢継ぎ早にシステムと自己紹介を済ませる。自己紹介というのは「○○星からやってきた○○の妖精さんです♡」というフォーマットで行われる没入のためのファクターで、「○○」の中はなんでもよかった。名札を少しだけ持ち上げて「めると、って言います。」女の目元が、少しだけ和らぐ「めるち、って呼んでください」。

「はい、めるちさん。よろしくお願いします」

 へにゃ、と和らいだ女の笑顔に、巡莉は思わず目を逸らした。

 鋭い目元と綺麗に通った鼻筋。自分の物より彩度が高く見える口紅。女性にしては高い背丈。

「え、と、なに飲まれますか?」

 源氏名なのに、名前を呼ばれて心がそわりと戦いだ。どこか居心地の悪さを感じた。

 ビールを頼まれたので、バーの方にいたキャストにハンドサインを送る。もうほとんど形骸化しているようなものだが、巡莉だけは瞬時に示すことができた。

「めるちさんも、なにか飲みますか?」

 店内は、そこそこに騒がしい。

 せっかく流れていた「ヒステリックナイトガール」は、接客に夢中でほとんど聞き逃してしまったので、今は別の曲が流れていた。

 二次会で来たのだろう三人組の男性客は、セクハラ紛いのコミュニケーションで温まっている。

 それでも、その女の声は潰れるということがなかった。

 音が、壁のようなものだとしたら、彼女の声はそれをするりと通り抜けて、どんな柵さえも超越する。巡莉は、そんな大それた感想を呑み込んだ。

「いいんですか?お金かかるから、気に入った娘見つけてからでもいいんですよ?」

 客の懐事情に気を遣える健気な娘、という擬態の意味もあったが、めるとが吐いたその言葉は、おおよそ巡莉の本心と変わらなかった。

 キャストに酒驕るだけで二千円近くぶん取られるなんて、しかも淡麗だし、とは、巡莉の偽らざる本心だった。

 結局、女に勧められるまま一番安い千五百円のドリンクを貰った。

「お嬢様のことは、なんて呼んだらいいですか?」

 二人分のドリンクが運ばれてくるまでの間、ポイントカードにペン先を突きながら聞く。巡莉のその質問に、女は少しだけ表情を強張らせた。あるいは困惑だったかもしれない。

 そっと声を潜め、女は訊く。

「あの……これって、本名……とか、言う感じじゃないですよね……?」

「ぁ、……あ!も、もちろんですっ……その、呼ばれたい名前で全然!」

 巡莉が幻視していたその女の虚像が、微か淡くなる。恥ずかしそうに照れ笑いする女に巡莉が抱いたのは、この人本当に大丈夫だろうか?と心配する老婆心であった。笑うと少しあどけなさが出て可愛い、というのは、思っていないと思うことにした。

「私、果村(はてむら)っていいます。あんまり可愛くない名前だけど、いいですか?」

 おそらくは本名であろう名字を聞いて、漢字を教えて貰いながらポイントカードに書き記した巡莉は、名前の後ろにつけたハートマークを書き終えるまでの時間を使って思った。

───ぴったりの名前……。

 名字なのだから、そこには命名者の想いなどないはずだったが、巡莉はその姓が、彼女のために生み出されたのだとすら思った。

 そこからは、接客マニュアル通りだった。

 互いのドリンクが届いたので、ストーリーに投稿する用の動画を撮りながら乾杯した。いつもなら配慮しない画角も、なんとなく果村の指先や服が入らないように慎重になった。


 存外盛り上がった巡莉と果村は、隣の客が話していた話題をどちらともなしに拝借した。

 仕事の話。

「いままでずっとサボってたんですけど、Excel使わないといけなくなっちゃって。」

「あー……わたし、めっちゃ苦手です~」

 巡莉はそこで「妖精なのにExcel知ってるんだ?」という擦られまくった横槍が入るかと思ったが、果村はただ同意するだけだった。なんとなく肩透かしな気分になりながらも、巡莉は次を聞いている。

「エラーが出ちゃうんです。別に、やろうと思えば違う方法もあるんですけど、私、負けず嫌いで。どうしてもこのエラー、解除できないかな、って。」

 「へぇ、……エラーってどんなのがありましたっけ……?」と、巡莉はスマホを手に取った。現在時刻を確認したかったが、珍しくアップルウォッチを付けてくるのを忘れてしまったので、苦肉の策だった。別に調べずとも、「#VALUE!」のエラーは知っていたので、すぐにスマートフォンを置いた。といっても、巡莉が思い出せたのは「V」だけだったので、それだけで話を合わせる腹積もりだった。

 果村は目を細めて、小さく言った。

「スピル、ってエラー。」

 巡莉の脳裏をクエスチョンマークが席巻し、冷や汗が出る。

 本当に知らなかったので、「なにそれ、知らなーい」と甘えた声を出すことも、「あー、あれ!」と知ったかぶることもできなかった。咄嗟に、視線を投げた。

 隣のカウンターに座っていた客の肘が、テキーラがなみなみに注がれたグラスを押し、波打った水面からアルコールが跳ねる。


「こぼれる、あふれる、って意味なんだって。エラーの名前なのに、なんだかロマンチックでしょ?」


 動悸がする。呼吸が浅くなる。ぐっと、体温が上がる。巡莉は、自分の身に起きたそれを、いつもの癖で言語化しようとした。同時に、言語化しないようにもした。

 どうして、そんな顔で微笑んでくれるんだろう。

 店内の音楽が「キス・ミー・パティシエ」に切り替わる。

 軽快なギターのイントロ。

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

 しかし、巡莉に染みついた癖は、自身の探求をやめなかった。

 潜めた果村の声、柔らかな口調、子供っぽい微笑み。

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!


───あ、やっばい、わたし#SPILL!#SPILL!#SPILL!


#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!


───この人のこと、なんか


#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!


───すごく


#SPILL!

#SPILL!


───[#SPILL!]


#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!


───かもしれない


#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!

#SPILL!


挿絵(By みてみん)




挿絵(By みてみん)


 果村は、常連と言えるほどの客になっていた。

 初めて店に訪れたのが五月の末。六月も下旬になったところで、巡莉のトップランカーは果村だった。それ以外に巡莉に入れ込んでいる客がいるわけでもなかった。

 店は基本的に三組くらいの客がいて、それぞれがいい具合に入れ替わった。均せば三組くらいだったので、果村を入れて二組。あるいは果村だけになることもあった。つまりはそう忙しいというわけでもなく、九州の場末のバーという実情である。だから、果村がいないときの巡莉は暇であった。

 取り敢えずといった呈で入ってきた客に初期対応をして、その客のお目当てが空くまでの繋ぎをする。巡莉を指名するもの好きは果村しかいなかったから、巡莉のために誰かが繋ぎをやる必要はなかった。

 果村は、巡莉と飲んだ後は楽しそうにクレジットカードで会計を済ませ、伝票に書きつけられた───印字された───金額に眉を顰めることも、文句を言うこともなかった。酔って上気した頬の果村は、たまに呂律が怪しくなり、巡莉はそのたび、自身の性的嗜好について考えを巡らせる羽目になった。

 閉店時間が近づくと、果村は誰に言われるでもなく帰り支度をはじめ、巡莉もそれを引き留めることはなかった。すぐに会計を済ませ、店を出たところで次の約束を取り付ける。「次はいつ出勤ですか?」「27と28、あと29もいますよ!」本当はインスタグラムに出勤スケジュールを載せていたが、交換を申し出る勇気はなかった。

 エレベーターの扉が閉まるまで手を振る。それに果村も振り返す。気持ちよさそうな顔でいつも通りのさよならをして、果村はまた、明言したとおりの日取りで会いに来る。

 エレベーターまで一緒に着いてきた代表が「お気に入りだね。」と声をかけてきた。「そうですかね。」と返した自分の声の冷たさに、巡莉は、それが階下の果村まで届いてしまうんじゃないかと見当違いな心配をして、「すいません」と断り店に戻った。代表の男は、気難しい最年少のキャストに苦笑を溢して、きつく結んでいたネクタイを緩めた。


 閉店が夜中の一時。最終的に退勤するのが夜中の二時半から三時。巡莉は客よりも同僚に好かれていたので、年上の同僚に連れられて軽くご飯を食べて帰ることもあった。そういうときは、帰路につくのは四時から五時。そこまでいけば、駅まで歩いて始発を待つが、そうでなかったら近くのジャンカラに行って眠っていた。

 他のキャストの私生活には興味がなかったから、それが正解なのかはわかっていなかった。

 喉の奥からせりあがってくるアルコールの呼気と気持ち悪さに顔を顰め、二十四時間営業のカラオケボックスを出る。

 始発の電車に揺られて最寄り駅に戻り、最寄り駅なのに自宅まで二十分も歩かなければならない劣悪な立地に一人悪態を吐く。

 そこから学校に行くこともあったが、その日は休みだったので家の目の前にあるスーパーに寄り、空っぽの総菜コーナーに辛うじて残っている余りものを探す。巡莉は、どれほどの経営手腕があれば、この場所で二十四時間営業のスーパーを運営できるのだろうかと常々思っていたが、アルコールが所狭しと並べられた商品棚の奥に、自分と同じような女を見つけて合点がいった。

 自宅は綺麗にしていた。狭いアパートで、同じ専門学校の生徒しかいないような場所。すぐ隣の部屋には、同じ高校から進学してきた男友達が住んでいた。

 廊下の突き当たり、授業のために用意したが結局使わなかったUSBをキーホルダー代わりにつけた鍵で帰宅して、天井から吊り下げられた紐を引く。不健康な蛍光灯が灯り、その下で麦茶を注ぐ。ふぅ、と息を吐き、顔面を塗装している擬態を落としにかかる。そして、その勢いのままシャワーを済ませてしまった。


 心地の良い朝の日差しが、レースカーテン越しに差し込んできた。

 綺麗に整頓された部屋の中、足を折りたたむことができるローテーブルを引っ張り出して、実家から持ってきた座椅子を備え付ける。ナイトテーブルで充電していたノートパソコンを開いて、パスワードのあとに回り始めるLoadingを待つ間、サランラップをかけた平皿に盛った総菜に口をつける。

 甘すぎるくらいの卵焼きは、冷え切ったポテトサラダと一緒に食べると味の要素が増えて満足感があった。けれど、ポテトサラダの中に林檎が入っているのだけはいただけない。舌を慰めるために、温かいブラックコーヒーを飲んだ。

「すぴる、すぴるえらー……」

 立ち上がったパソコンで調べるのは、果村が一度だけ溢した「#SPILL!」エラーのことだった。

 Excelのスピル機能は、関数によって得られたデータをいくつものセルに展開する機能だった。しかし、エラー解除を希求する人々のお陰か、巡莉が望んだとおりのサイトばかりがヒットした。

「スピルエラーの、解消の仕方……」

 巡莉のノートパソコンにも、Excelをはじめとするソフトはインストールされていた。けれど、彼女がするのは専らWordでの専門科目の復習とまとめだったので、碌にExcelの関数を弄ったことがなかった。

 書いてあることの意味がよくわからなかったので、六十円で売っていたおにぎりに口をつけながらサイトを斜め読みする。


───スピル(Spill)とは、英語で「こぼれる・あふれる」を示す言葉です。


 その文章を読んだだけで、ぐっと体温が上がって、はぁ~……と熱いため息が出た。

 意味がわからなかった。英単語の意味を解説されただけなのに、その思い出がどうして何度も参照してしまう記憶になるのか。

───確かに、見た目はめっちゃタイプだし、超美人だけど……

 客とキャストの関係。代表は、巡莉に殊更強くそれを教えた。たとえどれだけ安心できる相手でも、その線引きだけは絶対にするように、と。

 また果村の顔を思い出してしまう前に、巡莉は記事を読み進めることにした。

 アフィリエイトリンクだらけの記事は、最後、エラーの原因の例と解消方法を画像付きで解説していた。

 スピルは、一つのセルからこぼれた、あふれた情報を、他のセルに展開させる。しかし、展開しようとしたセルに他の情報が───邪魔な情報が既に入っていた場合、展開ができずに#SPILL!で解決する。

 今度、果村さんに教えてあげようかな。なんて思考が鎌首をもたげたが、所詮専門学生の自分がネットで手に入れた知識で社会人に勝るとも思わなかったのですぐに忘れる。


───邪魔なものがあるとこぼせないの、ちょっとわかるな。


 そろそろエアコンがないと暑くなってくる。巡莉は、ソケットにさしていたリモコンを取り上げて、「除湿」のボタンを押した。


*


 今日は果村が来る日だった。

 店内音楽が「ハッピーシンセサイザ」になったので、できれば曲が終わってから来てほしいな、と思った。巡莉は、果村と話しているときは、どれだけ好きな曲が流れていても聞き流してしまう。

 順当に曲が終わり、カワラボ系列の曲が流れ始めた。サビは聞いたことがあったが、タイトルとグループ名までは出てこなかった。

 少しばかり退屈になったところで、ドアベルが鳴る。

 入ってきた果村が、巡莉を見つけて目元を和ませた。


 いつも通りに乾杯を済ませる。果村は、来店してから取り敢えずドリンクを二人分注文する。客側は飲み放題なので当たり前だが、キャストのドリンクには一杯千五百円から二万円の金がかかる。グラスが空くと果村はオーダーを入れてしまうので、巡莉はビールをちびちびと飲んだ。

「あのっ、果村さん!」

「ん?なんですか?」

 元気な妖精めるとのキャラ付けは忘れずに、巡莉はうるさくならないくらいに声を張って切り出した。

 応じた果村の声音は、もうすでに節々が蕩けていて、酔いは順調に回っているように見える。強引に話題を切り出したのは、果村の飲むペースがいつもより早かったからだった。

 ごきゅ、と強引に二杯目のビールを飲み干して、果村は「なに?」と言わんばかりの表情で小首を傾げる。

───いま、突然告白したら、この人、どんな顔するんだろ。

 果村を加害する欲求が湧き上がるのは、初めての事ではなかった。ビンタしてみたい、と思う日もあったし、首を絞めてみたい、と思う日もあった。巡莉は、キャストである自分が客との線引きを超えることを、明確に”加害”と見做していた。キャスト側から踏み越えたときも、同じだと思っていた。

「果村さんは、なんでここに通ってくれるんですか?」

 巡莉は、声を褒められることが多かった。巡莉からすれば、果村のような低く通る声の方が羨ましかったが、客観的に聞いて巡莉の声は地声のままでよく通り、色味があった。そんな天性の才を引っ提げて、とびきり可愛い笑顔で訊いた。

「えー……うーん、と……ねぇ」

 果村は、言おうか、言わまいかと迷ったようだった。けれど、酒が入っているときは往々にして「言う」に傾くもので、果村もその例に漏れなかった。

「お金のやり取りがあるから。」

 頬杖をついて言い放った果村は、声音の上では平然と言った。しかし、目元を歪めたその仕草で、巡莉はそれが、偽らざる本心だと気付いた。軽々しく言ったわけでもないということに気付いた。

「あ、ほら……その、めるちさんに、貢献できるっていうか……貢ぎ癖あるのかもしれないですね、私」

 慌てたように取り繕う果村に、「えー、嬉しいです!」と当たり障りのない返事をした巡莉は、果村が慌てても、取り繕おうともしていないことがわかった。彼女は、義務を果たしたに過ぎなかった。質問をされたから、回答を行う。

 そして、「この話、どうやっても収集つかなくない?」との欄外回答を、巡莉は正しく受領する。

───この人は、踏み込まれたくないんだ。

 展開され始めた自意識が、果村の領域に侵食したのを、巡莉はしっかりと理解した。その気まずさを取り払うようにごくり、とビールに口をつけた。

 それで、カウンター越し、果村の後ろでハンドサインを送る代表の姿に気付く。

 それは、果村につくキャストを変える、というハンドサインであり、代表の視線の先には来店したばかりの客がいた。

「ごめんなさい!わたし、そろそろ代わりますね……!寂しいから、また、会いにき」

「えっ……代わっちゃうの……?」

 思わず、といった調子で伸びた果村の手は、ちゃんと、カウンターを跨がなかった。すぐに引き戻されて、しかし、「行かないで……」とでも言うような目が巡莉を見つめている。

───なに……なんなの、この人……意味わかんない

 踏み込まれたくないくせに、こっちにはズカズカ踏み込んできて、どういうつもり?それで嬉しくなっている自分にも腹が立った。

 被っていた天真爛漫なめるとの皮が、剥がれそうになる。もういっそ、言ってしまおうか。巡莉はぐっとお腹に力を込めた。

───言う、絶対に言う。

 何を言うのかも決まっていないのに、言う、ということだけが決まっていた。

「あの……!」

 ばっと前のめりになった巡莉は、不思議そうな顔をした果村に口を開き───そして、へにゃり、と戻っていった。

 そうしている間にも、果村はずっと、優し気な表情で待っていた。それが、むしろ巡莉を追い立てた。勢いは完全に殺されてしまって、カウンターに突っ伏しながら。

「わたしも……もっと。果村さんと話してたい、です」

 つい一瞬前までは怒号を飛ばすつもりだったのに、結局口からこぼれ出たのは弱々しい甘えたような声だった。顔が真っ赤になっているのは自分でもわかったから、巡莉は上体を預けたカウンターの上で、視線だけを上げた。

「……うん……私も、めるちさんがいい、な。」

 ぷい、と逸らした視線。果村が、巡莉から視線を逸らすのは珍しかった。だから余計に、その仕草が焼き付いてしまう。

 ほんのりと上気した頬が、見えてしまう。

「なんで……なんで、わたしがいいんですか?」

 巡莉の言葉は、天真爛漫で元気なめるとのそれとは乖離していた。視線を戻した果村は、拗ねるみたいに鋭い視線を向ける巡莉に居心地が悪くなったのか、すぐにまた視線を逸らす。

 巡莉は、追及の手を緩めるつもりがなかった。意図的じゃなく、もっと根源的で、言い換えれば幼稚な、ある種の衝動だった。果村から、なにか満足のいく答えを引き摺り出したい。ただそれだけだった。

 果村は、一口、ビールに口をつけてから言った。


「一番、可愛いから。」


 巡莉はずるずるとカウンターの内側にへたり込んでしまって、結構な時間をそのまま消化した。

 果村はおろか、同僚にすら、どんな顔をすればいいのかわからなくなってしまった。ただ、首筋をぞく、と走った甘やかな電流に、適当に対処する術を知らなかった。

 自分で平静になったと思ったタイミングで立ち上がった巡莉は、視線を伏せたままの果村とぎこちない会話を始めた。今のはなかったことにしよう。果村と巡莉の間で交わされた共通認識は、互いが目を合わせることを嫌がったので、アイコンタクトなしに了解された。

 気づけば、巡莉がつくはずだった客には別のキャストがついていて、視線だけで謝意を投げると、代表はふらふらと手を振って「大丈夫」の意を示した。

 巡莉の顔はまだ真っ赤で、いつもは流暢な語り草もたどたどしいものだったが、彼女自身はそれに気付かなかった。

 果村も、大方同じだった。




挿絵(By みてみん)


 果村(はてむら)木陰(こかげ)は、事務所からほど近い繁華街を、壮絶な目つきで闊歩していた。そも、女性一人の果村に話しかけるキャッチはいなかったが、美人は凄めば怖いもので、酔っぱらいの集団も、果村を避けていった。

 発端は小さなことだった。営業が取ってきた新しい取引先、全社レビューで表彰までされて、大々的に契約が結ばれた。中小企業同士の取引なので、そう大したものではなかったが、果村の勤務するBtoB企業としては喜ばしい出来事だった。

 そして、果村の所属する経理部に取引先の情報が通達される。契約期間だとか契約内容だとか、そういった営業的観点の情報が、見やすさもクソもないテキストファイルの書式で添付されていた。そして、そこに経理部が欲する情報はただの一つもなかった。

 処理方法のわからない案件に、部長の方針を確認しようとしたところで「それ、どうすんの?果村ちゃんが担当でしょ?管理に聞かないと」とのありがたいアドバイスを頂戴した、という経緯である。

「お前が確認しろよ。」

 舌打ちを響かせて、がし、と前髪を掻き上げた。十九時半に退社し、その足でラーメンを啜りに行ったので、髪はずっと結っていた。頭皮が引っ張られる感覚が億劫で、地味な見た目のシュシュを解く。

 果村のストレス解消の方法は、一人で飲む酒・安いコンデジで写真を撮るための遠出・深夜の高速道路のドライブだった。この三つの内、二つを同時に満たすことができれば、大概のストレスは小さなもやもやに矮小化することができる。しかし、一人で酒を飲めば遠出をすることはできないし、写真を撮るために深夜の高速道路を選べば安いコンデジでは綺麗な写真が撮れない。高速道路をドライブしながら一人で酒を飲むのはもちろん犯罪だった。

 次の日が休みであれば、これらの全てを満たすなにかしらの方法が採れただろうが、果村は明日も朝九時三十分始業だった。今夜はスーパー銭湯で夜を明かすことにして、とある雑居ビルを探す。

 それは、最近勇気を出して手に入れた新しいストレス解消方法であった。

 系列店があるからか、目当ての店の前ではメイド服・バニーガール・学生服(しっかりコスプレに見える)のガルバ嬢が客引きをしていた。中々お目にかかることのないバニーガールの網タイツに視線が吸い寄せられて、「お姉さん、興味ある?」と声を掛けられる。

 一度、果村は巡莉にガールズバーの女性客についてを問うたことがあった。「全然いますよ~!」と言ってくれた巡莉の言葉を裏付けるように、果村の行きつけのバーには度々女性客が訪れた。しかし、バニーガールが接客してくれるガールズバーも同じかと言われると自信がなかった。

「ごめんごめん、お姉さん綺麗だったから。でも、よかったら来てね?アタシの名刺(めーし)、どぞ!」

「あぁ、どうも……頂戴します。」

 ウィンクを飛ばした巨乳のバニーガールは、そうしてそそくさと次の客を獲得すべく歩いて行った。

 呆けていた果村は、しかしすぐに足取りを取り戻し、目的の雑居ビルに辿り着いた。普通のマンションのような廊下から、狭苦しいエレベーターに乗り込む。

 エレベーターの中には、Excelのセル結合をフル活用して作られたのだろう手作り感満載のフロアマップが貼られている。プラスチックのプレートではなく、ラミネートされたものを両面テープで貼り付けているだけだった。紙とラミネートフィルムの境界線に、テープの白地が見えているのを、果村はずっと気にしていた。

 四階で停止したエレベーターから出て、突如現れる真っピンクの看板と扉を前にする。ふぅ、と息を吐いて、果村は入店した。

 居酒屋もかくやという声量で出迎えてくれるメイド───設定では妖精と称されている───の中に、「めると」はいなかった。今日は来店すると伝えていなかったから仕方がないか、と少しだけ残念に思う。

 このまま帰るのも悪い、と思って、よく隣のカウンターで接客をしているのを見ていたキャストに案内されてカウンターに座る。

「めるちのお嬢様ですよね?」

 金髪に勝気な表情、女性の中では高めの身長である果村より背丈のあるそのキャストは、存外大人しく、礼儀正しく果村に聞いた。一緒に差し出されたおしぼりを受け取りながら「えぇ、まぁ」と答える。顔を覚えられているのは、少しだけ居心地が悪かった。

「今から連絡するから、多分、すぐ帰ってきますよ」

「今日、出勤されているんですね」

「はいっ、めるち客引き行ってるんで。」

 あ、ビールくださーい!とオーダーしたキャストに、バーにいたキャストが手を挙げて応じた。飲み物の嗜好まで把握されているのでは、居心地の悪さも馬鹿らしく思えた。果村の微笑に、キャストは「めるちの気持ち、ちょっとわかったかも……!」と盛り上がった。果村の外見の客観的評価は、巡莉の主観的評価と相違ない。

 「今から連絡する」という言葉の通り、スマートフォンを取り出してフリック入力を始めたキャストから、果村はそれとなく視線を逸らした。メッセージを送ろうとしているアプリが明らかにLINEだったので、キャストの個人情報ひいては、めるとの個人情報を盗み見てしまうと思ったからだった。

 ビールが運ばれてきて、果村がそれに口をつけるくらいの間。どうやら、返信はすぐに返ってきたようだった。

 可愛らしい笑顔に、少しばかりの困り眉を載せて。

「えーっと……がんばってくださいね?」

 果村は、キャストが言ったその言葉の意味に、めるとが帰ってくるまでついぞ気付くことはなかった。


 響枷(ひびかせ)巡莉(めぐり)は、今日のプレイリストのランダム再生の無能さに苛立っていた。

 出勤して最初に「メズマライザー」が流れたので、幸先がいいと思ったが、その後には全然知っている曲が流れてこなくなって、随分と暇を持て余したのだ。待っていても果村が来ることはない。

 そうしているうちに、繁華街でメイド服を見せびらかしてこい、というミッションが発令されたので、喜んでそこに志願した。

 一緒に街に繰り出したキャストは、興味を示した通行人にひっきりなしに声をかけたが、巡莉は酔っ払いに近づかないように忙しなく視線を巡らせていた。まだ入ったばかりのころ、同じような状況でただでさえ短いスカートをめくられそうになった経験は、巡莉のなかで消化しがたい怒りとなって蟠っている。

 そうして歩いているうち、巡莉はやけに視線を吸い寄せられる背中を見つけた。すぐにわかった。果村だった。

 彼女は、乱雑に髪を掻き上げたところで、どこか苛立っているように見えた。しかし、歩調にその怒りが現れていないので、ヒステリックな感じはしなかった。巡莉は、果村のそういったところが好きだった。

 思わず目で追ってしまったから、歩みが止まった。「めるちぃ、行くよ~?」と呼びかけられてすぐに返事を返す。振り向いて、果村と逆方向に歩き去る直前、巡莉は見た。


 巡莉が同僚からのLINEに呼び出されて店に戻ったとき、果村はベロベロに酔っぱらっていた。

「なんかぁ、仕事でいやなことあったんだってぇ」

 おっとりとした同僚が巡莉に教えてくれた。巡莉が感謝を伝えるより前に、彼女はリングライトの前に立ち位置を戻してスタンドに固定されたスマートフォンと会話し始めた。TikTok Liveと遠隔は、巡莉が入店したころには既にメジャーなものになっていた。

 邪魔をするのも気が引けて、というより、早く追及しなければならなかったので、巡莉は、めるとになるのも忘れて果村の前に陣取った。

「あ~めるちだぁ……遅いよ~!」

 声音、表情、呂律、その全てが、気持ちよく酔っています、と教えてくれた。

 巡莉は果村の自制心の強さを、どこか直感していた。そんな彼女がここまで酔うのだから、果村のストレスは相当なものだったのだろう。そんな心配さえも、巡莉の怒りの前には矮小化された。

「……どうせ、バニーガールの方がいいんでしょ、果村さんは。」

 「え~……?」と呑気に考えた果村は、麻痺した思考能力でなにも答えを出さず、追加のビールを自らオーダーした。

「めるち、なんか怒ってない?どうしたの?」

 いつもの他人行儀な敬語が馬鹿らしいくらいに、果村の放つ呂律の怪しいタメ口は可愛かった。店内の誰よりも、巡莉が一番食らっていた。しかし、それでも、巡莉は追及の手を緩めなかった。

「果村さん、ポイントカード」

「うんっ」

───うんっ、ってなに?この人、わたしより年上でしょ?なんで、そんな甘えた声出せるの……!?

 なにか脳がじゅくじゅくと疼き出して、脳細胞がずたずたに剥離されていくような心地がした。あまりの果村の豹変ぶりと、その愛くるしさ故に、巡莉の脳はショート寸前だった。

 おぼつかない手つきで財布を取り出した果村、その手元、いつものクレジットカードの上に、名刺が挟まっている。バニーガールの格好をした女の子の、加工強めの写真が載っていた。

「名刺までちゃんと仕舞っちゃってさ。……行ってきたらどうですか?バニーガール。」

 果村の手から取り上げたポイントカードをクリップスタンドに挟んで、首から提げていたスマートフォンをカウンターの内側のテーブルに置く。その間、果村の方を見もしなかった。

 そういえば、今はなんの曲が流れているんだろうと耳を澄ましていると、二の腕をちょんちょんと突かれる感触があった。

 いつの間にか、果村はカウンターに上体を投げ出していた。自分の腕を枕にして、瞳を潤ませている。アルコールのせいで潤んでいたのか、それ以外に原因があったのか、巡莉は最早考えなかった。

 何度も二の腕を突っつく果村に、少しだけ罪悪感が湧いた。冷静さを取り戻して、どうしてこんなに怒ったのか、そんな自問を始めそうになる。そのときだった。


「ねぇ~……なんで、……無視するの……?」


 泣きそうな果村が、そんなことを言った。

 しばし、行動停止を余儀なくされる。

───あ~……っ、もう、なんなのこの人っ……!!脳、破壊される……!!

 巡莉の脳内であまりにも強く弾けた感情は、最終的な状態は殺意であった。しかし、それは可愛すぎる、という感情を発端としていた。愛憎入り乱れたようなそれが、果たしてなんなのかわかりかねて、しかし巡莉は、そういったよくわからないものには、往々にしてもう誰かが名前を付けているということに思い当たる。

 今回もそうだった。あぁ、これがキュートアグレッションってやつだ。巡莉は一人、そう得心した。

「ねぇ……オリシャンいれるから、許して?」

「違う……そういうんじゃないです。」

「う、ぅ……もう、来ないから……嫌いにならないでぇ……?」

「だからっ、そういうんじゃないからっ」

 いつもなら簡単に出来る擬態が、全然上手く行ってくれなかった。だから巡莉は、もう上手くやるのは諦めて、言質だけ取ってしまうことにした。どうして言質が欲しかったのか、どんなことを求めていたのか、全てはわかろうとしなかったが、巡莉の精神衛生上その方がよかった。

 ぐい、と小指を突き出して、巡莉は言った。

「永久指名!ここ来たら、絶対、わたしだけ指名!……それなら許してあげる。」

 言ってから、頭が更に冷静になる。

 果村以外に固定客もいない自分が、永久指名なんてことを宣ったのがどれだけ荒唐無稽なことだったのか、遅れて理解した。けれど、引っ込められなくなった巡莉は、逸らしそうになる視線を力ずくで御して果村を見た。もはやそれは、睨むに近かったかもしれない。

 果村の小指が、巡莉のそれに絡む。

 へにゃ、と笑った果村は、ゆらゆらと小指同士の結束を揺らした。


「逆に、いいの?私、たくさん来ちゃうよ……?」


 どん!とカウンターを叩いた───正確には殴った───音に、店中から視線が飛んできた。

 真っ赤な顔の巡莉はそれに頓着せず、キャッシャーの近くにいたキャストに声を飛ばした。

「この人!お会計!」

 はぁ~……と息を吐いて、顔を覆う。

「さいあく。」

 同僚がニヤニヤしながら持ってきたテキーラを、巡莉はぐい、と飲み干した。




挿絵(By みてみん)


 巡莉は、釈然としない思いで今日の勤務を終えた。

 同僚に誘われて屋台でたこやきを買い、灰皿が設置されている公園でめいめいにそれを食している間にも、もやもやは無くならなかった。最年長の同僚が電子タバコを吸い終えて、では解散、となった段階で、巡莉は上の空のさよならを言っただけだった。

 少し歩いたところにあるコインパーキングには、高校からの男友達が車を待機させていた。見慣れた軽自動車の窓───コインパーキングの照明が反射して中は見えなかった───に手を振ると、不健康そうな始動音とともにエンジンがかかり、ヘッドライトがぱっと光った。

 助手席に乗ると、運転席から伸びてきた手がスマートフォンを差し出してくる。

「おつかれ」

「うん。」

 教えられているパスワードを解除して、ほとんど巡莉しか使わないプレイリストから音楽を流す。

 今の心情とは関係ない、と言い聞かせて、巡莉が再生したのは「気になるあの娘」だった。

「るきあはさ、お酒飲んで記憶飛ばしたことある?」

 るきあ、というのは、あだ名でもニックネームでもなく、危なげなくハンドルを操る彼の本名だった。

 高校からずっと友達同士だった二人の間には、恋愛感情は少しも芽生えることはなく、翻って、強固な友情が育まれるばかりだった。

「あるよ。そこん通りで寝てたことある。」

「それってさ、気になってる女の子の前でも同じことになる?」

「……あぁ、だからそういう選曲」

 違う!と肩をどついてやりたかったが、車は丁度片側三車線道路に侵入するところだったから、巡莉は振り上げた手をおずおずと下げた。

「好きな娘いたら、緊張して飲んじゃうかもなぁ。」

 互いの恋愛事情には、希望された時にしか踏み込まなかった。というより、そもそも興味がなかった。二人が話すのは、いつも自分が話したいことだけ。

 巡莉は例えば「ずっと真夜中でいいのに。」における音楽性の変遷を四期に分ける、という試みの話をしたし、るきあは入れ墨の記述面積で重要なのは、入れ墨が入っている面積ではなく、むしろなにも刻まれていない肌の面積である、という持論の話をした。

 巡莉もるきあも、いろいろなことを面白がることができる性質だったし、互いに面白そうに話すことが下手じゃなかった。

「じゃあさ、記憶なくしてる間に好きな娘となんかあったかもな、って思ったりしないの?そのあと後腐れなく会える?」

「俺が憶えてないんじゃ意味ないし。あっちから言ってこなきゃ、別になんも言わんかも。」

 「そ」とだけ返して、巡莉は窓の外、流れる景色を眺めた。

 一級河川を渡す橋の上からは、街灯を反射した澄み切った水面が見える。朝でも昼でも夜でも、車窓からでも徒歩でも飛行機の上からでも、その景色が巡莉のお気に入りだった。なにもない地方都市に不満を溢すことこそあったが、この景色を見られるのなら悪くはない。

 今日、巡莉の前に現れた果村は、いやぁ、この間のことは全然覚えていない。むしろ財布を落として探すのが大変だったよ、というようなことを臆面もなく宣い、そしていつも通りの会話をして上機嫌で帰っていった。無論口調は敬語である。

 別に、何がどうなって欲しいわけでもなかった。むしろ、果村が気まずくなってしまって来てくれなくなれば、巡莉はそちらの方が困る。だから、何も憶えていない、というのは喜ばしいことのはずだった。

───でも、なんだろう。この、いらいら。

 真夜中の道路は空いていて、二十分足らずで家に帰りついてしまった。

 もう少しだけ、真夜中の道路をドライブしていたかった、と言語化できたのは、るきあと別れてシャワーを浴び、ベッドに潜り込んだあとのことだった。


*


 巡莉には、これといえる趣味がなかった。

 年に一、二回、好きなアーティストのライブに遠征する、というくらいで、それ以外にやることと言えば、YouTubeやApple Music、ニコニコ動画を巡回して自分好みの曲やアーティストを掘削するくらいだった。

 これについては月に六百円くらいのApple Musicの学割料金しかお金がかからないし、家賃や化粧品、服などは過保護な母親の仕送りで賄えて、ガールズバーのバイトは果村のせいで実入りがいい。預金残高は悪戯に増えるばかりで、たまのやけ食いの浪費などは焼け石に水だった。

 学校が終わり、出勤のために市内に出てきたが、時刻はまだ十八時。勤務開始の二十時までは少しばかり時間がある。

 駅に直結しているアミュに来たのは久しぶりで、巡莉は行く当てもなくぶらついてみることにした。一階のスターバックスには同じ学校の生徒がいそうで気が引けたので、足早に通り過ぎる。そのせいで、乗るつもりもなかったエスカレーターに乗ってしまった。

 そのまま流れでダラダラと昇り続けていると、映画館に辿り着く。映画を見ている時間はなかったが、「パリに咲くエトワール」の立て看板を見つけたので、思わず近づいた。

 試行錯誤して自撮りを撮る。自分の顔が入るのは好みではなかったから、主人公二人が画角に綺麗に入り切るようにするのに苦労した。

 店用のアカウントでログインしていたインスタグラムを、個人のものに切り替えて、今しがた撮ったばかりの写真をストーリーズにあげる。そのついでに、有線イヤホンで流していた音楽を「風に乗る」へ変える。

 心無し上機嫌な足取りでエスカレーターをおりた巡莉は、別館にある本屋でいくつか雑誌を立ち読みし、気が付けば十九時二十分になっていた。ゆっくりと商店街を歩いて、余裕をもって出勤した。


 いつも通り店内BGMを聞いていた巡莉のもとに、果村は二十二時頃姿を現した。

 どこか気疲れした様子の果村に、まだもやもやとしていた巡莉はしかし心配を口にした。果村はどうにも精神的に強そうに見えなかったのだ。

「職場の人間関係って、なんであんなに上手く行かないんですかね……」

 深い深いため息を吐いて、果村は自嘲気味に笑った。その口ぶりから、果村は当事者ではなく間接的な関係者なのだとわかって、巡莉は密かに安心する。

「わたしの友達が、もう社会人として働いてるんですけど、」

 私の友達が───といって、自分の境遇を語るのは、もはや使い古された手口だったが、今回の巡莉については本当だった。

「職場の人間関係は、全員が無関心になるか殺すかしか円滑化する手段はないって。」

「ふふ……過激なお友達、ですね。でも、案外そうかも。」

 運ばれてきたビールを受け取って、果村は「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。

 巡莉も、もはや恒例になったドリンクのオーダーで、一杯貰っていた。

 どちらともなく乾杯して、グラスを傾ける。

「私、あんまり友達いないんです。」

 「へぇ……そうなんですか?」と言ったのは苦肉の策で、巡莉はどこか「そうでしょうね。」と考えていた。巡莉だって、見た目だけで言えば果村のような友人は欲しくなかった。なにか、立っているステージが違い過ぎて、やりきれなくなってしまいそうだった。

 それなのにこんなにも果村に惹かれている、とは。巡莉は自分のそれがもはや友情とは違うものなのだと、まだ認められてはいなかった。

「連絡取ったり、予定合わせて集まったり、そういうのが苦手で。なんだか疎遠になっちゃって。だから、あっちから友達を続けてくれる人としか、長いお付き合いができないんです。お前は”薄情な人間関係”を信奉している、って言われちゃいました。」

───薄情な人間関係を信奉している。

 なにか、忘れられないような響きを持った言葉。巡莉は直感的に、それが果村の言葉なのだと思った。巡莉が使わなかった論法を、果村は使ったのだと思った。友達に言われちゃいました、と。

 巡莉は、フィラーワードの代わりにビールを飲んで、ミラーリングした果村がグラスを置くまで待った。

「だから、お金のやり取りがある関係が、いい……?」

「そう、かも。」

 沈黙が落ちたが、巡莉も果村も、それが悪い沈黙だとは思っていなかった。ただ、通じ合ったが故、話す必要のない、安らぎを感じるような沈黙だった。


 閉店時間間際、最後まで残っていたのは果村だけだった。

 いつも通りに、ゴールドの三井住友カードで会計を済ませ、巡莉が差し出したポイントカードを財布に仕舞う。巡莉がちらりと見た財布には、もうバニーガールの名刺はささっていなかった。

 カードの控えをジャケットのポケットに突っ込んだ果村を、巡莉はカウンターを回り込んで見送る。店の外まで出て、エレベーターまでの短い距離。

 果村は、そこでダラダラと時間を引き延ばすということがない。最短距離でエレベーターに向かい、扉が開けばすぐに乗り込んでしまう。

 ぐ、とお腹に力を込めた巡莉は、数歩先を先導していた果村を追い越して、「ちょっと、……待ってください……っ」と立ち塞がった。ばっ、と両腕を広げたので、手の甲を狭い廊下の側壁にぶつける。

「ぇ、と……ハグ?」

「っち、違います……!」

 確かに、ハグ待ちのポーズだ、と気づいて、頬が熱くなる。両腕を広げたまま、果村の顔をうかがってみる。酔っていればあわよくば、と思ったが、もちろん果村がハグをする素振りはなかった。

 なんだか余計な心労をかけられたような気がして、巡莉はため息をついた。

───別に、してくれてもよかったのに。

 果村は、最初こそ戸惑っていたものの、既に優し気な微笑みで巡莉の言葉を待っている。

 そういう顔が嫌なんだって。巡莉は脳裏で呟いた。

「インスタ!……教えて、くれませんかっ」

 この服を着て、このキャラクターで、この声色で。巡莉が許されているのは、自分に許しているのは、巡莉が「めると」であることだ。それならば、”薄情な人間関係”を信奉する果村に、踏み込むことはない。越えてはならない一線に、巡莉の自意識が飛散することはない。あふれることはない。

 少し、突き刺すような痛み。

 果村の表情に表出した痛覚を見て、巡莉は次の言葉を逸した。いつも合わせてくれる視線がどこかに泳いで、目元を歪める仕草。

 ぐ、と思わず口から漏れた、空気が攪拌される音。なにか、邪魔なものがつっかえていて、言葉を続けることが億劫になる。


───……うん……私も、めるちさんがいい、な。


 巡莉の脳裏で弾けた記憶。

 あんなこと言った、貴方が悪いんじゃん。反骨精神に似た怒りが、八つ当たりみたいに巡莉を掻き立てる。

「……なにか、……メリットがあるの。」

 冷たい声は、果村のものだった。

 狭い廊下の側壁に寄りかかり、手首につけたレディースの腕時計を庇うようにさする。その目は、巡莉を見てはいなかった。

 メリット……メリット……、そう考えているうち、ばち、と視線があった。

 なにか、痛みを隠したような、誤魔化すような、痛々しい瞳。

「しゅ、出勤表とか、載せてますし……それにっ、えと、……そう、来てくれてありがとう、って、お礼のDMもしたいし……ぁ、これ、わたしのメリットですね……ぇと」

 巡莉は、自分のインスタグラムアカウントが創出する価値というものを、拙く、いっそ痛々しいほどたどたどしく並べていった。それでも、すぐに言葉に詰まってしまう。合ったままの視線。果村の瞳は少しも、「メリット」を感じてくれてはいないように見えた。

 それじゃあ、貴方がどんなメリットでインスタ教えてくれるのか、教えてよ。子供みたいな我儘が、巡莉の心の奥の方で鎌首をもたげる。

 一番可愛い、もっと話していたい、永久指名でいい。果村が巡莉に与えてきた甘やかな毒が、今ここで、その遅効性の薬効を発揮し始める。そうやって思い出していくうちに、巡莉はある一つの考えを得た。ただし、それを口に出すのは途轍もなく恥ずかしくて、見当違いだったときのやるせなさは想像もしたくない。

 けれど、果村のその瞳を見ていれば、別にいいような気もした。


「わたしの……自撮りとか、見れますけど。」


 絶対に逸らすまいとしていた視線は、口にしたときの恥ずかしさで足元に落ちていた。巡莉の頬は、アルコールに由来しない熱によって真っ赤になっていた。自分でもそれを自覚していた。

 これまで、「めると」のアカウントを真面目に運用したことはない。それでも、果村のためならば、毎日可愛いを作り、写真に収めて投稿してもいいと思えた。

 ふふ、と気の抜けたような笑い声が聞こえて、巡莉は思わず果村の方を見た。細くて、大きい、綺麗な手で顔を覆いながら、果村は笑った。巡莉に見つめられているのに気付くと、はっとして首を振り、「ごめんね……?」と舌を出す。

───なに、その笑顔……わたし、見たことない。

 今までの果村の笑顔が、全部嘘だったんじゃないかと邪推した。巡莉のそんな不満などつゆ知らず、果村はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。

「いいですよ。めるちさんの自撮り、見たいから。」

「っ、あ、あれはっ……言葉の綾で……!」

 本心では、これから毎日写真投稿しよう、と意気込んでいたものの、口に出すことはできなかった。それはそれとして、写真は毎日投稿しようと思った。

 果村がスマートフォンを仕舞わないうちに、巡莉も首からストラップで提げていたスマートフォンを掴む。焦ってパスワードを入力しようとしたが、指先がパネルに触れるまでもなくFaceIDでロックが解除された。

 インスタグラムを開き、「プロフィールをシェア」を押してQRコードを表示させた。

 果村の指先は、何度も画面をついついと往復するものの、中々画面を見せてこない。やきもきとした巡莉は、焦らされているんじゃないかと思ったが、すぐにQRコードの表示のさせ方がわからないだけだと気付いた。

「果村さんっ、やりますよ」

「あ、ごめんね……?ちょっと、あんまりこういうのついていけなくて……」

 巡莉は未成年ではなかったが、果村よりは未成年に近い───すなわち若い。そういう含意の果村の発言は、果村のアカウントのアイコンに釘付けになってしまった巡莉には聞こえていなかった。

 表示させたプロフィールのアイコンは、エレベーターの鏡を撮った写真で、スマートフォンで顔が隠されてはいたものの、そこに写っているのが果村だとわかった。

 思わずスクリーンショットを撮りかけた指先を、指先ほどの理性で押し留める。果村のスマートフォンでスクリーンショットを撮ってもなにも意味がないと、それくらい考える余裕はあった。

 QRコードの読み取り画面を開いて、果村にスマートフォンを返す。巡莉は、自分のアカウントのQRコードを開いて、その画面を名刺でも差し出すように果村へと向けた。果村の視線が、一瞬、その画面を舐る。

 巡莉の胸中を、少しだけ罪悪感がよぎった。

 自分のアカウント名くらいは憶えていたし、QRコードの画面に表示されたIDがなんだったのかも確認していた。駅でインスタグラムを開いたときに、店用のアカウントから、個人用のアカウントに切り替えたことも憶えていた。

 でも、気付かないふりをした。

「ぇ、果村、さん?」

 果村と巡莉の間にあった一歩分の距離が、いつのまにか詰められている。

「ぁ、……ぁ、」

 ふわりと、爽やかな香水の匂いが香って、あまりにも近づいたから、互いの頬が触れた。自分の鼓動の音がうるさくて、何も聞こえなくなってしまいそうだった。それなのに、見えはしない果村の唇が耳元にあるから、互いの頬が擦れるしゅるりという音すらも聞こえた。

 果村が、小さく息を吸う音が聞こえる。理性が危うい。視線は、少しだけ前傾になったせいで緩んだ果村の胸元をガン見していた。自分の身体と変わらないはずなのに、その服の中に隠されているものを見てみたくてたまらなかった。

 惚ける巡莉の耳元で、果村が揶揄うように囁く。


「ズルしちゃ駄目でしょ。」


 どくん、と跳ねた心臓。巡莉は、ばっと果村から飛び退いて、囁かれた方の耳に触れた。ひと肌の快感が、まだそこでじゅくじゅくと疼いていた。膝が震えているのを誤魔化すために、壁に手を突いた。しかし、むしろそのせいで動揺しているのを気取られる。

 どうやって、どうやって、見抜いたのだろう。巡莉の回らない頭が、頑張って回った。関節可動域(R O M)を憶えたときよりも高速で。

 それでも、果村の感触とか、声色だとか、胸元に見えた暗がりだとか、記憶することが多すぎて碌な答えを出すことはできなかった。

 果村に言われるがまま店用のアカウントに切り替えて、QRコードを読み取ってもらう。

 二人のインスタグラム上の関係性が相互フォローになるのには、十数秒ほどの時間を要した。果村のアカウントが鍵アカウントだったため、その承認に手間取ったのだ。

「自撮り、ちゃんとあげてくださいね。」

 いつも通りのミステリアスな笑みを残して、果村は平然とエレベーターに乗り込んだ。

 信じられないような目をした巡莉は、笑顔のお見送りなどできようはずもなく、ただ、へたりと座り込んで茫然とするだけだった。


 帰り路。ひとりごちりながら、巡莉はコインパーキングに向かっていた。

 最近実習が終わったので、るきあの迎えの都合がつく日が多かった。流石に静かになってきた繁華街を歩く。

「……一番可愛いとか言うなら、もっと欲しがってくれてもいいのに……」

 果村が教えてくれたアカウントは、巡莉が徹底的なネットストーキングをした結果、普段使いしているものだとわかった。半面、巡莉は仕事用の、言ってしまえば偽物のアカウントだ。

 自分が先走ってしまったことも、先日の泥酔事件から果村に対しての気持ちに整理が付けられていないということも、巡莉はしっかりと自覚していた。自覚した上で───

「果村さんのえっち、えろ村さんだ……っ」

 ぐるぐると巡る思考は、幼稚な愚痴をぽろぽろと溢す。

 いい匂いがした。大して触れていないはずなのに、「柔らかい」という感想が中々頭から離れなかった。あの人に、抱きしめて貰えたら───と、思考が脱線して、ぶんぶんと頭を振る。

「違う……わたしはノーマル。女の人となんて……」

 そういえば、と、思考が調律を取り戻した。

 交換したばかりのインスタグラムのアカウント。果村のアカウントは、もうさんざん見た後だった。今度は、自分のアカウントのプロフィールを表示する。

 @made_luv_melt0..

───憶えてた?

 QRコードには、アカウントのIDが表示される。果村がそれを読んだのを覚えている。

 果村が巡莉に囁いたのは、そのあとだった。

 もし、巡莉の考えが間違っていないのら。

───わたしの店用のアカウント、見てたってこと?

 アカウントIDを憶えるくらいの回数は、フォローもせずにめるとのアカウントを訪問し、投稿として残っているものの中に自撮りがないことまで知り尽くしたうえで、最後、あんな言葉を残していったのだとしたら。

 提示されたIDが、記憶していたものと違った。そしてそれが、故意なのだと理解した。そうでなければ、「ズル」なんて言葉は出てこないはずだった。

 コインパーキングに辿り着き、助手席のドアを開ける。るきはは、いつも通りに巡莉にスマートフォンを差し出した。

「なんかご機嫌?」

「は?別に。」

 スマートフォンを操作して、曲を探す。

 るきあの繰る車は、市内を流れる川を渡す橋を「気になるあの娘」を流しながら走り抜けた。




挿絵(By みてみん)


 目を覚ました。

 巡莉は、日課になっている果村のインスタグラムサーチを始める。

 果村がインスタグラムを更新するのは稀で、週に一度ストーリーズがあがるかあがらないか、というところだった。ほとんどは、高速道路のパーキングエリアで撮られた写真だったが、たまにデジタルカメラで撮られたような写真が投稿されることもあった。その全てを、巡莉はチェックしていたが、いいねを送る勇気はなく、足跡を残すだけだった。

 もちろん、果村が来た日は「今日はありがとうございました!また会おうね~」という定型文のDMを送っていたが、なんでもない会話を始めるようなことはなかった。

「なんか……フォロワー増えてきちゃったな。」

 冷蔵庫からピッチャーを取り出し、コップに麦茶を注ぐ。

 夏は、暦の上ではもう少しで終わりだった。そのあと、数か月にわたって延長戦があることを考えれば、夏が終わる、なんて感傷的な気分にはなれなかったが、少なくとも巡莉は学生だったので、夏休みが終わる、という感傷には縁があった。

 国試に落ちるつもりはなかったが、勉強が全く苦痛ではない、というわけでもなかった。

 インスタグラムの自分のアカウントを見る。

 果村に見てもらいたい一心で自撮りを投稿するようになってから、フォロワー数は二十倍に増えていた。そもそもが数人しかフォロワーがいない零細アカウントだったことを考えても、巡莉にとっては実感のない数字であった。

「がっつり加工掛けてるから、現実はこんなに可愛くないんだけどな。」

 メイド服が珍しいのか、加工された顔が好きなのか、ただの趣味か、「めると」の写真は割合好評である。巡莉の自己評価がそもそも低いという点は否めないが。

 なんとなくそわそわしながら、果村の投稿を漁る。

 巡莉は、果村の撮る写真が好きだった。彼女の写真に、生物が写り込むことはほとんどない。ほとんどは風景写真で、その上、自然的なものは一切ない。

 仕事で訪れたのか、ビル群の聳える風景を切り取ったものや、古めかしい建物の中に後付けされた工業的な部品、電柱などの写真が多かった。それは、果村のリアリスト然とした姿と親和したし、合理的な人格とも整合していた。

 巡莉が見返すのは、そんな風景写真の中で、珍しく果村の姿が写っている写真。風景写真をまとめて投稿したものに紛れていたもので、一つの投稿を最後までスワイプしないと見えない場所にあった。

 それは、今とは違うオフィスカジュアルの服装で撮られた写真で、信号待ちの間に取ったのだろうか、赤と青の光が差していた。ピントもズレているし、画質も悪い。照明もないので顔はほとんど見られないし、そもそもマスクをつけていた。投稿された日取りからして、コロナ禍が落ち着いてきた頃だろうか。

 しかし、巡莉が気にしていたのは、その要素の中のどれでもない。

 果村とともに写る、ショートカットの女のことであった。活発そうな見た目で、果村とは印象が真逆。しかしそれでいて、写真でもわかるほど二人の仲は親密そうに見えた。服装からして、同じ会社の同僚だろうか。巡莉はそうあたりを付けた。

 果村はどうやら、会社での人間関係の不和について気を揉んでいたようだから、どうにも嚥下しづらくはあったが、巡莉自身がそもそも、果村のことをあまり知らなかった。

 最新の投稿。運転席から撮られた写真。

「……助手席、乗せてくんないかな。」

 思わず呟いた言葉を、もはや巡莉は否定するつもりがなかった。


*


「めるちぃ~、ちょっとおいで」

「はいっ」

 珍しく名前を呼ばれて、カウンターの中を移動した。

 同僚───「ゅゅ」を名乗っている───に呼ばれた先には、若い男が座っていた。

「インスタ見て来てくれたんだって~」

 思わず視線を伏せた。

───加工強すぎて、がっかりされるんじゃ……。

 しかし、そうしていても仕方がない。ぐっとお腹に力を込めて、「めると」に擬態する。

 幸い、男は巡莉の姿をいたく気に入り、手持ち無沙汰だったのもあって巡莉はその接客を担当することとなった。その客は弁えている客で、セクハラ紛いの話法で反応を見たりもしなかったし、ゅゅに言われてねだったドリンクも快く承諾した。

 会話はNETFLIXのドラマの話になり、巡莉が実家に帰ったときに一気見したものだったから沈黙が気まずくなることはなかった。

 ドアベルが鳴る。珍しくそれを見逃した巡莉は、来店してきた客に視線を向けるのが遅れた。

 その客が隣のカウンターに座ったところで気づく。

───果村さん……っ!?

 果村は、帰る時に次の来店予定を申し送りしなくなっていた。わざわざ伝えておかなくとも、巡莉の出勤予定はインスタグラムで確認ができたし、実際に来店するときにはDMが飛んでくるのが常だった。それが、今日は何の音沙汰もなく来店したのだから、巡莉の心中は穏やかではなかった。

 果村の接客をするのは、先ほど巡莉を呼んだキャスト「ゅゅ」で、既に自己紹介のパートを終えていた。ぱちり、と果村のポイントカードをスタンドに挟み、会話を始めている。

「はてむらお嬢様、でいいですか?」

「はい。よろしくお願いします、ゅゅさん。」

 店内音楽は「キュートなカノジョ」だった。こんな異常事態になっていなければ、巡莉は上機嫌でその曲を聴いただろう。

 注意は果村に吸い寄せられていたが、目の前の客との会話をおざなりにすることはなかった。空回りするほど元気な妖精「めると」の脳と、果村を気にする巡莉の脳は分離していて、どちらも自律した。

 ちーん、と間抜けな音が鳴って、ゅゅが叫んだ。「お嬢様にテキーラお願いしまーす!」

 ピースサインとともに店内に響き渡った声。バーにいたキャストがそそくさとテキーラを注ぎ、ショットグラスを二つ、果村のカウンターに置いた。

───テキーラの乾杯とかしてるっ……!わたしとは、してくれたことない……!

 果村が巡莉に出すドリンクは、大体がビールだった。そして、果村自身もテキーラを頼んだことはなかった。それは、果村が巡莉に配慮───巡莉があまりにも酒が弱そうなので───した結果だったのだが、巡莉には知る由もない。

 果村とゅゅは、楽しそうに乾杯をして、そのままぐいとテキーラを飲み干した。ゅゅは「はぁ~っ!」ときつい酒を呷ったとき専用の鳴き声を発したが、果村は涼しそうな顔でそれを眺めていた。

 隣のカウンターの声は結構聞こえてくるもので、トーンが上がった部分を聞き漏らすということはなかった。

 果村とゅゅは年齢が近い。果村が上で、その差は二つ。巡莉よりも通じるところが多いというのは、巡莉の主観を排除した上でも事実だろう。

 果村は声を上げて笑うというようなことがない。けれど、女性にしては低く、よく通る声質の果村の微笑は、特に巡莉にはよく聞こえてきてしまう。

「めるとさーん」

 キャッシャーの前で、代表が巡莉を呼んだ。アップルウォッチをタップして時間を確認すると、担当している客の時間が終わるところだった。寂しいですけど~から始まって、~延長どうしますか?で終わる定番の文句を、そっけなくならないように伝えると、客はもう帰るとのことだった。

 キャストとしてはあるまじきスムーズさでそれを受け入れて、ポイントカードにメッセージをしたためる。代表が持ってきた伝票を差し出して、トレーで現金を受け取る。「領収書要りますか?」「大丈夫」と大方の退店準備を終えて、エレベーターの前までのお見送りをしたところで、結局随分時間が経ったと気付く。

 すぐに店の中に戻り、カウンターの中に戻った。すれば、気付いたゅゅが手招きして「あとは本命とど~ぞ♡」と退散していった。

───あ、果村さんがいる。

 久しぶりということはない。しかし、ずっと心の中でぽっかりと空いていた場所に、その光景が綺麗にはまる。キーボードのホームポジションに手を添えたとき、似たような感覚になるのを思い出した。そこにぴったりとはまり、心が無意識に切り替わる。

「あぁ、……好きだなぁ」

 口の中だけで呟いた。途中から、もうわかってしまっていた。

 巡莉の「好き」の閾値、その表面張力は、ずっとゆらゆらと揺れていたのだ。悪戯にグラスを弾き、たまに水滴を落としたりするような果村のお陰で。しかし、こぼすことは許されなかった。

 邪魔なものがあると、こぼすことも、あふれることも許されない。

 果村が飲み干したテキーラのグラスを見て、巡莉はまた突きつけられる。

 なみなみに注がれたテキーラを、思わずこぼしそうになっても、その先に客が、客の財布が、煙草が、邪魔なものがあったら、絶対にこぼせない。客はカウンターにいろいろなものを置いている。果村はそこに、”薄情な人間関係”というのを置いていた。

 そのカウンターに、一線というものを引いていた。そういう邪魔なものがあるから、巡莉はずっと、口を噤んでいた。キャストと客の関係性。

───#SPILL!

 数式は、想いは、感情は、展開することができずに、スピルエラーに沈黙した。

「永久指名、って……言ったじゃないですか。」

「ぁ、ごめんね……?えっと、今日、……ご機嫌ななめ、ですかね……?」

 困ったように笑う果村。安らいだようなその目元が、また巡莉にエラーを吐かせる。

 女のわたしでもきっしょいムーヴなのに。自分の嫉妬心をそうやって俯瞰しながら、しかし、それを努めてどうにかしようとはしなかった。

「別に……そんなことないですけど。」

 わたわたと慌てているようで、その実、果村は慌てていない。巡莉の見立てではそうだった。けれど、その内側で何を考えているのかについては、果村との関係が続けば続くほどわからなくなっていた。

 きゅ、と胸が締め付けられる甘い感触。

「……わたし、テキーラの乾杯とか、……してもらったことない。」

 思わず、甘えるような言い方になった。客である前に、果村は巡莉より年上で、それを巡莉はしっかりと理解していた。だから、ずっと敬語だったし、上から目線の話もしなかった。

 ただ、年上なのだから、「甘える」という手段は、少なくともおかしいことじゃない。そんな論理で、巡莉は自分の失言を正当化した。

「じゃあ、しよっか?」

 果村がベルを鳴らす。「テキーラ入りまーす!」と代表の声が響いたので、慌てて二本指を立て、バーにいたキャストがOKのサインを出す。

 テキーラが来るまでの間、巡莉はなにかを忘れてきてしまったような感覚と、何かを手に入れたような充足を感じていた。相反するようでいて、混在するようでもある。巡莉は、言語化することができた。そして、それを阻んでいた感情的な柵も、今ばかりは希薄だった。

───もっと、甘えたい、な。

 果村に、撫でて貰えたら。頑張ってるね、って囁いてもらったら。助手席に乗せて貰って、被写体になれたら。眠くなったわたしに、いいよ?って膝を貸してくれたら。

 巡莉の脳内で、そんな欲求や願望が攪拌される。

 二人の前に、それぞれテキーラが置かれた。つんと香る、アルコールとシトラスの香り。

 果村がグラスを持ったので、巡莉も慌ててそれに倣った。

「初めて、おねだりしてくれた。」

「え……?」

「めるちさんからお願いされたの、初めてだったから。お願いって感じじゃ、なかったですかね……?」

 自嘲するように、果村は笑った。

「めるちさんが本命の私は、……めるちさんがもうちょっとだけ欲張りにならないかなぁ、って……ずっと思ってたんですよ。」

 こつ、とグラスが音を鳴らし、巡莉が呆気に取られている間に、テキーラが果村の喉奥に吸い込まれていく。慌てて巡莉もテキーラを飲み干し、喉が焼けるような感覚にむせた。思わず、非難がましい目で果村を見る。

「……わたし、充分欲張りなこと言ってます。永久指名とか、」

 と口にしたところで、なにか違和感があった。

 巡莉は頭の回転が速い方で、記憶力もいい。徒手筋力テスト(M M T)は、クラスの誰よりも早く会得した。そんな巡莉の脳が、ぱち、ぱち、とピースをはめていく。

「果村さん、わたしのこと、永久指名でいいって、言いましたよね……?」

「うん。」

 巡莉はわざと、不安そうに、自分の価値を確かめるように聞いた。果村は、したり顔で頷いた。

「……じゃないですか」

「ぇ」

 巡莉が果村に永久指名を言い渡したのは、随分前、今日と同じように、嫉妬心からだった。そしてそのときの果村はベロベロに酔っぱらっていて、次に店に来たときは、記憶がない、とのたまった。

「……憶えてるじゃないですか……あのときのこと。」

「ぁ……いや、……っとぉ……」

 ちらりと見た果村は、請求書の送付漏れを見つけたような深刻な仕草で顔を覆い、「あぁ~……そっかぁ……」とか弱い声を漏らした。

 指の隙間から見えた顔が真っ赤になっていて、やるせないような表情をしていたから、あぁ、可愛い……というある種庇護欲に似た感情を抱く。

 ついさっきまで甘えたいと思っていたのに、今度は甘えられるのも悪くないと思った。

「……あの日は、ほんとに、……だめだったからぁ……」

 俯いた果村に、巡莉は正しく理性を働かせられなかった。そうやって顔を隠しても、真っ赤になった可愛い耳が見えてますよ。そんなことを、巡莉は伝えてあげないことにした。その代わり、伸ばした手が、果村の頭に触れる。

 ぴく、と肩を揺らした果村は、しかしそれを振り払ったり、顔を上げたりはしなかった。臆病な小動物に触れるみたいに、カウンターを跨いだ手が、果村を撫でた。

「ちゃんと……指名のこと。憶えてたから、ご褒美。」

 そうやって取ってつけたような言い訳をしたのは、なにか言わなければ、いつ「可愛い」と口走ってしまうかわからなかったからだった。あと一撫で、いやもう一撫で、そんな欲求をなんとか押し留めて、巡莉はカウンターのこちら側に戻った。

 少しだけ名残惜しそうな果村の視線は、カウンターで作られた境界を越境した。

 その視線に追従して、続く言葉も越境する。

「私が他の娘と楽しそうにしてたから、怒ったんですか?」

 いつもの余裕そうな笑みが引き剥がされて、いっぱいいっぱいになったような必死な表情と、まだ少し、蕩けている瞳。

 あ、この人、仕返しする気だ。

「だ、だから……怒ってないです。」

「うそ。あの日のこと、憶えてますから、私。」

 ついさっき自分が暴いたのは、果村の醜態だった。そしてそれは同時に、巡莉の醜態を暴くことでもある。あの日、酔った果村に独占欲を爆発させたのは、紛れもなく巡莉の方からだったのだから。

 わたしをドキドキさせようなんて、そうはいかない。と、言葉として考えてはみるものの、巡莉の本能はもう少し賢明で、既に身体は甘やかな痺れに包まれている。お腹の奥の方が、妙な疼き方をしていた。

「……だって、わたしは……果村さんの指名だし」

「へぇ、そっか。」

 果村の指先が、巡莉の唇に触れていた。

 ぴし、と石化したように、巡莉は一切の行動を制限された。下唇を、果村の指先がしつこいくらいゆっくりなぞり、優しい力でつままれた。


「自分は私以外の人、たっくさん相手にするのに。私は駄目なんだ?」


 「ぁ」と思わず声が漏れる。

 果村が巡莉以外のキャストと飲んでいるとき、巡莉もまた、果村以外の客と飲んでいた。

「私も、嫉妬しちゃうかもしれないのに。」

 巡莉の耳元で、果村はそう囁いた。

 ぐっと体温が上がって、自分がメイド服のスカートを凄い力で掴んでいるのに気付く。くしゃくしゃになってしまったエプロンは、手汗のせいで少しだけ湿っている。パニエとフリルのせいでただでさえ熱が籠るスカート、ニーハイソックスと接続したペラペラのガーターベルトの内側を、じっとりと汗が滑り落ちていったのがわかった。

「果村さん、もう、わかってるんでしょ。わたしが……」

 意地悪な瞳と目が合って、巡莉はその先を言えなかった。

 少しだけ下がり眉の果村は、その大きな目を真正面から見つめても、あまり威圧感がない。コンシーラーで上手く隠されていても、そうもじっくりと見つめれば、彼女の隈に気付くことが出来た。

 不健康そうで、厭世的。なのに、そんな、意地悪な一面もある。

 じっと見つめ合って、結局、ふたりは、ふたりの関係を、どんな再定義もしなかった。



挿絵(By みてみん)


 果村(はてむら)木陰(こかげ)は、薄情な人間関係を信奉していた。

 それは、来るもの拒まず去る者追わず、の言い換えであった。

 そしてそれでいて、たとえ歩み寄ってくるものがいたとしても、踏み込むことを許したりはしなかった。この先、いつか一人になり、やがてそのまま死ぬのだと、それでいいのだと、果村は信じ切っていた。

 薄情な人間関係を、信奉していた。


 出勤すると、効きすぎているクーラーの冷風が吹きつけた。

 今更エアコンの設定温度で喧嘩するような幼稚さも元気もなく、果村は肩にひっかけていたジャケットに腕を通した。

 コーヒーメーカーから取ってきたコーヒーはホットで、冬になればアイスを飲んだ。この場所では、全てが逆だった。

 システムに登録していあるコードを入力し、請求書を印刷する。隣のデスクにいた同僚にダブルチェックを頼む。リングファイルに綴じられた勘定科目のリストをぺらぺらと捲る。いまだインボイスに対応していない領収書を送り付けてくる取引先に差し戻しの電話をかける。営業の社員が持ってきた突発的な領収書を検める。

 果村は、理想的な社員だと言えた。

 その美貌により近寄りがたく思われるも、愛想のいい受け答えのお陰で、疎まれたりすることはなかった。

 タイプを誤って、ディスプレイにニュース記事のページがポップアップする。大体は、誰かもわからないインフルエンサーが炎上しただとか、明らかに怪しい美容整形の広告だとか、可愛らしいマスコットに毒を吐かせたりするユーモアの記事で、普段だったら息を吐いて画面を戻すところだった。

 しかし、画面の下の方に表示された記事のタイトルが、嫌に脳裏にこびりついた。一拍遅れて、債権システムの画面に切り替える。

『作り笑いが人間に及ぼす影響とは……?』

 思わず鼻で笑ってしまうような記事だった。

 本当に心の底から面白いと思って笑ったことが、ここ十年であっただろうか。ホットコーヒーを嚥下しながら、果村は考えた。

 作り笑いとは、低コストのコミュニケーション円滑化ツールだ。果村は、これまでそんな考えで人間関係を実行してきたし、失敗したこともなかった。

 人間に与える影響。上席のクソつまらないジョークに笑ってやったとき、果村の唇は割れて、少しだけ出血した。少なくとも、その点だけで言えば作り笑いは人間に悪影響をもたらしている。

 使いかけのExcelファイルを開いて、セルの一つに狙いをつける。プラスのキーを押してFILTER関数を記述した。条件を矢継ぎ早に肉付けして、Enterを押す。

#SPILL!

 脳裏に、とある女の子の顔が浮かんだ。


 休みだったので、果村は十三時になってやっとベッドから出た。

 1LDKの賃貸は、会社から少し遠いという以外に文句のつけようがない物件だった。近くにはスーパーや二十四時間営業の飲食チェーン店があった。

 ダイニングに置いてある電気ケトルにウォーターサーバーの水を注ぎ、スイッチを押してベランダに出た。

 コーヒー一杯分の量なら、五分もかからずにお湯が沸く。ベランダの直前に引かれている電線が、夏風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。しばしそれを眺めていると、ぱち、と音がしたので、クーラーの効いた部屋に戻る。

 少しだけ汗ばんだTシャツの中を、人工的な冷気が吹き抜けていった。

「また痩せたな。」

 シャツを捲ってみると、前に見た時よりもウェストが心許なくなっている。傍から見れば、そのくびれは女性的で羨望の対象となるようなものだったのだろうが、実際にその身体を操る果村からしてみれば、なんとも継戦能力のなさそうな身体だとしか思わなかった。

 へそから滑り落ちた汗の雫が、ゆるくなってしまった下着の隙間に消えていった。

 粉末コーヒーの粉をマグカップにぶちまけて、湯を注ぐ。対流でいい感じに混ざるだろうから、マドラーを探したりもしなかった。ソファの前に据え置いたローテーブルにカップを置く。

 部屋の片隅には、インフレのときの札束みたいに、様々な本が積み上げられていた。

 本が好きなわけではなかった。SNSを何時間も見た後の虚無感が嫌いだった。

 ナショナルジオグラフィックの「色彩を極める」を取り上げて、そのページをぱらぱらとめくる。

 写真が上手くなりたいと思ったことはなかった。自己満足だったから、むしろ、上手い下手という基準に捕らわれない方がいいと思っていた。けれど、綺麗な写真を見るのは好きだった。二万円のコンパクトデジタルカメラで描き出される色彩は、十数万円のiPhoneで記述されるそれよりも著しく綺麗だった。

 赤と、青。そのコントラストが、果村は好きだった。

 ふと、めるとのことを思い出す。彼女のイメージカラーは赤色だった。赤のチェックがあしらわれたメイド服は、果村がずっと前に見たときから、色褪せることがなかった。

 赤と、青。それで、とある写真を思い出した。

 自分のインスタグラムのプロフィールを表示して、日付を遡る。風景写真の中に紛れ込ませた、前のスマートフォンで撮った写真。

 あの頃はよかった。懐古主義が、ふと果村の中で湧き上がる。

 自分から踏み込むこともなく、踏み込ませることもない。けれど、その境界線の淵を、楽しそうに歩いている。そんな友人のことを、果村は強いて遠ざけようとはしなかった。

 もう、二年は会っていないだろうか。

 スマートフォンが振動して、画面の上部に通知がぶら下げられた。


 あぁ、……だめだ。


*


 電車の中で「少女レイ」を聞きながら、巡莉は少しだけ涙ぐんでいた。

───やっば、これ、……クるわ……

 巡莉の自認として、先日果村と交わした会話は「告白」であり、得られた結果は「失恋」であった。さて、失恋をしたときは、どうやって立ち直ってきただろうか、と思考したところで、自分が失恋をしたことがないのに気付いた。

 参照できる経験がないのは、巡莉にとって恐ろしいことであり、それは様々な出来事を正確に記憶してきた彼女の抜群の記憶力のせいでもあった。鞄に潜ませていたゴニオメーターを弄んで気を紛らわし、巡莉は涙をこぼすということにはならなかった。


 巡莉が客と適当な乾杯を演じて、その話を聞き流している間、店内音楽は「絶対アイドル辞めないで」に切り替わった。指原莉乃の感性についてここでいきなり礼賛し始めたら、目の前の客はどんな顔をするだろうか。巡莉はそう考えながら、「そうですねぇ~」と相槌を打った。

 時間になったのか、ゅゅに肩を叩かれて、交替するのでさようなら、の下りをやる。今度の客は、果村のように巡莉を引き留めることはなかった。さらに言えば、今回巡莉が呼ばれたのは、巡莉が繋ぎだったからではなかった。

「こんばんは、めるちさん。」

 慣れたようにカウンターに座った果村は、今日も仕事終わりなのだろう、オフィスカジュアルの装いであった。この店は冷房を効かせすぎているということがなかったので、果村は厚いジャケットを脱いで背もたれにかける。

「ん……!」

「ん?」

 果村はジャケットからするりと腕を抜いた。抜いたが、現れたのは果村の何も纏っていない引き締まった二の腕だった。思わず視線が吸い寄せられ、ほとんど凝視のていになる。ノースリーブのトップスは、果村の無駄のない細い体のラインにぴったりと張り付き、そこから露出する二の腕をやけに魅惑的に見せた。

「な、なんでも……なに飲みますか?」

「じゃあ、ビール。」

 おしぼりを差し出して、ビールをオーダーする。「めるちさんのも。」と言われたので、ピースサインをバーに向けた。

 そこで、ふと、巡莉は果村の服装に違和感を覚えた。今日は土曜日で、完全週休二日制───だと、巡莉はあたりをつけている───の果村の会社は休みのはずだった。

 それに、昨日の夜は、珍しく果村のインスタグラムが更新されて、随分遅い時間に高速道路のパーキングエリアの画像が投稿されていた。

「今日、お休みじゃなかったんですか?」

 果村は、意外そうな顔で少しだけ呆けたあと、ふふ、と笑った。そうやって果村の瞳が和らいだせいで、また巡莉はむぐ、と言葉を詰まらせることになった。

「なんで、そう思ったの?」

「ぇ……だ、だって……」

 今日は土曜日だし、昨日は遅くまでドライブをしていたみたいだったし、いつもは手首の内側につけている腕時計が、外側についていたし……と、たどたどしく説明する間にも、そうやってすんなりと出てきた果村の気安い口調が巡莉の状態を混乱に陥れる。

 結局、巡莉は途中で言葉を絶やしてしまい、いつもの優しい顔で待っていた果村の表情に沈黙してしまった。

「……私のインスタ、そんなに見てくれてるんだ。」

「っ、いや、昨日は……その、……たまたま、」

 巡莉の脳裏、つい先日の会話を思い出した。

───そっか、この人。わたしが自分のこと好きだって、わかってるんだ。わかってんのに、こんなこと言ってるんだ。

「はい。果村さんのインスタ、たくさん見てますよ。今日は、ストーリーあがるかなって、また、写真投稿してくれないかなって……果村さんのドライブ、一緒に、連れてってくれないかなって。」

「……そ、っか……ふふ、そっか。」

「な、なんなんですかっ……その顔」

 今日の果村は、よく笑う。目元を強張らせることのない、屈託のない笑み。巡莉には、その原因がわからなかった。けれど、いつもより鼓動が強く高鳴るような気がした。

「友達が、ね。」

 果村の声は、決して大きくはなかった。しかし、それ以外の音が果村の声を邪魔しないように息を潜めたんじゃないかと思うくらい、巡莉には鮮明に聞こえた。

「……ずっと九州に住んでた友達、なんだけど。昇進して、東京に行っちゃうんですって。別に、ここに住んでるわけじゃないから、頻繁に会うことはなくって、年に二回くらい会ったかなぁってくらいだったんですけど。でも、私はそれでいいと思ってて、最悪、このまま疎遠になっても、仕方ないかな、とも思ってたんです。」

 果村木陰のエンドロールを、巡莉はほとんど関与しない状態で聞かされていた。それでも、果村の語り草は巡莉にとって新鮮で、詠うようなその声色が心地よかった。

「でも……だめなんだって。」

 きっと九州出身なのだろう果村は、けれど極端に訛りがなく、いつも標準語で話していた。それが、少しだけ揺らいだような気がした。

「気軽に会えなくなっちゃうから、……私とは、最後、ちゃんと……会いたいっ、て……」

「果村さ」

 ぐい、とビールを呷り、ほとんどいっぱいに入っていたそれを一口で飲み干した果村は、少しだけ潤んでいるように見える瞳で言った。

「ごめんなさい、……ただ、それだけの話。」

 思わず、思い出した。果村のインスタグラムに投稿されていた、唯一の果村の写真。その隣にいた、誰かのことを。

「……あの写真に写ってた人ですか……?」

「あの、写真……?あぁ、そっか。うん。その人。」

 少しだけ細めた目。巡莉にはわかった。それは、なにかを厭うた仕草ではなく、記憶を遡るファクター。それを、慈しむ瞳。

 合点がいった。休みなのにわざわざ街中まで出てきた理由、いつもより遅い時間に来店してきた理由、いつもと違う服の系統と、アクセサリーの身に着け方。

「今日、だったんですね。」

「うん……さっき、お別れしてきた。って、来年また会う約束してるから、全然悲しいやつではないんですけどね。」

 ただ、九州に窮屈に押し込まれて、そこでダラダラと生きていただけの巡莉には。同世代の大部分がまだ就職をしていない巡莉には、果村の感傷に共感できる記憶がなかった。卒業や転校のような、電撃的で衝撃的なイベントではなく、しかし、日常生活の節々に微かな痛みを伴うような、ある出来事。

 そこに巻き起こる感情を記述した言葉を、少なくとも巡莉は、まだ知らなかった。

「……仕事の話、してもいいかな。」

「え……?は、はいっ……!」

 果村が急に話題を変えたから、反応が遅れた。巡莉は、もう一度、よく果村の目を見た。

 きっと、そこには通底している”何か”がある。話題は、きっと変わっていないんだろうな。巡莉は、そんな予感だけを得た。

「昨日、帰り際。いい加減、やらないとって思って、Excel開いて、関数打って、何度も失敗して、でも、頑張ったの、私。あぁ、やっと……綺麗に、こぼれてくれた。」

 #SPILL!

 スピルのおおよその意味を思い出して、巡莉はそこに、どんな意味が込められているのか。それは、果村の中にあるどんな感情がスピルしたものなのか、ゆっくりと、時間をかけて考えた。

「そんなに、真っ赤にならないでよ。」

 ころころと笑った果村に、巡莉はなにも言葉を返せなかった。

 ただ、真っ赤な顔を見られるのが恥ずかしかったので顔を覆って、果村の優しい瞳から逃げることしかできなかった。

 自分で、少しは顔の赤みが引いたかと思って、顔を隠していた手を下ろした。その実、巡莉の顔は依然赤いままだったが、果村もわざわざ指摘しなかった。

 ぱくぱく、と口を動かした巡莉は、「ぁ」とか細い甘えた声しか出ないのに気付いて、慌ててスマートフォンを差し出した。

 インスタグラムのQRコード。それは、巡莉の個人用のアカウントで、本物のアカウントだった。

 微笑んだ果村の表情。巡莉の胸中に、一抹の不安がよぎる。また、あの日と同じことになってしまうんじゃないか。

「不安そうな顔、しないで。」

 果村は、自分のスマートフォンでそのQRコードを読み込んだ。

「かわいくて、食べたくなっちゃう。」

 スマートフォンを持っていた手が震えて、ガタガタとそれを取り落した。カウンターの内側を駆けまわったスマートフォンを慌てて回収する。巡莉はようやく、普通通りの声音で話せるようになったのに気付いた。

「……わたしのこと、そうやって、揶揄ってるんでしょう……っ?」

 浮ついている。そわそわしている。心臓が、甘い波動を伝播させている。それでも、巡莉は果村に受けた仕打ちを忘れてはいなかった。あんなにも口説かれたのに、インスタグラムの交換すらしてくれなかった。

 自分以外の女と、あんなにも楽しそうに話して、テキーラで乾杯すらした。

 永久指名の約束を、覚えていないと有耶無耶にされそうになった。

 果村は、いつかそうしたようにカウンターに上体を投げ出して、自分の腕枕に沈みながら、巡莉にしか聞こえない声量で言った。


「本当に、大好き……なんだけどな。」


 ぶち、と。脳の中心を脳幹だとしたときに、その右斜め前、上下の座標は中間くらいのなにかしらの脳の器官が、明確に音を鳴らした。ように、巡莉は錯覚した。覚えている筈の脳の各部位の名称は、ひとつも出てこなかった。

───貴方は、貴方が信じていた”薄情な人間関係”を、どこに置いてきたの?

 カウンターには、なにも乗っていなかった。ただ、果村という人間が、そこに引かれた境界線をまたいで、こぼれて、あふれて、横たわっているだけだった。

「巡莉ちゃんは……ううん、ごめん。」

「ほんと……ほんとっ……最悪ですっ……大好きっ」

 つんと鼻の奥を突く感覚。声が震えていたから、泣きそうになっていたのを悟られる。

「いいの?ほんとうに、私で。」

 ゆっくりと身体を起こして、果村は巡莉の手を取った。指先をふにふにと摘まむ力は、痛くはないけれど、思っているより力強い。きっと、今までの果村ならば、加えることのない力。

「逆に……はてむらさんは、いいの?わたしで……」

「……だって、永久指名だから。」

 巡莉の指が、果村の掌に絡む。

「名前。果村さんの、下の名前教えてください。」

「木陰。こかげ、だよ。」

 果村の名字を聞いたとき、この人にぴったりの名前だと思った。それと全く同じ感情を、巡莉はまた抱いていた。

 自分の娘に「陰(かげ)」という漢字をいれることについては、少しばかり気がかりだったけれど、果村という人間に授けられる名前としては、それが一番正しい気がした。眩しいくらいの光の中、穏やかで安らぐような、心地のいい場所。

「木陰さん。」

「うん。」

 果村は、そうやって真面目な顔をしていることに耐えきれなくなったのか、楽しそうに笑って指先を解いた。

 その耳が赤くなっているのを、巡莉もちゃんと見ていた。

「ごめんなさい……今日は、帰ろうかな。忘れてくれてもいいから、また明日……連絡ください。」

 立ち上がろうとする果村に、思わず手を伸ばす。

 巡莉に掴まれた手首を見て、果村はしばし呆気にとられ、なにか、やるせない表情で「仕方ないなぁ」と座りなおす。

「ヤダ、絶対……忘れない。」

「わかった、……ありがとう。でも、今日は帰る。」

「今日、車?」

「うん。だから、どこかで朝まで時間潰して」

「やだやだやだっ……絶対、一緒に帰る……っ」

 全身全霊の我儘を言った巡莉は、果村がぴたりと動きを止めたのに気付いて、はっと我に返った。そんなことを言っているときに果村を見られるはずもなかったから、ずっと俯いたままだった。

 嫌われる。面倒くさいって、迷惑だって思われる。ぐるぐると巡る思考がショートして、それが復帰するより前に、

「もぉ……かわいいんだから。」

 優しい掌が、撫でてくれる感触。愛おしそうに、慈しむように言った、声色。

 涙を溜めて見上げると、果村は寂しそうな顔でほほ笑んでいた。

───そんな顔、してくれるんだ。

「じゃあ、閉店までずっといる。退勤まで待っとく。だから、一緒に帰りましょう、めるちさん。」

 思わず、想いがあふれる。

「一緒に、お泊まりして、明日っ……木陰さんの車でドライブしたいっ……助手席、乗せて欲しい、です。」

 巡莉の自意識が展開して、好意が越境する。”薄情な人間関係”という情報を消去されたセルには、もう、その吐露を邪魔する情報は入っていなかった。Enterキーを弾く。

「うん、いいよ。」


■■が、スピルされています。


挿絵(By みてみん)


 助手席でニコニコと視線を向けてくる巡莉を見て、果村は居心地悪そうにハンドルを操った。

「心配になっちゃうなぁ……こんなに簡単に着いてきちゃって」

「別に、これくらい普通じゃないですか。デート、みたいな?」

「最近の若い子ってそんな感じですか……?あぁ……私、巡莉ちゃんと何歳差だっけ……」

 何歳だろうと自分よりも綺麗で可愛くて格好いいのに。巡莉はそう思ったが、こと年齢を憂いている人に、その手の言葉が通用したことはない。揶揄うように笑うに留めて、頭の中で何度も「巡莉ちゃん」という発音を復唱する。

「木陰さん、なんであの日、うちのお店来たんですか……?」

「あぁ、あの日……」

 初めて果村が巡莉の勤務するガールズバーに来たとき。

 それは、いつも通りに仕事の全てに嫌気が差した果村が、勇気を出した結果だったのだが、巡莉が聞いているのはそういうことではないのだろうと、果村はもう少し遡った。

 つまらない職場の飲み会の帰り。二次会を募る輪からするりと抜け出して、同じ部署の同僚に先に帰ることを告げた。大して酔えもしなかったのに、アルコール特有の気持ちの悪い感じが喉元に居座っていた。最悪の気分で、繁華街を歩いていた。

 そのとき、すぐ隣を、メイドさんが歩いて行った。

 そのメイドは、酔っ払いにスカートを捲られそうになり、その酔っぱらいを口汚く罵った。ピリオドを打つように舌打ちを見舞って、数歩先で声をかけた男たちには、これでもかというくらい可愛らしい声で客引きをした。

「あぁ、この娘だな、って……思った娘がいたんです。」

 忘れられなかったから、メイド喫茶コンセプトのガールズバーを検索した。

 キャバクラばかり紹介しているサイトの中で、同じ系統のメイド服を着た女の子のページを見つけた。けれど、巡莉はそこに載っていなかったから、当然行きあぐねた。

 それでもあの日、果村は、あの雑居ビルのエレベーターで、ボタンを押した。


 あふれる


 パーキングエリアの表示が出たので、ウィンカーを出してハンドルを切る。果村の車は、危なげなく駐車場に入り、トイレに近い適当な場所に駐車した。


「ご飯でも食べながら、どこに行くか考えよっか。」


──────────


 中学のころからつるんでいた友人から、連絡が来た。

 私は、人間関係というのは、傍から見れば多少薄情に見えるくらいが健全でちょうどいいと思っていたから、わざわざ彼女に踏み込もうとは思わなかった。自分にだって、踏み込ませていたつもりはなかった。

 それでも、私は結構隙があって、詰めが甘いみたい。

 学生だった頃から、彼女にはそんなことを言われていた。主に恋愛面で。

 理解できなかった。

 どうせ深く踏み込んでも、傷ついたり、傷つけたり、傷つけてしまったことで傷ついたり、それでいて、簡単なことでぷつりと切れてしまうかもしれなくて、だらだらと続いたりすることもある。そんな博打みたいなことを当たり前のことだって、世間は受容している。

 だから、私に「結婚は」とか「一人だと誰にも頼れない」だとか、「もっと協調性を」だとか言ってきた奴らは、救いようのない馬鹿だと思っていた。というより、今だって思っている。

 まずそもそも私にその感傷的でじめじめとした人間関係を築けなかった人間が、どうしてそうも声高に大言壮語するのか、失笑を堪えるのに苦労した。

 でも、彼女は違う。

 いっつも好きな男子がいて、付き合って、別れて、女子のグループに省かれて、いつの間にか中心人物になっていて、たまに病んで長文のストーリーを上げたりする。それは、教育機関を卒業して十年にもなる今でも、たまに見せる彼女の行動だった。

 彼女のその人生の中に、私は、そんなにも立派な椅子を用意してもらっていたなんて、思いもしなかった。

『やっぱり、木陰と最後に飲まないと駄目だ。絶対予定空けてよ!』

 活発な彼女の声で、その文章が脳内再生される。同時、同じような相手が、もう一人いたのを思い出す。

 私が二人に向ける感情は、親愛と性愛だったから、全然違ったのだけれど、ふたりとも、いつの間にか私の傍にいる。思わず、こぼれそうになる。あふれそうになる。

 友達でいてくれてありがとう、とか。本当は、大好きだから、付き合って欲しい、とか。全部がぽろぽろと零れて、溢れて、全部を私の感情で水浸しにしてしまいそうになる。

 家族、友人、会社、ネット、ガールズバー、恋人。

 社会性とは、人間の真髄だ。

 でも、こうも社会性というものに雁字搦めにされると、ごく稀に、息ができなくなることがある。素知らぬ顔で嘯いていた”薄情な人間関係”という言葉を、話せなくなることがある。


 そんなときの断末魔として私の小さな信仰は感傷的な人間関係を肯定する。


Spill -スピル-


*Special Thanks*

看護学生経験のある友人

経理部に勤務する友人

音楽に異常な執着を持つ友人


ある地方都市のガールズバーにいる妖精


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