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エルフの常識

 妊娠してから八ヶ月を迎えたお腹はすっかり丸みを帯びて、以前の肉付きのないぺたんこだった以前の体とは似ても似つかない。おかげで体が重く感じるが、これも嬉しい悲鳴というやつなのだとセシルの頬は自然と上がる。

 オルキスと結婚してからすっかり日課となった午後のお茶の時間にも、気が付けば丸いお腹を撫でてしまっていた。そんなセシルの優しい手つきにオルキスも穏やかな笑みを浮かべながらティーカップを持つ。


「まだ八ヶ月なのに、こんなに大きくなるなんて。この子は立派な子になるに違いないね」

「まぁ、オルキス様ったらまだだなんて。あともう少しではないですか」

「もう少し?」


 何か行き違いが起きている。首を傾げた二人にはそれが分かっているのだが、その行き違いが何かは分からなかった。だが、側には優秀な執事が付いている。アルジェフルートはひっそりとオルキスの側に近付いて、こっそりと耳元で口を開く。


「……オルキス様。差し出がましいことだとは存じておりますが、エルフと人の子では妊娠期間が異なります」

「え?」

「人の子は十月で生まれて参ります」

「な……何だって!」


 アルジェフルートが話した内容に驚いたのはオルキスだ。思わず、アルジェフルートを振り返って、その後セシルのお腹を二度見している。


「あの?」

「取り乱してすまない。その、エルフは三十月ほど身ごもっているんだよ。だから驚いてね」

「三十月もですか……?」


 今度はセシルがオルキスの言葉に驚いて目を丸めた。人間のおよそ三倍もの期間を妊娠しているなんて、想像もしていなかったのである。


「エルフは姿形こそは人間と似ていますが、その体の構成は精霊に近いのでございます。精霊がエルフの母の腹の中で世界に馴染む準備をしているのだと言われているのですよ」

「なるほど。でも、エルフの寿命を考えたら人と同じだと考える方がおかしいのかもしれませんね」


 助け舟を出したアルジェフルートの言葉にも納得である。有限の短い寿命の人間と長い時を生きるエルフが同じものとして考える方が間違っているのだろう。


「こうしてはいられない。ジェイドに早く女神の涙を送るように言わないと!部屋で手紙を書いてくるよ。セシルはゆっくりお茶を楽しんで」


 それまで呆然としていたオルキスは突然立ち上がると、そうとだけ言い放ってカップを置くとあっという間に見えなくなってしまった。それを見送っていたセシルだったのだが、オルキスの言葉を半濁してはっと我に返る。


「……待って。今、オルキス様は女神の涙と話されていた?」

「はい。そのようにおっしゃっておりました」


 セシルの問いにいつものように淡々と頷いたアルジェフルートの言葉に座っているはずなのに目眩がした。彼は今、信じられない爆弾を置いていったのである。彼は今、「女神の涙」という言葉を言い残して行ったのだ。


「女神の涙なんて、人の世界では伝説の神薬よ?病だけでなくどんな怪我にも効果があって、無くした腕が生えてくるなんて伝説もあるくらい。それこそ一滴でお城も買えると言われるようなものよ?」

「さすがに無くした腕は生えてきませんよ。取れかけている程度でしたらくっ付きますが。それにいくつか効果のない病もございます」


 セシルの言葉にアルジェフルートは面白い話を聞いたかのように、おかしそうに言葉を返した。しかし、彼が話す内容も聞き流すには聞き流せない言葉が含まれている。

 前の生で薬師をやっていたセシルだからこそ、その薬のありえなさに理解が及ぶ。どんなに効能がある傷薬でも、治癒を早めて傷を塞ぐ程度のもの。効能が高いものほど伝説級の材料を必要とし、いとも簡単に作れるようなものではない。その上、「女神の涙」は怪我だけでなく、ほとんど万病にも効果があるとされている。そのことがすでに「ありえない」のである。


「大昔に吟遊詩人の歌で聞いたことがあるだけだわ。それが現実に存在するだなんて……」

「そんな大層なものではございませんよ。月の光を百年浴びたティアストーンを女神の泉の水に百年漬けておくだけですから」


 確かに悠久の時と生きるともされるエルフからすれば大層なものではないのかもしれない。だが、人間には到底作り得ない薬であることだけは理解できた。オルキスと共に過ごすようになって、大分エルフのことを知ったつもりでいたが、それもまだまだだったらしい。


「その薬をオルキス様は何に使うおつもりなのかしら?」

「それは、セシル様のご出産に備えてでございましょう。どんなことにも対応できますからね」

「ええ?そんな、私になんて勿体無いわ!」


 ため息と同時に出た言葉だった。まるで戦にでも出るつもりなのだろうか。そんな大層な怪我なんてそうそう負うことはない。

 アルジェはそんなセシルににっこりと微笑んで、空になったカップにほかほかのお茶を注いだ。信じられない言葉と一緒に。


「大丈夫です。エルフの家には水瓶いっぱいに備えているのが常識ですから。そういえば、あとはアベルの丸薬を用意するとおっしゃっておられましたよ」

「アベルの丸薬……?まさか。それを口にしたら一週間は飲まず食わず、そして睡眠も必要とせずに走り続けられるっていう?」

「さすがセシル様。よくご存知でいらっしゃいますね。出産の際はとても体力を消耗すると言いますから」

「……アルジェ。私、目眩がするわ」

「まぁ!それはいけません。フォーレを呼んで、部屋までお連れいたします」


 たかが出産と言うつもりはない。そのことが原因で命を落とす人間は多いのだ。しかし、それにしたって重々しすぎるのではないだろうか。そう思うのに、それが当然だと晴れやかな笑みを浮かべるアルジェフルートを見るとセシルは何も言えなくなる。


「アルジェ!これをジェイドに届けておくれ」

「かしこまりました」


 大急ぎでオルキスが現れ、小さく丸めた紙をアルジェフルートに渡す。するとアルジェフルートは見る見るうちに人の姿から白銀に輝く鳥の姿へと転じた。そして羽を広げると、あっという間に白銀は空に消えた。


「目眩がするんだって?病だったらいけないね。今薬を持ってこさせよう」

「オルキス様、その薬って……?」

「女神の涙だよ。いつも飲んでいるだろう?」

 

 オルキスは当然のように笑みを浮かべて言うと、セシルのこめかみに唇を落とす。エルフの常識はまだまだセシルには理解できないのであった。

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