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部屋中に、低く地を這うような男のいびきが聞こえている。
いびきの主に体を預けて眠っていたユリは、何者かの気配を過敏に感じ取って、静かに目を開いた。
(来る。)
石壁の一部がぼこりと開き、隠されていた通路が暗く口開ける。
「ユリ様!」
小声で喜びを叫びながら入って来たヤヲに、ユリは人差し指を唇に当てて見せた。
「スラスラ、寝てる。」
「は? この状況で? 熟睡ですか……」
ユリは静かに微笑んで、自分を乗せているスライムを見下ろす。
それはヤヲの脳内で変換されて、この上なく幸せな微笑みに見えた。
「まぬけ(見てよ、この間抜けな寝顔……)」
幼い指先がスライムの顔を、愛しげになぞる。
ヤヲには正直、ぶよぶよと液体を満たしただけの生き物に顔があるとは思えない。
だが切ない指の動きは、想い人の唇にそっと触れているようにも見えた。
「スラスラ、ユリ、怖がらない。」
脳内の補完力に頼らずとも、ヤヲにはその想いが痛いほど伝わった。
……ユリの周りには、いつも不機嫌な顔しかない。
傍仕えの女たちは、何時巻き添えで危険な目に遭うかと、びくびくとしたまなざしをユリに向ける。護衛の職を預かるものたちは、その使命感ゆえに、やはりユリに油断した顔を見せることは無い。
たまにヘラヘラと向けられる笑顔は、ユリを利用せんがための愛想含みか、陥れんがための侮蔑含みの、厭らしいものだ。
誰一人として、無防備な姿をユリにさらすものはいなかった。
母君以外……
「怖い、起きる。まぬけ、安心。(怖くて目が覚めても、隣にこの間抜け面があると、安心しちゃう……)」
「しかし、ユリ様……」
不安の言葉をさえぎって、隠し通路から紫色の甲冑が入って来た。
「ふう。やはり現役の頃ほどは、動けんもんじゃのう。」
両腕で抱えた首は、体とは繋がっていないくせに、真っ赤になって、ふうふうと息を切らしている。
「誰?」
スライムにしがみつく幼い姿に、クアネ大将軍は目を細めた。
「あんたが魔王の……なるほど、魔力の質が良く似ておる。」
ひょいと片手でユリを抱き上げ、もう片方の手で自分の顔をその顔にちかづけたクアネは、少し眉をひそめる。
「しかし小童も鬼畜じゃのう。こんな幼子に、無体な……」
ヤヲがゆらりと、瞳を燃やした。
「こ……の……狼藉者がああああああ!」
ひじを硬く突き尖らせ、自分の全体重をかけて柔らかな体に打ち下ろす。
「ぐほうぉお?」
中心を打ち抜かれる衝撃に、スライムがのけぞった。
「やめる!」
「案ずるな。サンドバッグと書いてスライムと読むぐらいじゃ。あの程度、目覚ましには丁度良いぐらいじゃて。」
「ンなこと言ったって、痛いモンは痛いんだよぉ……」
よろりと起き上がりながらも、首無しの甲冑を見たスライムは気安い声を出した。
「よう、ジジイ。まだくたばって無かったな。」
「ふん、小童こそ、女の趣味が変わったな。」
「あ? 別に、ユリは俺のオンナって訳じゃ……」
振り向いたスラスラの目に映ったものは阿修羅……ではなく、流れる金髪までもが逆立ちそうなほどの怒りを、しゅおーと噴出しているヤヲの姿だった。
「やり捨てですか……人でなしですね。」
「ヤヲ、落ち着いて話そう。多分、誤解がある!」
しゅこー、しゅこーと音立つほどの怒りを吐きながら、ヤヲの腕が詠唱の陣を頭上に振りかざす。
「クイチ=セツン=セケハリ=クミー(岩裂く真空の刃)……」
「待て、ヤヲ! 魔法はやばい。俺の計画が……」
「ス=ウチソ(切り裂け)!」
ボヨンと跳ね上がるスライムが、間一髪で渦巻く風を飛び越えた。
「あああ、面倒くせぇことになったな。脱出は、こっそりひっそりが基本なのに……」
デュラハンが高らかに笑う。
「お前の爺さんは、ド派手な作戦が好きだったぞ。」
「俺は堅実派なんだよ。」
ヤヲの手から、第二波が放たれた。
「どうああああっ?」
ぎりぎりで避けたスライムの頭上を掠めたそれは、ド派手に壁をぶちぬく。
「とりあえず、あいつを止めてくれぇ!」
ヤヲが再び詠唱をはじめる。それを見たスライムは、悲鳴を上げた。




