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甲冑の騎士と縞柄の子猫

 二日後の昼下がり、久々にリシャールが『海豚とオリーブ亭』の裏手に姿を現した。


「リシャール様、ティグルを……あの子猫を見ていかれませんか?」

 猫に餌をやり終えた後、セレスティーヌはリシャールに尋ねた。

「子猫か、そうだな」

 驚くほど明るい声でリシャールはそう応えると、セレスティーヌの後について、裏戸から『海豚とオリーブ亭』の台所に入った。


 外の猫たちに餌をやった後は、子猫のティグルの餌の時間である。

 子猫はこの日課をすっかり覚えており、台所に入ってきたセレスティーヌの足元に駆け寄ると、催促するように鳴きながらまとわりついた。

 だが、セレスティーヌの後ろに見慣れぬ甲冑の人影を見つけると、動きを止め、じっと様子を窺う。

 リシャールもまた、子猫に警戒されることを恐れ、抑えた動きでゆっくりと移動した。

「おいで、ティグル」

 セレスティーヌが子猫の餌の皿を床に置くと、子猫は駆け寄り、夢中で食べ始めた。

 セレスティーヌは子猫の傍に立ち、少し背を屈めてその様子を見守る。

 リシャールはやや離れた場所にたたずみ、子猫とセレスティーヌを見つめていた。


 子猫が餌を食べ終えると、セレスティーヌは皿を片付け、棚の隅から小さな釣竿のように見えるものを取り出した。

 手首から肘までくらいの長さの棒に糸がくくりつけられ、糸の先には鳥の羽を束にしたものが、釣り餌のようにぶら下がっている。

「これ、好きなんですよ、この子」

 そう言って、セレスティーヌは笑顔でリシャールに釣竿もどきを手渡した。

「こう、こっちを持って、この子の目の前で動かすと、喜んでじゃれつくんです。猫釣竿って呼んでます」

「ああ!」

 納得したように、リシャールが頷いた。


 甲冑の騎士はしゃがみこむと、猫釣竿を構え、小刻みに動かした。

 子猫はすぐに、糸の先についた羽の束の動きを目で追い始めた。

 最初はただ目のみで追っていたものが、次第に首を動かし、夢中になって見つめ出す。

 ついには身を伏せ、獲物を狙う姿勢をとった。

 尻尾の毛をふくらませ、下半身をふるふると振るわせると、子猫は揺れる羽の束に踊りかかった。

 その瞬間、リシャールはひょいと竿を動かし、羽の束をさらに大きく揺らした。

 子猫は前足を上げ、身を躍らせて、揺れる羽の束を捕らえようとする。

 ひょいひょいと揺れる羽の束。敏捷に追う子猫。

「そら、そら!」

 甲冑の騎士は小声で呟きながら、一心不乱に竿を操る。

 その緩急のつけ方が実に見事なので、子猫はさらに夢中になって、羽の束にじゃれかかる。

(慣れてる……きっと、猫を飼ってたことがあったんだ)

 セレスティーヌは、少し驚きながら、子猫と遊ぶリシャールの姿を眺めていた。


 ひとしきり遊ぶと、子猫は眠くなったのだろう。いきなり動作が緩慢になり、うつらうつらし始めた。

 リシャールは手を止め、伺いを立てるようにセレスティーヌに頭を向けた。

 セレスティーヌは頷いて、リシャールの隣に歩み寄った。

「眠ってしまったようだ」

「そうですね……あ」

「うん?」

「ちょっと思いついたことがあるんです」

 そう言うと、セレスティーヌは壁際に置かれていた丸椅子をリシャールの隣まで運んできた。

「おかけください」

 リシャールは金属のこすれる音を立てないように気を遣いながら、ゆっくりと立ち上がり、促されるままに椅子に座った。

「そのままちょっと待っててくださいね」

 そう言い残し、セレスティーヌは台所の隅に向かい、ごそごそと何かを探した。

 やがて、古ぼけたショールを手にリシャールの隣に戻ると、彼の膝の上に畳んだショールを置き、平らに整えた。

 問いかけるように首を向けたリシャールに頷き返し、セレスティーヌは眠る子猫に歩み寄った。

 そして子猫をそっと抱き上げ、リシャールの隣に戻り、その膝の上に子猫を置いた。

 子猫は一瞬手足をぴくりと動かしたものの、目を覚まさずに眠り続けている。

「起こさないですんだみたいです」

 椅子の横に屈み、リシャールの膝上で眠る子猫を撫でながら、セレスティーヌは言った。

「……ああ、よく寝ているな」

 リシャールは放心したように呟くと、大きく息をついた。

「セレスティーヌ……」

「はい、何でしょう?」

「その、ありがとう。よく思いついてくれた」


「ずいぶん大きくなっていたのだな」

「あれから二十日も経っていますから」

「そうか、二十日か……」

 リシャールは噛み締めるように呟くと、ゆっくりため息をついた。

「惜しいことをした。かわいい盛りを見逃してしまったかもしれない」

「今でも充分かわいいと思いますけど」

「まあそうなのだが……幼い猫は格別だからな」

 その声があまりにも残念そうだったので、セレスティーヌは思わず軽く笑いを漏らした。


「リシャール様は猫を飼ってたこと、あるんですか」

 子猫を撫でながら、セレスティーヌは小声で尋ねた。

「飼っていたというか……幼い頃私が住んでいた館にも、やはりこんな風に台所に住み着いている猫がいたのだ」

「ああ、そうなんですね」

「子供の頃は、よく猫を見に台所に入り込んだな」

 呟くように、リシャールは小声で話し始めた。

「台所の猫たちは格好の遊び相手だった。

 猟犬小屋の犬も好きだったのだが、しつけの妨げになるので下手に手を出すなと言い渡されていたから」

「猫だけじゃなく、犬もお好きだったんですか」

「そうだな。犬や猫が好きだった。他にいい遊び相手がいなかったせいもあるかな。

 兄とは五つ違い、妹は九つも年下だ。兄妹で遊ぶということはほとんどなかった。年頃の合う使用人の子供もいなかった。

 どちらかと言えばひとりで遊ぶことが多かったな。それもあって、猫は友達のようなものだった」

 セレスティーヌは内心の驚きを隠しつつ、リシャールの顔を見上げ、相槌を打った。

 今までにはなかったことだ。リシャールがごく自然な調子で、子供時代の思い出を語っている。

「猫を見るついでにつまみ食いをして、料理番に怒られたりもしたものだ」

「つまみ食いのほうがお目当てではなく?」

 冗談めかしてそう返すと、リシャールは軽く笑いながら応えた。

「ひどいな。たしかにそれも楽しみだったが。

 こっそりチーズのかけらをかじったり、祭日のために焼かれた木の実入りの焼き菓子をくすねとったり」

「リシャール様って、意外と」

「意外と、なんだろう?」

「いえ、いたずらな子供でいらっしゃったのだなと」

「そうだろうか」

「ええ」

「男の子はみなそのようなものだよ。たぶん」

 苦笑を漏らしながら、真面目くさった調子でリシャールはそう返した。

(こんなふうにお話しすることもできたんだ)

 以前はセレスティーヌが話すばかりで、リシャールはほぼ聞き手に徹していた。

 今はリシャールが語り、セレスティーヌがその話に耳を傾けている。

 そのことがなぜかとても嬉しくて、セレスティーヌは思わず小さく頷き、笑みをこぼした。

「どうしたのだ?」

 脈絡もなく頷いたことに驚いたのだろう。リシャールが不思議そうに問いかけた。

「いえ、なんでもないのです。ただ」

「うん?」

「今、リシャール様はどんなお顔をしておられるのだろうと思って」

「私の顔か……」

「きっと今は笑ってらっしゃるのだなと思うと、つい」

「そうだな……」

 リシャールは真面目な声で応えた。

「考えてみれば、あまり公平ではないな。私はこうやって好きなだけ君の顔を見ることができる。だが君は、私の顔を知らない」

「仕方ないことです。そりゃ、できれば見てみたいとは思いますけど」

「仕方ない……か」

「でも、ただちょっとお顔を見てみたいというだけで、リシャール様から力を奪うなんてできませんし」

「力……そうだな」

 リシャールは独り言のように呟いた。

「もっと強くあれたら、と、思う。

 このような甲冑に頼ることなく、生身をさらけ出し、立ち向かっていくことができたら。

 とは言え、難しいな。手に入れてしまった力を投げ出すのは勇気のいるものだ……だがせめて」

 何かを言いかけて、リシャールはふっと口をつぐんだ。

「リシャール様?」

「ああ、いや。なんでもない。気にしないで欲しい」

 リシャールの声は穏やかで優しい。だが、何か抑えがたいものを抑え込もうとしているような響きが、そこにはあった。

「そろそろ戻らないとな」

 呟くように言って、リシャールは膝の上に拡げられたショールごと子猫のティグルを持ち上げ、セレスティーヌに差し出した。



「セレスティーヌ」

 路地裏に続く扉の前でリシャールは振り返ると、セレスティーヌに呼びかけた。

「私はまたここに来たい。だが、不安なのだ。私と接触を持つことによって、君に危険が及ぶのではないかと」

「リシャール様?」

「私は君を失いたくない。だからこそ、私は君の傍にいてはならないのではないか」

「いいえ、リシャール様」

 セレスティーヌはリシャールの横に歩み寄り、彼を見上げて口を開いた。

「リシャール様が来られなかった間、ずっと後悔していました。

 もう一度お会いできて、お話しを聞かせていただいて、本当に嬉しかった。だから……」

 セレスティーヌは言葉を切り、首をかしげて続く言葉を捜した。

 しばらく考え込んでから、再び顔を上げ、セレスティーヌは続けた。

「このまま離れていくのは嫌です。

 わたしはリシャール様の足手まといにはなりたくない。

 わたしがいることでリシャール様のお力を削ぐ事になるのなら、もうお会いしないほうがいいのかもしれない。でも、簡単に諦めたくはないのです」

「諦めたくない……」

 リシャールは噛み締めるように、ゆっくりとその言葉を繰り返した。

 しばし思いを巡らせると、リシャールは決然とした調子で話し始めた。

「セレスティーヌ、私にも諦めたくないことがある。

 だが、本当にそれを望んでいいものか、ためらってもいる」

「リシャール様?」

「私は……せめて君の前では、甲冑を纏わずにいたい。よろわぬ姿で、直接君に触れたい」

「でもそれでは、甲冑の魔法が」

 不安そうに問いかけるセレスティーヌに、リシャールは軽く頷き、言葉を続けた。

「ああ、このままではな。

 だが、叔母は用意周到な人でね。私の『誓言』には少しばかり手が加えてある。

 『誓言』で言うところの親族は、血縁者のみを指すのではない。法の下に正しい手順に従って誓いを立てた、血縁者と等しい関係にある人間をも含んでいる。

 叔母の言うところの親族とは、祖母、母、おば、姉妹、そして……妻だ」

「え……」

「誓いを立て、正式に婚姻関係を結んだ妻の前であれば、私は魔力を失うことなく甲冑を脱ぐことができる」

「リシャール様、それって……」

「君を私の妻に迎えたい。セレスティーヌ」

「わたしが……リシャール様の、妻」

 思いもしなかったことだった。

 ともにありたい、傍にいたいと願っていた。だがその思いがどこに繋がっているか、セレスティーヌは理解していなかった。

 いや、理解していなかったわけではない。ただ、それが可能だとは思っていなかったのだ。

「君が望まないなら、無理にとは言わない。ただの戯言だと思って忘れてくれ」

「私は宿屋の下働きで、実家は田舎の農家です。でもリシャール様は……」

「確かに立場が違う。育ちも違う。それが障害にならないとは思っていない。だが、望んで手の届かぬものだとも思わない」

「リシャール様……」

「愚かだと呆れたか? だが、そんな未来を夢見ることがある」

 望んで手の届かぬものだとも思わない――そう言いながらも、リシャールもまた、それがいかに困難であるかを知っているはずだ。

 現に彼は、そんな未来を『夢見る』、と言った。

 それは夢にも等しい、愚かな希望なのかもしれない。

 だが、そうわかっていても、思い描き、求めずにはいられないものなのだ。

「リシャール様、叶うことならば、わたしもあなたとともにありたい。あなたの隣にいたい。

 もし方法があるなら、ただの夢のままで終わらせたくはありません」

「方法か……そうだな。まずは方法を探さねば。すべてはそれからだ」


「しばらく来られないかもしれない。だが、きっとまた来る」

 切々とした声でリシャールは言った。

「ええ、お待ちしています」

 笑顔で応えるセレスティーヌに軽く頷くと、ふと思いついたように、リシャールは言い足した。

「何かおかしなことがあれば、すぐに私かファビアンに報せるのだ。いいね」

「叔父さんに、ですか?」

「ファビアンも元は冒険者だ。この街に古くから住む一族の出でもある。様々な方面に知己がいるはずだ。必ず力になってくれるだろう」

「叔父さん、冒険者だったんですか」

 驚きを隠せず、セレスティーヌはそう問い返していた。

「知らなかったのか?」

「ええ」


 初耳だった。

 母の一族がこのダルジャンの出身であることは知っていた。だが叔父の過去の職業などについては特に聞いたこともなかった。ずっと宿屋の主をしていたのだと勝手に思い込んでいた。

「結婚しこの店を構えるまで、ファビアンは名の知れた冒険者だった。

 私がこの宿に部屋を借りたのは、冒険者時代のファビアンが叔母と親しかったからでもある」

「リシャール様の叔母様?」

「ああ、この甲冑を作り上げた人だ」

「そうだったんですね」

 思い返せば、リシャールはあの話をする時、叔父に同席してもかまわないと言っていた。

 叔父はリシャールの抱えている秘密を以前から知っていたに違いない。そう考えたほうが辻褄が合う。


「リシャール様、またいらしてくださいね」

「ああ、来るとも、必ず。

 できればティグルがあまり育たないうちに、また来たいものだな」

「そうですね、ぜひ」

 リシャールは右手を上げ、そっとセレスティーヌの頬にあてた。

 籠手に包まれた手には素肌のぬくもりはない。だが不思議な熱が頬に宿るのを、セレスティーヌは感じた。

 セレスティーヌは右手だけで胸元の子猫を支えると、自由になった左手をそっと頬の上のリシャールの手に重ねた。


 重なりあう手と手は、今は堅い鎧に遮られている。

 だがいつか鎧は消え去り、素のままの肌と肌が重なり合う日が来るかもしれない。

 今はあまりにも遥かな夢に思える。だが、諦めるつもりはない。

 信じ続けよう、この人を。この人とともに迎える明日を。


 祈りにも似た思いを込め、セレスティーヌはリシャールを見上げた。

 そしてリシャールの右手と重なり合う自分の左手に、そっと新たな力を添えた。

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