第1話「最強の姫騎士と、気まぐれな旅人」
初投稿です。第一部の完了までは既に執筆済みですので、まとまった完結までお楽しみいただけると思います。
気に入って頂けたら評価や感想等頂けますと、今後の執筆の励みになります。よろしくお願いいたします。
ガルムの巨体が、どさりと大地に沈んだ。
「ワシの負けだ……強いな、あんた」
右膝をつき、両手を軽く上げて降参の意を示す。がっしりとした体躯に無数の古傷を刻んだ歴戦の戦士だったが、その顔に浮かんでいるのは悔しさよりもむしろ清々しさだった。
審判の旗が、タクミへと振り上げられる。
「勝者、タクミ選手!」
その瞬間、闘技場を埋め尽くした観客の歓声が津波のように押し寄せた。闘技場の中央に立ったまま、タクミは小さく息を吐く。東方の島国から幾つもの街を渡り歩いてきたが、これほどの熱狂を浴びるのは久しぶりのことだった。
――我ながら、悪くない滑り出しだ。
剣を鞘に収めながら、タクミは静かに口角を上げた。旅の道中でたまたま見かけた祭りの看板。優勝賞金は魅力的だったが、タクミの本当の目的は別にあった。今大陸最強と噂される女がどれほどのものか、この目で確かめてみたかったのだ。
貴賓席の一角、日除けの下で優雅に脚を組んでいた女が、ゆっくりと立ち上がった。
金色の長い髪が風になびき、陽光を弾いて眩く輝く。すらりと伸びた長身――百七十を優に超えるだろう――にもかかわらず、胸元は服の上からでもわかるほど豊かに張り出しており、鍛え抜かれた肢体と女性らしい肉感が奇跡的な均衡で同居していた。腰に佩いた片手剣は、遠目にも並の業物でないと知れる、青みを帯びた輝きを放っている。
――あれが、噂の姫騎士か。
タクミは目を細めた。強さと美しさが両立する人間など滅多にいない。まして帝国の皇女という身分でありながら、安穏と玉座の傍らに座ることをよしとせず、自らの剣一本で武名を打ち立ててきたという話だ。並の生き方ではない。
女が視線をこちらに向けた。遠く離れていてもなお肌を刺すような、値踏みするような眼差し。
「あれが今回の相手ね。少しは楽しませてくれるかしら」
唇の動きまでは読めなかったが、好戦的な光を宿したその瞳だけは、はっきりと見て取れた。
タクミは小さく笑みを返し、控室へと続く通路に足を向けた。
控室は闘技場の熱気が嘘のように静かだった。石造りの壁に沿って木製のベンチが並び、天井の隙間から差し込む陽光が舞い上がった砂埃をぼんやりと照らしている。部屋の隅では聖職者が一人、先ほどの試合で傷を負った選手の手当てをしていた。遠くから届く観客のざわめきが、地鳴りのように床を伝ってくる。
「ふう。これでひとまず休めるな」
ベンチに腰を下ろし、タクミは汗を拭った。次の試合――リーズレットとの一戦までにはまだ時間があるはずだった。
その静けさを破るように、控室の扉が遠慮なく開かれた。
「おう、優勝者殿。ちょっといいか?」
顔に青痣を浮かべ、左腕を布で吊ったガルムだった。それでいて足取りは堂々としたもので、敗者らしい萎縮した様子は微塵もない。彼はタクミの隣にどかりと腰を下ろすと、懐から革袋を取り出し、一口煽った。むっとするような酒の匂いが漂う。
「単刀直入に聞くがな。あんた、あの姫騎士とやり合うつもりか?」
その目には、祭りの余興を語るには不釣り合いなほど真剣な光が宿っていた。
「あの女、この四年間無敗だぞ。ワシは去年の優勝者だがな、風の刃に囲まれて三秒で終わった。あれぁ人間の動きじゃねえ」
布を巻いた左肩をさすりながら、ガルムはにやりと笑う。
「だが、あんたはワシに勝った。正直、期待してんだよ。で? あの化け物と戦う気はあんのか?」
「もちろんだ」
タクミが迷いなく答えると、ガルムは目を丸くした後、腹の底から笑い声を上げた。
「がっはっは! 気がいいねぇ!」
革袋の酒をぐびりとやり、膝をばんと叩く。
「よし、気に入った! おい、お前ら!」
廊下に向かって怒鳴ると、数人の仲間たちが酒樽を抱えて控室に転がり込んできた。ガルムの応援団らしく、全員が赤ら顔で上機嫌だ。
「お、こいつがガルムの旦那をぶっ倒した奴か!」
「ひょろい見た目してんなぁ。まあ旦那も見た目はでかいだけだしな!」
「おい誰だ今の」
賑やかなやり取りをよそに、彼らは構わずタクミに酒樽を押し付けてくる。
「飲め! 勝者には酒だ! あの姫さんに勝てるかは知らんがな!」
その騒がしさに苦笑しながら樽を受け取ろうとした、その時だった。
控室の入口に、すっと影が差した。金の髪が揺れ、凛とした空気が室内に流れ込んでくる。
近くで見るリーズレットは、遠目に見た以上の迫力があった。すらりと伸びた長身、鍛えられた肢体としなやかな曲線が同居する肉感的な体つき。意志の強さを宿した瞳は、遠目に見えたよりもなお鋭い。腰に佩いた片手剣は、青みがかった銀色の刀身がわずかに鞘から覗いており、その一瞬の輝きだけで只者ではないと知れた。
(これは――本物だ)
タクミは値踏みするように、しかし顔には出さずに彼女を見つめ返した。美しさも、強さも、噂に違わない。いや、噂以上だ。
リーズレットは腕を組んだまま、酒樽を囲むガルムたちの光景を一瞥し、それから視線をまっすぐタクミに据えた。
「あら、随分と和やかじゃない。これから私と殺し合いするかもしれないのに」
その声は冷ややかだったが、どこか品定めするような熱が滲んでいた。
「女を殺す剣はない……」
タクミが答えると、リーズレットの眉がぴくりと跳ねた。組んでいた腕がほどかれ、一歩、こちらとの距離が詰まる。
「……は?」
その目はもう笑っていない。むしろ底冷えするような怒気が宿っている。
「女だから殺さない? それ、私を舐めてるってことでいいのかしら」
ガルムが酒を吹き出しかけ、慌てて口を塞いだ。目だけが「おい余計なこと言うな」と必死に訴えている。
リーズレットの手が腰の剣の柄にかかり、鞘からわずかに刃が覗いた。青みがかった輝きが、薄暗い控室を切り裂くように光る。
「この四年、この場に立った男たちが何を言ったか知ってる? 『俺が最強だ』『お前を倒して名を上げる』『俺の女になれ』……どいつもこいつも、私を下に見てた」
声が低くなる。怒りの奥に、別の感情がちらついていた。失望、あるいは渇望。
「殺す気がないなら棄権しなさい。中途半端な覚悟で私の前に立つな」
空気が張り詰めた。ガルムの仲間たちはいつの間にか樽の陰に身を隠し、息を殺している。リーズレットの纏う威圧感は、それだけで控室全体の温度を数度下げたかのようだった。
だが、タクミは臆さなかった。むしろその怒りの奥にある焦燥のようなものを、確かに感じ取っていた。
――強くあることを、誰よりも彼女自身が望んでいる。だからこそ、弱さを見せられることを何より恐れている。
……そこを突いて、ひとつ挑発してやるか。
「やる前から殺気を出している時点で、お前の負けだ……」
一瞬、控室が静まり返った。リーズレットの殺気が、まるで見えない壁にぶつかったかのように止まる。
「……なんですって?」
目を見開き、唇がわずかに震えた。それは怒りではなく、虚を突かれた動揺だった。心臓が一拍、大きく跳ねる。この四年間、誰一人として自分の圧に真正面から言葉を返してきた者などいなかった。
「おい……あの姫さんが固まってるぞ……初めて見た……」
樽の陰から顔だけ出したガルムの仲間が、小声で呟く。
数秒の沈黙の後、ふっと殺気が霧散した。代わりにリーズレットの表情に浮かんだのは、困惑と、それからほんの微かな興味だった。
「殺気を出した時点で負け、ね。つまり私が怯んでたって言いたいの?」
腰の剣から手を離し、顎に指を当ててタクミをじっと見つめてくる。品定めの色が一段深くなった。
「面白いこと言うじゃない。この四年でそんな台詞吐いた奴、一人もいなかったわ」
リーズレットは腕を組み直し、ふと視線を落として気を取り直すように尋ねた。
「ねえ、一つ聞かせて。あなた、なんでこの試合に出たの? お金? 名誉? それとも……」
言いかけて、自分でその先を飲み込んだ。頬がわずかに赤い。
「ちょっとした気まぐれだ。旅の途中で、ちょうど面白そうなイベントをやってて」
一瞬きょとんとした顔をした後、リーズレットは呆れたように目を細めた。
「気まぐれ……?」
その拍子にガルムが酒を吹き出しかけ、咳き込む。
「ぶっ……おい、気まぐれでワシを倒して姫さんと戦うってのか!?」
腰に手を当て、信じられないものを見る目でタクミを睨む。
「あのね、この試合の優勝賞金いくらか知ってる? 帝国の一般兵士が十年働いても届かない額よ。それを気まぐれって……」
だがその声に怒気はなく、むしろ困惑が勝っていた。この四年間、命を懸けて挑んでくる猛者ばかり見てきたリーズレットにとって、タクミのような動機は想定外だったらしい。
その戸惑いを見て、タクミは内心でひとつ確信を得た。この女は、強さでも財でも動かない。予想外のもの――理解の及ばないものにこそ、心を惹かれる質なのだ。
リーズレットはふと、タクミの身体を上から下まで舐めるように見た。背は高いが、どちらかというと細身で腕力があるようには見えない。上下黒の服で、重い防具は身に着けていない。武器は……
「ねえ。さっきから気になってたんだけど、あなたの武器は? 決勝でガルムを倒した時、何使ってたの」
ガルムが急に黙り込み、酒をちびちびやり始めた。目線が泳いでいる。その反応は明らかに不自然だった。ガルムほどの戦士が、自分の敗因について語ることを避けている。リーズレットの勘がそれを見逃すはずもない。
「この剣だ」
タクミは腰の剣を示した。東方の島国ヤポニクに伝わる宝刀、ヒヒイロカネ。黄金色の刀身は、控室の薄明かりの下でさえ、見る角度によってわずかに緋色を帯びて揺らめいている。もっとも、種明かしをするつもりはない。実際にガルムを下したのは、目に見えない糸「暗糸」なのだから。
リーズレットの目の色が変わった。一歩近づき、食い入るように剣を見つめる。
「……その輝き、ただの鋼じゃないわね。国宝級かしら。これでガルムを?」
「ゴホッ……あ、ああ、まあ、そうだな」
ガルムが酒を盛大にむせた。リーズレットはそんな彼をじろりと睨む。明らかに何か隠していると察している目だったが、それ以上の追及はしなかった。
「まあいいわ。どんな武器だろうと、私の風の前では関係ないもの」
そのとき、場内に試合開始の鐘が鳴った。
『皆様お待たせいたしました! 本日のメインイベント、優勝者対リーズレット=ヴァレンタイン殿下の特別試合を行います! 両選手、闘技場へお越しください!』
ガルムがすっと立ち上がり、タクミの肩をばしんと叩いた。
「来たな。おい、一つだけ言っとく。風の刃が出たら気をつけろ。ありゃ目に見えん。音と殺気だけが頼りだ」
リーズレットは剣を腰から抜き放った。青みがかった銀色の刀身が、陽光を弾いて煌めく。
「さ、行きましょうか。気まぐれさんの実力、見せてもらうわ」
闘技場への通路を歩き始めたリーズレットの背筋は凛として美しく、しかしその歩みには獲物を前にした獣のような気配が確かに宿っていた。
「帝国最強の姫騎士か……相手にとって不足は無い」
通路を並んで歩く。石畳に足音が反響し、出口が近づくにつれ観客席の喧騒が大きくなっていった。
「不足はない、か。久しぶりに聞いたわ、そういう台詞」
前を向いたまま、リーズレットがぽつりと呟いた。その声には、隠しきれない高揚が滲んでいた。




