夢違えの主従は、もっとも柔らかい場所に切っ先を添えて ――Never run, Never back down, Never break.――
ほんの僅かでも加減し損ねたら、すぐにでも弾けてしまいそうな、荒みを押し殺した目のまま、ペギーが呟いた。
言葉よりずっと雄弁に語る、菫色した彼女の瞳に映るのは、口元を結んだまま鶸色の双眸を開ききって、沈黙の破り方を探しあぐねているお嬢様姿の俺の顔だった。
互いに何も口に上げられないまま、十秒が経ち、三十秒が流れ、まもなく二分程が去ろうとしていた頃、ペギーが、ようやく次の一言を搾り出した。
「……今日でまた、三日目だもの。お嬢様の髪を染め直さないと」
「ペギー、俺」
言い差した声が、からからに干乾びた喉の奥で絡まる。疼くような痛みに苛まれる頭も、どこもかしこも力の入らないレベッカの小さな体も、俺の意に染まるものではない。そんなことを、改めて思い知らされているみたいだった。
「二時間、おとなしくしていられる?」
「多分」
「嘘おっしゃい。起き上がってるのも辛いって、顔中に書いてあるもの。お嬢様のためにも、食べてもらいますからね。すぐ戻るから、横になっているといいわ」
「レベッカ様だって、落とされたこと、気づいてるぞ。ペギーは、どう顔向けするつもり?」
「…………」
俺の即答を叩き落としたきり、退出していくペギーのほっそりした背中。どうにか喰らいつこうした俺の台詞が、負け惜しみとばかりに、跳ね返される。
鍵が掛かったことを確かめる為の小さな軋みを最後に、ドアは静まり返った。
五月晴れに暖められた風が吹き込む部屋に取り残された俺は、ままならないくらい冷たく感じる肩を竦めて、黙り込むことしかできなかった。
横になる代わりに、窓の外をのぞき込んだ俺の目に、すっかり馴染みになった甲府盆地の地形が飛び込んでくる。
東側に視線を投げかける。幾重にも連なった稜線の向こうには存在しない、俺の暮らしていた東京を思い浮かべた。ゆっくりと目を伏せかけ、辞めた。
……寝てる場合じゃねえな。俺、まだ遠くまでは攫われてねえみたい。だったら、笙真とEAPを、探しださなきゃ。
ペギーに着せ付けられてもらったらしい、リボンのあしらわれた寝間着姿のまま、俺はもう一度窓の外に視線を走らせた。出窓の先には、橙の洋瓦で覆われた屋根が続いている。
窓枠に指を掛け、立ち上がろうとするも、膝どころか、腹から下が全部大笑いしている。下手を打たなくても、転落死まっしぐらな弱り振りに、心の中で思い切り悪態を飛ばす。
ああクソ。つかまり立ちがせいぜいって、情けなさすぎる。俺、何てザマだよ。
……でも、どうしたものかな。ペギーが用意したものを、素直に口にして、本当に問題がないのなら、留まるべきだろうけど。
結われていない銅色の髪。「読み」の魔法と同じ、レベッカお嬢様ではなく、俺のために七色の色彩を足された前髪の一房をじっと睨めつけながら、俺は努めて冷静に考え、やがて。
◇
「ポーリャ殿? お茶をお入れましたからね。施術の間くらい座っていられるように、お願いだからちゃんと口にして欲しいものだわ」
レベッカ様が目を覚まして、昨日ようやくまともな食事を取り始めた、大層お痩せになった身体を瞼の後ろに思い浮かべる。
私は小さなため息ののち、鍵のいらないくらい、立て付けの悪い扉に、思い切り体重を掛けて、押し開ける。
火傷を負って、一昼夜しか過ぎていない両手が、ドアノブと私のお仕着せに挟まれて、ピリリと、最悪なくらい痛む。お嬢様に宿った、あの人と同じ名前の少年には、痛みを抱えていることすら、悟られたく無い。その想いごと、頭から追い出す。
「え」
部屋の中を視界に収めた私は、思わず呟きを洩らしてしまった。
この部屋で休んでいるはずの、お嬢様のお姿が、見当たらなかったせいだ。
どうして? まさか。
開け放たれている窓から入り込んだ、夏前の風の匂いだけが、もぬけの殻になった寝台を見下ろして、再び顔を顰めている私の頬を、そっと撫ぜた。
お茶もお菓子も二の次にして、窓辺に駆け寄って身を乗り出した私の首筋に、冷たい刃が押し当てられたのは、次の瞬間だった。
「動くな。返事次第では、俺、容赦しないからな。ここはどこだ」
声そのものの高さはお嬢様と同じなのに、低い抑揚を持ったポーリャ殿の、痺れるような短い囁き。それとともに、レベッカ様の鋏の魔法が、私の視界の端で朱く煌めく。
カタカタと鳴きながら、喉元まで回った鋏を、包帯に覆われた両手で握りしめて、私は身を強張らせた。
鋏の向かいで、音を立てて震えた喉が、なんとか言葉を捻り出そうとする。それを待たずに、レベッカ様の声が響いた。
「笙真君は? 無事なのよね? 無事じゃないって、ペギーなら、言わないわよね?」
「レベッカ様。今は俺がお話してるんですから」「ポーリャは黙ってて。ねえ、ペギー。答えてちょうだい」
「宮代の別荘ですわ、レベッカ様。宮代笙真は無事です。出水先生が付いていますから、どうかご安心を」
「無事」
一言だけの、ぽつんと上擦った声。安堵と焦がれが複雑なマーブル模様を描く、彼女の一瞬の声音に、私の胸まで、否応なしに締めつけられた。
私がずっと上げられずにいるのと、大差ない気持ちが籠められた、お嬢様のか細い言葉に、思わず叫び出しそうになる。私だって、そんなふうに、統の無事を告げてもらいたい。どうして貴女だけ。ずるい。悔しい。
突きつけられていたお嬢様の鋏と、鋏を握りしめていた私の両手が、誰のせいか分からないくらい、細やかにわななく。絶対に泣くまい。私が改めて涙を堪えたのと同時に、喉元に掛かっていた鋏の圧が遠のき、背中がいっそう重くなる。レベッカ様が大音声で慟哭をはじめた。
醒めた思いでそれを聞かされた私の目からは、何一つ零れ落ちなかった。絶対に、落ちなかったはずだ。
◇
陽光を切り裂いて、唐突に耳朶へと突き刺さった、レディ・レベッカの泣き喚く声に、私はすぐさま踵を返した。
「マーゴットの奴め。無理をするなと言ったはずだのに」
誰に告げるでもなく、足早に庭園を抜け、何かの文様めいた瀟洒なレリーフが施されている表戸をくぐる。
段飛ばしで二階へと駆け上がった私を、宮代家の使用人の幾人かは驚いたように見遣るが、誰一人として声は掛けて来なかった。事実上の人払いと言ったところだろう。
彼らの得意とする、心を覗く魔法を、あからさまに用いている様子さえ見受けられなかった。この屋敷に限っては、どうも出水殿の指示が徹底されているらしい。
なんとまあ。見事なものだな。
少しばかりの感心を覚えながら、行き過ぎようとした私が、不意に呼び止められた。
「デイビッドさま」
「出水殿」
顔を見合わせ、互いに頷く。私の意図を読み解く彼女の魔法から、弟子から離れがたい出水殿の情動を即座に拾い上げるが、特段の反応はしない。それを口にするほど、無粋な私ではない。
私と同じような判断に至ったのか、出水殿はわずかに首を傾げたのみで、再び部屋の中に姿を消した。
私は、彼女が弟子に付きっきりになっている部屋の、更に二つ隣に設けられた扉を遠慮なく押し開ける。
窓台に凭れかかっている、トライカラーの使用人姿の私の妹の首筋に、夜着だけを纏ったペトロフ家の小さな御令嬢が、しゃくり上げながら、しがみついて……いや、裾からのぞく細い足首ごと両足を投げ出すように、張り付いていた。
震える二枚貝にしか見えない、睦まじげな二人の姿に、口元が綻びそうになり、私は、慌てて口角を引き締めた。
振り返ったマーゴットの手に、レディ・レベッカが魔法で喚び出したに違いない、朱金色の鋏が握られていた。メロンイエローのような柔らかいリトル・レディの瞳も、マーゴットのやや硬質なアメジストカラーの双眸も、濡れそぼった光を宿したまま、大いに揺らいでいるようだった。
ふむ。見る限り、マーゴットが無体を働いたわけではなさそうであるが、いやはや鋏とは。全くもって、穏やかではない。如何にすべきか。
戸惑いつつ評した内心を面には浮かべず、この部屋にいるはずの三人の少年少女達を順繰りに見渡す。
マーゴットや、タービュレンの双子から上がっている報告通りであれば、ミクス・スヴェトラーナ――私に向かってスバルと名乗った、魔法使いの少年は、あのペトロフ家の御令嬢が霞むほどの曲がり者らしいが、さて。
西日へと枯れつつある、初夏の陽射しを受けて、背負い背負われている、妹たちの鮮やかな髪と、鋏の小さな赤い切先に、宮代の魔法にしては、いやにくすんだ鈍色の虹が、薄ぼらけになりながら、浮かび上がった。




