魔法使いだけど、踏んだり蹴ったりとはまさにこのこと、超サイアク。⋯⋯過去に来てまで「師弟ゲンカ」、だなんてさ。
雨が遠くなった。
俺がそう感じたのは、男物の大きな傘がレベッカの身体に差し掛けられたからだった。
「だれ、だ⋯⋯、おまえ⋯⋯っ⋯⋯⋯⋯」
震えたままどうにか張った声で、途切れるような誰何を口にした俺に答えてきたのは、稲光りに白く浮かび上がった傘の中、黒のワンピースごと膝を屈める、見覚えのない少女。
「私? 私はね、佐野ミフネよ。それにしてもまあ、随分な願いの『顕し』だこと。うわ、手、冷た! 立てそうかな? ⋯⋯難しそうだね。おんぶも厳しそうだし⋯⋯少し待ってて? 人を呼んできてあげる」
十歳ばかりに見える彼女は、一方的に告げるやいなや、濡れそぼった自らの裾を一度だけ引き絞った。
俺たちだけを傘に残して、長い黒髪を翻しながら、降りしきる雷雨の中へと一息に駆け出してゆく。
ほどなく戻った彼女が連れて来たのは、数時間前に帰宅していったはずの宮代笙真だった。
彼に抱えられたレベッカの身体が出水邸へ担ぎ込まれたのは、それからまもなくのことだったらしい。
らしい、というのは、出水邸にたどり着く前に俺の意識もレベッカと同じく、完全に落ちてしまっていたせい。――われながら、なんともまあ、情けないことに。
それが、二〇二四年の甲南湖で、俺が迎えた「最初の晩」に起きた嘘みたいで本当な出来事の、「おおよそ全部」だった。
◇
「体温もきちんと上がっているし、もう安心でしょう。これから発熱するかもしれないけれど、風邪だと思って対処するで、まずは構わないと思いますよ。何か心配なことがあればクリニックに電話をください」
「良児さん、早くからごめんなさいね」
「構いませんよ。こちらこそいつもゆきと笙真君がお世話になっているし、まあお互い様です。さてと、開院準備があるから僕はそろそろお暇させてもらいますよ。ゆき、父さんと帰らないなら歩いて帰るつもりかい?」
「うん、ショウも残るみたいだし。それに」
「ボクはまた泊まりだから、おじさんと戻んなよ、ゆき。この子のことはあと二、三日したらちゃんと話せると思うから。ね?」
「⋯⋯分かったわよう。じゃあ、先生、金曜のレッスンの時にまた来ますね。お大事にしてね、お客さん」
「ゆきちゃん。あなたの所と森屋さんちに菜っ葉と大根葉持ってかない? 昨日採ったので悪いけど、良ければもらっていって?」
「もちろんいただいていきます」
「ゆき⋯⋯。まったく。出水さん、いつもすみません」
そんなやりとりとともに、三人分の足音が、賑やかに階段を下っていく。
あとに残されたのは、ベッドに横たわったまま首元まで毛布を引きあげ直した俺と、あどけない顔にこれ以上ないほどの険を浮かべた少年時分の先生だけだ。
「あんな時間に出歩くなんて、聞いてなかったんだけど。どういうことか説明してもらうからね」
「深夜徘徊してたのはそっちもだろ」
しばしの沈黙に続いて、地を這うような圧を感じさせる声音で、先に口火を切ったのは先生だった。
そんな彼に負けじと、半身を起こし、眦を吊り上げて答えた俺だったが、元々が愛くるしさの方が勝ったレベッカの顔である。
返せる迫力の差は歴然で、案の定、俺の反論はばっさり切って捨てられてしまう。
「五歳と中学生を一緒にするなよ。ミフネさんが小さい子がいるって大騒ぎするから行ってみれば⋯⋯誰も通りかからなかったら、お前、どうするつもりだったわけ?」
「どうもこうも、歩いて帰ってたに決まって――」「ふっざけんなよ! 途中で気を失ったくせに! レベッカ嬢の身に何かあったら責められるのはお前じゃないの、分かってんのかッ」
「な――ッ⋯⋯! そこまで言うこたあないだろ! 俺だって⋯⋯ああもう、悪かったよ!」
これ以上険しくなんてできないだろうと思っていた先生の顔が、更に白く般若の面のようになってしまっている。
仕方なく俺は白旗を上げた。
だが、先生が矛を収めるつもりは、まだどころか、微塵も存在していなかったみたいだ。
その証拠に、
「悪かったじゃねえよ、馬鹿か、お前!? お前さあ、どうせそんなんだから――」
彼が何か強い言葉を言い放とうとし、俺も内容如何では怒鳴り返してやろうと思いかけたそのとき。
「そこまでよ。やめなさい、笙真」
俺らの間に割って入った、知恵さんの声。
「師匠! でも、コイツ全然反省なんかしてないよ」
「いいから」
「⋯⋯はい」
「昴君を馬鹿呼ばわりしたことも謝りなさい」
「けど」
「笙真!」
「〜〜っ、ごめん」
「⋯⋯いいよ。黙って出掛けたのは俺だし。知恵さん、迷惑を掛けてしまって申し訳ありませんでした。――一つ窺わせてください、貴女はいつから俺のことを?」
意を決して、恐る恐る尋ねた俺。
そんな俺に返ってきたのは、苦笑いしながらあっさりと白状する、先生の師匠の茶目っ気いっぱいな声音だった。
「それはもちろん、初めから! 昨日、目が覚めた時に、周りにだあれもいなかったでしょ。笙真から聞かなかった? うちで預かってるのは、本家が匙を投げるくらいの暴れん坊って。そんな子から目を離すなんて」
「わざとじゃなければ、ありえませんよね⋯⋯ハハ⋯⋯」
これ、言外に迂闊って言われているよな。
表情ほどは甘くない知恵さんのお言葉。
そこに込められていた彼女の本意にようやく気付かされた俺は、乾いた声で笑うしかない。
宮代家風の、そんな応酬を繰り広げていた俺たちに、唐突に「先読み」のトピックを持ち出して先生が言った。
その表情は、心無しか眉が下がり気味の浮かない顔に見える。
今し方の知恵さんの一喝が尾を引いているのかもしれない。
「話の途中だけどさ、丁度十五分後にレベッカ嬢とボクらが話している姿が、たった今『見え』たよ。準備を始めよう。EAPは?」
「使うさ、もちろん。⋯⋯ねえ、先生。俺さあ今」
傍らの銀色の筐体を右手に取って、言いかけた俺に、
「『読み』が使えないんだろ。知ってる。そういう時は?」
赤いスマホに映した、レベッカ分の「あなまほ」測定結果を示して先生が返してくる。
「「“使えるものはなんでも使え。たといそれが師匠でも”」でしょ? この子、目を覚ましたらキャンディッドって絶対言ってくるだろうから、かっとならないようにね」
「読み」の魔法を使ったのだろう。
ぴったりタイミングを合わせてくれた先生に、俺は宮代家的Fワードを使って注意を促す。




