ep7:最後に笑うのは……(下)
システム:森本に、ばいばいと手を振るハルデンのラクガキ挿絵を追加 20260403
設楽が来る2時間前。アップロードした飛龍都市レニエは、街もレニエタワーも驚くほど静かに、森本の設計どおりに動いていた。諜報役の小型モンスターである『蝶耳』、NPCの移動や巡回ログも、すべてが正常だ。
森本は椅子に深く腰を下ろし、モニターを眺めた。心中では、いまかいまかと獲物が罠にかかる瞬間を待っていたが、表情には出さずに息を整えていた。
それから1時間経ったころだろうか、レニエタワーの更新ログがわずかに乱れた。モンスターの巡回ルートが一瞬だけ空欄になり、トラップの作動ログが途切れ、オブジェクト数が微妙に増減している。普段ならまず起きない種類の揺らぎが、画面の端でじわりと広がっていた。
森本は椅子がきしむほど前のめりになり、無意識に拳を軽く握った。
――来たか。
言葉にならない期待が、湖面で跳ねる魚のようにふっと動いた。NPCオーディンの人形と融合した『ルードベキアの痕跡』に違いない。女神の娘が動いたときにだけ現れる、あの独特の乱れが非常に似ているのだ。
だが、森本がそう確信してすぐに、ログの乱れは“違和感”へと変わった。あまりにも静かすぎるのだ……。ルードベキアが必ず残す『嫌味ったらしい揺らぎ』が、どこにも見当たらない。
その代わりに、構造物の配置データが丸ごと消え、NPCの巡回ルートが巻き戻り、フロアデータが初期化されるような挙動が続いた。
――違う。これはあいつじゃない。
そして、ゆっくりとほどけていく森本の拳と連動するかのように、ログが沈黙した。何かが書き換わるとき特有の、あの嫌な静けさ……。レニエタワーで何かが起きていることは確かなようだった。森本は苛立ちを隠せず、とんとんと、机を指で叩いた。
沈黙が終わると同時に、その変化はすぐに分かった。
ミミックの王ハルデンの迷路フロアが、モニター上で白紙化したのだ。迷路の壁が消え、宝物庫のデータが0になり、クリーチャーやNPCの存在ログすらも……すべてが消えてしまった。
慌てて、元に戻そうとした森本の目に、ばいばいと手を振るハルデンの姿が映った。その瞬間、以前の光景が脳裏をかすめた。監視カメラシステムを破壊したオーディンの人形が、研究所のパソコンを乗っ取り、にこやかに笑う映像を送りつけてきた、あのときのことだ。
「まさか、同じことをハルデンが……。くそっ! 」
続けざまに、20階、40階、70階、80階のフロアも白紙化していった。どれもプレイヤーとNPCと融合したボスクラスがいるフロアだ。再構築ログだけが淡々と流れ、森本の署名のないコードが積み上がっていく。
森本は即座に塔の管理権限を奪い返そうと、再構築ログに割り込みをかけた。だが、入力したコマンドはことごとく弾かれ、画面上ではハルデンの署名が森本の操作を上書きしていく。まるで、森本の動きを読み切っているかのように、コードが先回りして組み替えられていった。
「はっ、ミミックの王から、IT業界のキングにでもなるつもりか? 」
白紙化は止まらなかった。中層の要となる階層が次々と抜け落ち、50階の管理領域まで奪われた。森本は必死に押し返し、なんとか通常階層の大部分と、90階より上の最深部だけは死守した。そこだけは、食い止めることができた。
「見たか、ハルデン! リーマンごときに、私が負けるわけないだろう? 」
画面の光が、森本の頬をかすかに照らした。
ついに、森本は塔の根幹プロセスに直接干渉する強硬手段に出た。再構築を司るメインスレッドを強制停止し、ハルデンのコードを巻き戻そうとしたのだが――。
停止コマンドを叩いた瞬間、ログが跳ね返り、逆に別のプロセスが立ち上がった。ハルデンが、森本の強制停止を読んでいたかのように。
「おいおいおいおいっ……ハルデンこと熊谷拓真、やってくれるじゃないか」
森本は諦めなかった。設楽が来るまでのわずかな時間で、少しでも元に戻そうと、再構築ログに手を伸ばし続けた。やがて、モニターに“復元されたはずのフロア”の映像が映し出された。
「やったか……? いや待て……」
森本は眉をしかめた。壁の角度、影の落ち方、NPCの配置……どれも微妙に噛み合っていない。ハルデンが作ったフェイクだと、ひと目で分かった。
「こんなもので、私の目を誤魔化そうとはな。茶番すぎやしないか? 」
再びキーボードを叩こうとしたそのとき、研究室のドアをノックする音が響いた。まるで、第1ラウンドが終わったと告げる合図のように。
ふいに蘇ったハルデンとの攻防戦に、森本は思わず苦笑した。さっさと記憶の引き出しに押し込め、第2ラウンドのゴングを鳴らそうとしたが、設楽と入れ替わるように沢村美月が所長室にやってきた。
なんというタイミングの悪さだ。
箱庭開発部の研究員・沢村美月は、普段はアシスタント業務ばかりだ。そんな彼女が所長室に顔を出すことは、まず無い。にもかかわらず、迷いなくコーヒーメーカーへ向かい、紙カップを手に香りを確かめるように目を細めている。その横顔を見て、森本はわざと愉快気な声をかけた。
「魔女である君が、そんなにコーヒー好きとはね」
「そう? 年代問わずどの箱庭にも、このような嗜好品はあったけど、その中でも、このコーヒーというものは素晴らしいわ。私の心をくすぐるほどね」
「お気に召したようで何より」
「ふっ……。森本、コーヒーの話で誤魔化そうとしているのが、見え見えよ? 」
沢村美月の目の奥が黒く濁り、蛇のような影が彼女の首に巻き付いた。――いまは魔女フレデリカの器にすぎないと誇示しているかのように。
森本がレニエタワーの状況を簡潔に伝えると、沢村美月の表情がわずかに揺れた。その揺れが、次の瞬間には怒気へと変わった。
「……で? あなたはレニエタワーを、あの男に好き勝手させたってわけ? 」
声の温度が一段下がった。森本が返事をするより早く、沢村美月は眉を吊り上げた。
「何やってんのよ、森本! あれは『女神の娘』を追い詰めるための仕掛けでしょう? 」
森本は、肩をすくめるようにして淡々と答えた。
「塔は……大丈夫だ。通常フロアはもちろん、90階より上は死守した。すぐにでもハルデンとやり合う準備はできている。それに、レニエにも他のフィールドにも、裏世界テイルにも『蝶耳』が飛んでいる」
「そう……やっと諜報モンスターが役に立つのね? 」
「オーディンの人形が姿を現せば、すぐに分かる。派手な容姿だからな」
沢村美月はソファーに腰を下ろし、脚を組み替えながら森本を見た。
「……で? 私が神ノ箱庭に潜るための『器』は用意できたのかしら?」
森本はモニターから目を離さずに答えた。
「候補ならいる。フロアボス・オーディン王が登場する前に出現するエイラだ。耐久値も高いし、魔瘴気にも比較的強い」
その瞬間、美月の輪郭がわずかにずれた。影が、怒りに反応するように揺れている。
「エイラだと? 冗談じゃない! 」
声が爆ぜ、フレデリカの脳裏に嫌な記憶が蘇った。白磁の肌、銀髪、深青の瞳……光王ルルリカの娘ヴェロニカに酷似した女の姿が――。
「よりにもよって、あの女に似た器を使えだと? オーディン王の寵愛を受けた女の顔で!? 」
赤黒い魔瘴気が、沢村美月の口からじわりと漏れた。森本は椅子をきしませながら、わずかに身を引いた。
「……他にいないんだよ。流石にクリーチャーは……嫌だろ? 」
「当たり前のことを聞くな」
「残念だが、フレデリカの魔瘴気に耐えられるNPCは、エイラだけだ」
沢村美月のまぶたが、ゆっくりと持ち上がった。床に落ちた彼女の影が、ゆっくりと長くなっていく。
「ならば、新しいNPCを追加すればいいではないか」
「それが……できないんだ」
6台のモニターの前で、森本は視線を落とした。ソファに座る沢村美月から森本の表情は見えない。だが、気まずい空気は伝わったらしく、彼女は軽く鼻で笑った。カタカタというキーボード音が、静かな室内に響いた。
「さっきから何度も、レニエに新規のキャラクターの追加を試みてる。だが……エラーしか出ない」
「それでも天才プログラマーなのか? 」
その言葉に呼応するように、赤黒い魔瘴気がさらに濃くなった。沢村美月の身体からドライアイスの煙のように漏れ出したそれは、床に触れた瞬間、ゆっくりと広がっていく。森本は喉の奥で小さく息を呑んだ。
沢村美月は森本から視線を外し、音声の消えたテレビへと顔を向けた。モニターの光が、漂う魔瘴気を淡く照らしていた。彼女は無言のままリモコンを取り、親指で電源を押した。
画面が光り、ワイドショーのスタジオが映る。その下段に、赤い速報テロップが走った。
『エターナルクラスト社が神ノ箱庭運営会社を買収』
魔瘴気が、ひときわ濃く集まり――沢村美月の口元がゆっくりと歪んだ。
「……買収? ふふ……あははははっ」
嘲りと愉悦を混ぜた笑い声は、音のないテレビよりも冷たく響いた。
「人間どもは、本当に愚かね……。自分たちで『供給源』を増やすなんて。ふふふ……これで、あの会社のVRゲームにも生命力エネルギーを吸い上げる装置を、設置できるわ」
森本の背筋がわずかに震えた。多人数が同時接続し、人間の精神集中度が高いVRゲームは生命力エネルギーを吸い上げるには最適だと魔女フレデリカは言っていた。感情・没入・ストレス・興奮が混ざる魂がもっとも燃料に向いているとも……。
彼女は新しい狩場が増えた喜びで打ち震えた。
「我が君の帝国復活の燃料が、これでまた増える……」
賑やかなワイドショーの音声が聞こえる中、床に雲のように留まっていた魔瘴気がゆっくりと沢村美月の身体に吸い込まれている。ソファーの背にもたれる彼女の身体から、黒い影のような気配が離れ、森本の耳元で囁いた。
「そんなに怯えなくていいわ、森本。女神の娘を抹殺し、『燃料』が満ちれば……」
フレデリカの声は、先ほどまでの怒りとは違う。ひどく静かで、甘い。
「お前の妻と息子はこの世に蘇る」
森本の口角がほんのわずか上がり、心臓が小さく跳ねた。何かおかしいという警告音が鳴っているというのに、森本は小さな希望に抗えなかった。風で吹き飛んでしまいそうな1本の藁が、最強の剣だ錯覚してしまうほど、魔女フレデリカの魔瘴気が精神を侵食していた。
机の上のスマートフォンが震え、軽い着信音が鳴った。「坂本朱美」の名前が画面には表示されている。森本は眉をひそめながら、メッセージを開くと――頭が痛くなる設楽からの要求が、次々と文字で並んでいた。
3日に1人ログアウトさせる人間の選定と、個人情報を添えたリストの提出。買収したゲーム会社が運営する他のVRゲームの今後の運営会議への出席。箱庭開発とソウルドール研究の成果を、これまで以上に上げること、などなど……スクロールするのが嫌になるほどの文字の羅列が画面を支配していた。
森本が顔をしかめていると、スマートフォンがふっと宙に浮いた。そしてそれは、「魔術で取り上げたのよ」とでも言いたげな得意顔の沢村美月の手のひらに吸い寄せられるように落ちた。いつのまにかフレデリカは彼女の身体に戻っていたようだ。
フレデリカは、器である沢村美月の指先でスマートフォンの画面を滑らせながら、愉快そうな表情を浮かべた。そして新しい遊びを思い付いたような笑いが、TVの音声に混ざった。
「ふふ……。女神の娘の件は……仕方ないから、私が動いてあげる」
沢村美月の瞳が猫のように細くなり、身体中から漏れた赤黒い魔瘴気がゆらゆらと立ちのぼった。
実は作者はコーヒーが飲めません。
香りは大好きなのに、飲むと痒くなるという残念仕様でして……。
なので、今回フレデリカが所長室で当然のようにコーヒーを淹れて、
「心をくすぐるほどね」なんて言い出したとき、
書いている本人がいちばん羨ましかったです。
ちなみに私は紅茶派で、最近はルフナにどっぷりハマっています。
魔女はコーヒー、作者は紅茶。
そんな嗜好のズレも楽しみながら書いています。




