第20話「京也のヨーヨー①」
ほんの少しだけ時は遡る。
秋穂たちの前で、和晴が改めて捻くれっぷりを露呈させたこの日の朝の事。
「……ガーッ…………」
学生寮の一室、二段ベッドの一段目にて。ある少年はいびきと涎を伴いながら睡眠に興じていた。黒髪を寝癖でボサボサにし、いかにも『いい夢見てますよ』という幸せそうな表情を浮かべるその様は、彼の童顔と相まって不相応な幼さを醸し出していた。
「やれやれ」
ルームメイトの茶髪の少年は、苦笑いしながら溜め息を吐いた。放っておくと遅刻待ったなしと判断し、どう起こそうかと思案を始める。
「ふーむ……良し」
数秒で考えをまとめた少年は、ベッドに近寄る。
そして何を思ったか——跪いて、天を仰ぐように両手を広げ高らかに叫んだ。
「【創造神】京也よ……! 今こそ目覚めたまへ‼︎」
「…………あ?」
薄っすらと目を開き、京也と呼ばれた少年は寝ぼけ面をルームメイトに向ける。
「え……何? ソーゾーシン?」
「おお……‼︎ ついに目覚めたか、神よ」
「善人、何言ってんだお前」
半開きの目を訝しげに顰める京也。
善人というルームメイトの少年は、先の嬉しさを噛み締めた作り笑いから一転、真剣なポーカーフェイスを作り上げた。
「失礼、お見苦しいところを。ところで善人とは誰ですか? 私は我がテキ・トー国の神官であるヒューマンヨシですが」
「マジかよ……? 他人の空似ってあるんだな……。いやちょっと待て! 何だよテキ・トー国って⁉︎ ここは日本じゃねえのかよ⁉︎」
「ニホンとは神々の住まう聖域。この世界とは、全く別の次元に存在する……謂わば」
「謂わば……?」
「異世界です」
「マジかよッ⁉︎」
京也は飛び起き、その拍子に頭をぶつけた。だが痛みに対してノーリアクションで、ベッド奥の壁際まで後ずさりブツブツ呟き始める。
「なんてこった……俺は知らない間に異世界に⁉︎ しかもまさかの神扱い! 俺は日本にはもう帰れないのか……⁉︎」
「もういいからベッドから降りろてか頭打った事に対する反応なしかよクソ鈍感かよ」
「エェェ⁉︎ 神なのに神官に凄え罵倒された!」
京也の寝ぼけ眼が、徐々に覚醒し始める。
「ってオイ! やっぱりお前善人じゃねえか!」
「はい……? 何を仰ってるのかよく…………きっと幻聴ですそれ」
「え……じゃあやっぱり俺は神?」
「はい」
「マジかよォォッ⁉︎」
「とにかく、貴方には我が国を救って頂きたい。その為に儀式を行い、五十億人もの生贄を天に捧げたのですから」
「五十億⁉︎ 俺は何故そんな業を‼︎」
布団に頭を埋め、ガタガタと震えだす京也。
それを、内心大爆笑で見守る善人。
「く……ごめんよ母さん父さん。俺、知らないうちに五十億人もの命を冒涜しちまってたよ……。とんだ親不孝だぜコンチクショウ」
「因みに国を救ってくれるまで絶対返しません」
「マジかよーーーーッ⁉︎」
京也は布団を吹っ飛ばして顔を上げる。
目の前の善人はポーカーフェイスが崩れる程に笑いを堪えているが、パニックの京也は知る由もない。
「俺は、俺はこれから何をすればいい⁉︎ 俺の為に散った五十億人の魂は、どうすれば無駄にならずに⁉︎」
「うんもういいから」
肩に掴みかかってきた京也の手を払いのけ、満足げに善人は立ち上がる。そして後ろを向いて盛大に吹き出した。
ポカンとする事約五秒。ようやく京也の脳は完全覚醒、事態を理解した。
「テメエコラァ! やっぱ善人じゃねえか‼︎」
「いやー楽しい。寝起きの京也で遊ぶのは本当に飽きない」
「この野郎、俺を何だと思ってやがる⁉︎」
「オモチャ」
「チクショウがァ‼︎」
寝起きから散々騒ぎまくった上、再び響く悲痛な叫び。屈辱と憤怒に身を任せ、西部京也は右拳をマットレスに叩き込んだ。
因みにこの一連の弄りは、二重善人の気分次第で展開は違えど不定期に行われている日常的なものである。
「さっさと着替えて支度しろよ。そして起こしてやった事に感謝しろ」
「寝ぼけた友達を弄り倒す奴にする感謝はねえよ!」
飽きずに声を荒げながら抗議する京也だったが、善人はどこ吹く風で机の上の鞄を漁り始めた。シカトである。
「っ……そろそろ泣くぞテメエコラ」
恨めしげに友人の背中を睨みつつ、ベッドから降りようと手に力を込めた時。
「ん……?」
先程叩きつけた右手に、何かを握っている事に気づいた。手のひらを上に向け、指を開く。
二枚の滑らかな円盤が重なり合い、短い軸で連結された簡素な見た目。薄っすらと見える、軸から伸びた糸。握っていたものは、ヨーヨーだった。
(こんなもん持ってたっけか? というかいつの間に……)
京也は顔をしかめる。
自分がこんなものを持っている覚えはなかった。彼の覚えている限りでは、善人の所有物でもない。もちろん、ヨーヨーなんぞを握ったまま床についた記憶もない。何もかも、身に覚えがなかった。
「善人……さっきの流れもう終わってるよな?」
「何? 足りない?」
「いらねえよもう!」
叫びつつ、これは流石にあの男とは無関係だと考え直す。寝ている間にヨーヨーを持たせる意味が分からないからだ。
だがそれだと、謎は何一つ解決しない。
薄気味悪くなり、ヨーヨーを放り投げた。マットレスの上にボスッと落下し、転がる事なく自らの重みで少し沈む。
ふと、長く伸びる糸に目がいった。普通はタコ糸なんかが使われているものだと京也は思ったが、これはどうやら違うらしい。細く、僅かな光沢を放つ様子は、まるで金属製のワイヤーのようにも見えた。
ヨーヨーから伸びるワイヤーを、何気なく目で追っていく。不思議と絡まったりはしておらず、終着点まですぐにたどり着いた。
マットレスにつく、京也の右手の下へと。
「…………」
右手を持ち上げる。
何故か糸も、同時に持ち上がった。
「……?」
汗ばんでいたせいで糸がくっついたのだろうかと考えながら、手のひらを顔の方へ向けた。
「……え」
汗でくっついた訳ではない。
視認した瞬間それは分かった。
なら何故、糸と手のひらが同時に?
それも、目にした瞬間理解した。
そして、総毛立った。
「な……あ……⁉︎」
——手のひらから、直接糸が伸びていた。
「うわあああああああああああああああッ‼︎⁉︎」
早朝二度目のパニックに陥り、右手をメチャクチャに振り回す。この時の京也に、『思考』の二文字は存在しなかった。
「ぜ、善人……! 善人ーーーーーーーーッ‼︎」
「うるさい何事? ついにバグった?」
「手から! 俺の手からヨーヨー生えてる! 何これ! 善人ナニコレ⁉︎」
善人は「また馬鹿な事言い始めた」と言いたげな視線を京也に向ける。自分が馬鹿なのは重々承知だし、目の前の友人には基本見下されている事も分かっていた。しかし京也は頼った。生憎、善人しか近くにいなかったから。
「いやマジで! 見ろ! そして俺を助けろ!」
「…………」
「そんな目で見ろとは言ってねえから!」
見下しを通り越して、哀れみを含み始めた眼差し。耐え切れなくなった京也はベッドから飛び出し、右手を善人の眼前に突き出した。
「ホラ、糸! 糸が出てる!」
「……本気でバグった? 流石に心配になってきた件」
「いやいやいやいや、確かに見えにくいけども! よく見りゃベッドにあるヨーヨーに繋がって——」
さっきまで自分のいた場所へ振り向き、左手で指差した瞬間。京也の右手のひらに、妙な感覚が走った。
その違和感を気にする間もなく、それは起こる。ヨーヨーが一人でに回転し、低く唸り始めた。まるでエンジンを温める車のような音が、京也の鼓膜を襲う。
「ちょ」
京也が何かを言う前に、右手の違和感が増した。何かが張るような……そう、例えるなら釣竿のリールを巻き上げるように、右手の筋肉が張った気がした。
その後は、一瞬だった。
糸が、高速で右手の中に巻き上げられ始めた。
ヨーヨー本体が、それに伴い右手に超特急で一直線に突っ込んできた。
パシンと爽快な音を立て、それが京也の右手に収まった。
「…………」
「? いま何か音した?」
善人は部屋をキョロキョロ見渡す。京也は逆に、硬直して動けなかった。そして、感じた事のない悪寒が背筋を駆け巡った。
(コレ……マジで善人に見えてない………⁉︎ つうか、いま勝手に動いて……。糸が……俺の中に…………)
嫌な汗が京也の頬を伝った。
目を見開き、手のひらの物体を凝視する。白縁の黒い円盤二枚が連結した、一見普通のヨーヨー。だが京也にとっては、この世で一番不気味な物質だった。
「……や? おいアホ京也?」
「っ……」
「何だよ、素っ頓狂な顔して。シャレならもっと面白い事言えよな。あんまり笑えないぞこれ」
善人の咎める声は、多少心配の色が含まれていた。しょっちゅう弄られてはいても、嫌いあってる訳ではない。寧ろ学年内でも仲はいい。それだけに、京也は少し申し訳なく思った。
「は、ははは……だよなあ! なかなか難しいな、こういうの。いやスマンかった」
京也は頭を右手で掻きながら笑い飛ばした。なるべく平静を装い、明るく振舞おうと努めた結果である。
対して善人は一度溜め息を吐き、「先に行くぞ」と言い残して鞄を背負い、部屋から出た。その時のホッとしたような苦笑いに、京也は少し気が軽くなった。
「? あれ、なくなった…………ってぇ⁉︎」
右手から、ヨーヨーがいつの間にか消えていた事に気づく。同時にジワジワと生まれた、頭頂部の痛み。
そういえばさっき、ベッドで頭をぶつけていたなと思い至る。
「……パニクってたから痛みも忘れてたか?」
何か変だ。自分に何かが起こっている。しかしこの頭じゃ、考えても原因が分からない。それは京也自身が一番理解していた。
仕方がないので、学校に行く準備を始めた。
*
猛スピードで支度を整え、ダッシュで善人に追いついた。「頭だけじゃなく体力もアホだな」と言われたが、これに関しては言われまくったせいで慣れており、特に反論しなかった。
「あー、ヤベエ。朝なのに既に疲れたんだけど」
「自業自得だろ」
「お前の寝起きドッキリに責任はないんですかねえ!」
被った赤い野球帽のつばを触りながら、善人に叫ぶ。なるべくヨーヨーの事を忘れようとしながら。
校門を潜り、教室への廊下を歩く途中。見知った男子生徒が向かうから歩いているのが見えた。金髪を揺らし、猫目を機嫌良さげに細め、右手でペンダントを振り回しながら歩くその姿は、控えめに言ってかなり目立っていた。
「……何してんだよ、和晴」
「おう、二重とアホか。おはよう」
「コラテメエ」
金条和晴。善人と同じく京也の友人にして、根が悪人なうえ勘の鋭い厄介な男である。
「朝一番からそれかこの野郎」
「? 何か声枯れてるな」
心臓が少し鼓動を速めた。ヨーヨーの事で散々騒ぎまくったせいだとすぐ思い至る。
「あ……? そ、そうか……?」
「ああそれ、聞いてくれよ和晴。今朝こいつ、手からヨーヨー生えただの何だのって騒いでさあ」
何とか誤魔化そうとした刹那、心臓が跳ね上がった。善人の口の軽さと和晴の鋭さ両方に対して。
和晴の目が鋭くなり、ペンダントを振り回すのを止めた手で肩を掴まれる。只事ではない反応だった。ひょっとして、和晴なら何か知っているのでは……?
「西部お前……ついにクスリに手を」
「出してねえよ!」
という期待は、一瞬で崩れ去った。
「京也……」
「善人、この失礼な奴に何とか言ってやって——」
「なんで……何も相談してくれなかったんだ⁉︎」
「やってねっツッテンダロッ‼︎」
流れてもいない涙を拭う善人に、朝だけで何度目か分からない叫び声があげられた。




