16 短い謝罪 4
王室の廊下は、まるで嵐の前の静寂さに包まれていた。
先ほどまで鳴り響いていた文官達の話し声も、右往左往する近衛兵の鎧の擦れる音も、レティシアの居室に近づくにつれて、不自然なほどに吸い込まれ消えていく。
扉の前には、震える侍女たちが、おろおろと幽霊のように佇んでいた。ユージンが姿を現すと、彼女たちは救世主を見つけたというよりは「生贄がやってきた」とでも言いたげな、痛ましいほどの安堵を浮かべて道を開ける。
扉の向こうからは、物音一つ聞こえない。
それがかえって、内側に溜まった「執着」の密度を物語っていた。
ユージンは一度、自分の掌を見つめた。
軍事、予算、物流……それら数多の難問をペン一本でさばいてきた指先が、今は重厚な黒檀の扉の取っ手を前にして、わずかに強張っている。
(……言い訳は、無用……)
モランの言葉が、耳の奥でゼノスの幻影を伴って響く。軍神が戦場で敵を射抜いたのは、雄弁な軍略ではなく、ただの一撃の「答え」だったはずだ。
ユージンは床く息を吐きだし、迷いを断ち切るように、ゆっくりと、しかし力強く扉を押し開けた。
ギィ……と、ぶきみなほどに滑らかな音を立てて開いた部屋の中には、西日が射しこみ、赤黒い影が長く伸びていた。散乱した花瓶の破片、引き裂かれた絹のカーテン。その惨状の真ん中で、レティシアが天蓋付きベッドの端に、抜け殻のようにな姿で腰を下ろしている。
彼女の背後に渦巻く殺気と、ユージンが纏う「畏怖」が密室内で静かにぶつかり合い、火花を散らした。
ユージンは、割れた陶器の破片を避けることもせず、まっすぐに彼女の隣へと歩み寄る。
「……何か用?」
顔も上げす、冷え切ったナイフのような声が飛ぶ。
だがユージンは、その問いに答える代わりに、ただ静かに彼女の隣に腰を下ろした。
隣国の王子の安否も、壊れた調度品の弁償も、明日からの外交ルートの修正も、今は全て、思考の外に追いやる。
「……ごめん」
装飾も、理由も、補足もない。ただその一言だけを、ユージンは部屋の静寂の中に落としたのだった。
その言葉が落ちた瞬間、レティシアの肩からフッと力が抜ける。とがっていた視線が足元に落ち、唇を嚙みしめながら彼女は絞り出すように答えた。
「……なによ……今更。あんなに私を突き放しておいて」
言葉とは裏腹に、彼女の指先が、ユージンの上着の袖をほんの少しだけ、縋るように掴んだ。
ユージンはそれを振り払うこともなく、ただ彼女の傍らで黙って座り続けた。
窓からは、中庭で騒ぎ立てる兵士たちの怒号や、慌てふためく使用人たちの声が微かに聞こえてくる。
だが、この部屋の仲だけは、外の喧騒が嘘のように止まっていた。
ユージンが纏う、軍神ゼノスゆずりの静かな「畏怖」。それが今は、レティシアの荒れ狂った心を鎮める重石のように、部屋の空気をしっとりと落ち着かせている。
静寂の時。
無言のまま、二人の影が西日にてらされて長く伸びていく。
事務長官としての山のような仕事も、隣国の王子を地下牢に放り込んだという絶望的な外交状況も、今はまだ、扉の向こう側の出来事だった。
ただ、時計が時を刻む音だけが二人の間に流れる静寂をゆっくりと深めていった。




