9 運命は汚泥の中に①
髪を染め直したラヴィニアは、ユーニスと共に次の湖へと向かう。
並んで馬を歩ませつつ、ラヴィニアは坑道でのことをユーニスに語った。
「というわけで、そのおじさんについていったら、どんどん道が狭くなっていってね」
「ちょっと待て」
ユーニスが、馬をぴたりと止める。話していたラヴィニアは、数歩先に進んで後ろを振り返った。
「どうしたの?」
「知らない男と、暗く無数の分かれ道がある坑道で二人きりだと? あんた馬鹿か」
「二言目には馬鹿馬鹿って、あなたはそれしか言えないの?」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い」
「なんで私が馬鹿なのよっ
私が危機を知らせたからみんな逃げられたのよ?
ユーニスだって、あのままあそこにいたら流されて死んでたかもしれないじゃない。私はあなたの命の恩人なんだからねっ」
少しは感謝しなさいと、ラヴィニアは馬上でふんぞり返る。馬を進めてラヴィニアの隣に並んだユーニスは、目元を手の平で覆って大きなため息をついた。
「俺は待っていろと言ったはずだ。のこのこと素性のしれない男についていって、死ぬよりも辛い目に合いたいのか?」
「生き埋めとか? 溺れ死ぬとか? それは怖かったわ。水かさがどんどん増していったときには、もうだめだと思ったもの。でも生きてたんだからいいじゃない」
「そういう意味じゃない。
……はぁ。あんたは自分が男と二人きりになるということが、どれほど危険なことなのかわかってないんだな」
ユーニスは首を大きく横に振ると、これ以上説明するのを諦めた様子で、先に行ってしまった。
「何よ、ユーニスだって男じゃないっ」
「俺とそのへんの輩を一緒にするな」
「どうしてそう偉そうなの? 私、あなたのそういうところ、大っ嫌い!」
「嫌いで結構。俺の仕事はあんたを守ることと鱗をとってくることだ。あんたに好かれる必要はない」
「~~~!」
ラヴィニアは、こちらを見もせずに憎まれ口を叩くユーニスに、べぇっと舌を出す。ついでに口の両脇に指を突っ込み、いぃぃっと両側に引っ張った瞬間、ユーニスが振り向いた。
「……」
「……」
ユーニスは、ラヴィニアを一瞥し、何も言わずに前を向く。
ラヴィニアは気まずい思いで口を閉じると、今度はしずしずとユーニスの後を追った。
四番目の湖が見えてくる。
さらさらと流れる小川の先で、その湖は白い柱に囲まれ、異様な雰囲気を醸し出していた。
気味の悪い湖だった。
小川とつながる場所こそ半透明の水だったが、そこ以外は白くにごっている。湖底からは気泡が湧いていて湖のふちはぶくぶくと泡立っていた。
柱だと思ったのは石の塊で、湖の周りや中ほどに不規則に乱立していた。
「なんなの、ここ……」
ラヴィニアは、無意識に袖口で口元をおさえる。近づいてみれば、湖の周囲には臭気が満ち、とても長時間はいられなさそうだった。
「本当にこの湖で合ってるの?」
ラヴィニアが、地図を持つユーニスに言う。ユーニスは地図と周りの地形を何度も見比べて、「間違いない」と言った。
「そっかぁ。ここに入るのは……嫌だなぁ」
ラヴィニアが嫌がるのも無理はない。湖の中に生き物の気配はなく、さながら死の湖のようだった。
「地図には“竜の翼”と書いてある。
今更文句をいうつもりはないが、イーティス様はもう少し詳しい情報をお持ちではなかったのか?
これではなんのことだかわからない」
「うぅん、それ、たぶんイーティスが書いたわけじゃないと思うわ。イーティスの字はもっと柔らかいもの」
「イーティス様ではない? では誰が……」
地図を片手に、ユーニスは首をひねる。その間に、ラヴィニアはずぼんの裾を膝までたくし上げると、さばっと湖に飛び込んだ。
「おい!」
「ごちゃごちゃ言ってても仕方ないわ。入らなきゃ鱗は取れないものね。
さすがに服を脱ぐのは嫌だから、このまま奥まで行く」
ちょっと肌がしゅわしゅわするけどね、と言うラヴィニアの目の前で、ユーニスがみるみるうちに顔色を変えた。
「すぐに出ろ! ラ……」
「? あっ、え? あっ、きゃああ!」
ラヴィニアの背後で、湖の水がまるで意思を持ったかのように幾筋も持ち上がる。そしてラヴィニアの手足に巻きついて、湖の中に引きずり込んだ。
「ユーニス! 助け……」
固いかと思われた湖の底は泥のようになっていて、ラヴィニアの体を飲み込んでいく。
「ラヴィ!」
駆け寄ろうとしたユーニスは、しかし、泥に足をとられてそれ以上ラヴィニアに近づけなかった。
「ユーニス!」
「ラヴィ!」
ラヴィニアは懸命に手を伸ばす。ユーニスもまた手を伸ばすが、わずか爪の先ほどが届かず、ラヴィニアは水の中に消えた。
「ラ……」
ごぽっと、ひときわ大きな泡が湖面に浮かぶ。それを最後に白く濁った水は、しんと静まり返った。
「ラヴィ? おい」
ユーニスは、体が濡れるのも厭わずに湖の中に膝をつく。そして頭まで潜って、先程までラヴィニアがいたはずの場所に手を伸ばした。しかし、指先に触れるのはつかみどころのない泥とごつごつした石だけで、ラヴィニアの服の端すら見つけることはできなかった。
「まさか……。ラ、ラヴィ!」
ユーニスはラヴィニアの名を呼びながら、泥の中であがく。体がどんどん沈んでいき、ユーニスの身も危うくなってきたところで、硬い岩盤に行き当たってそれ以上沈まなくなった。けれどラヴィニアは見つからない。
ユーニスは動きを止め、周囲の音に耳を澄ます。ぶくぶくと泡の弾ける音、さらさらと小川の流れ込む音。それ以外は、鳥の声すら聞こえない。
「……」
ユーニスは、ぐっと泥を握り締める。
あらためて湖を見渡しても、もしやと思って岸を振り返っても、ラヴィニアの姿はない。
「あ……。ラ……ラヴィニア様――!」
死せる湖に、ユーニスの絞り出すような声が響いた。