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デュラン商会の陣を使って転移し、礼を言って店の外に出た。転移はかなりの魔力を使うため、シルビアは少し疲れていたが、以前はもっとふらふらになっていたものだ。人の魔力は一生変わらないという。眠っていたものが徐々に起きているのだろう、とユーリが言っていた。これがおそらく父の遺産であろうことを思えば複雑でもあるが、なんにしろ、自力で転移できるのは本当にありがたい。本来ならば、大量の魔石を必要とするものだ。
事実、デュラン商会では、魔石節約のために魔力量の多い人物を募っているという。結果ははかばかしくない。なぜなら、そうした人間はほぼ、塔に入っているからだ。衣食住が保証され、研究層の実験に付き合うだけで一生安泰に暮らせる。蹴る手はない。
あれから一年と少し。塔内の雰囲気も多少変わったというが、シルビアにはそうは思えない。技術の売買とジゼル殺害に関わった人間を処分して、それでおしまい。だが、そう指示したのは王だという。あの黙考する静かなる賢人が決めたのなら、何か意味があるのだろう。
ただ、処分、というのは塔内の人間については死罪であったと聞く。どんな罰を与えても、魔術師ならばそれから逃れる術がいくらでもある故、というのがその理由だ。侯爵が幽閉で済んでいることを思えば、身分差を考慮に入れたとしても随分と重い罰だ。魔術師という人間には、それだけの底知れぬものがある、ということだろうか。
とすれば、塔内の破格の待遇も、執拗に魔術師を集めるのも、そしてあれ以来も塔内の様子が変わらないのも、彼らを抱え込むための方策なのだ。
ならばシルビアに言えることは何もない。ただただ、シルビアさえ塔内に取り込もうとした王を、辺境伯がうまく収めてくれたことに感謝するばかりだ。
塔で暮らすのも、きっと悪くはない。ユーリは年の半分を塔で暮らしているし。
ただやはり、伯の仕事のほうが面白い。まる二年を迎えて、裁量権も増えている。シルビアの人生は、ゆっくりと確実な基盤を築いている。
それでも少し、時々は。
昔の自分が懐かしくなる。
「シルビア、おい、今日はいいお茶が入ったぞ!」
雑貨屋のボニに引き留められて、少し店に寄った。相変わらず、近所の人々が集まっていて、おやつを食べている。クワの栽培はかなり難しかったが、ようやく軌道に乗り始めた。初期投資が回収されたら、街にまた街灯を増やすらしい。そんな話に相槌を打って、ボニのおすすめの茶と茶菓子を購入し、店を出た。
はぁっ、と吐いた息が白い。子供の頃から見ていた縁石の欠けを踏んで、大通りから見慣れた角を曲がって、細い道に入った。
「やあシルビア。待ってたよ。これ、隣の部屋の鍵だ」
「ごめんなさい遅くなって! ボニさんにつかまってたの。鍵ね、ありがとう、我儘きいてくれて!」
大家兼飯屋の店主は、フン、と鼻を鳴らした。
「まったく、もっと綺麗な部屋だってあるってのに、このボロ家をまーた借りて、しかもその隣も借りたいって、物好きだねお前も」
「いいじゃない。お腹が空いたら、おじさんのとこにご飯食べに行けばいいんだし。それより、家具を取っておいてくれてほんとにありがとう、新しく買わずにすんだ」
「シルビア。今のお前なら、新しい部屋に新しい家具を入れることくらい、訳ないだろう。もし……お前が何か、変な義理を感じているのだとしたら、それは不要だと言おう」
シルビアは笑った。確かにその通りだ。あの頃の自分とは違う。店主の言う新しい家を借りるどころか、買えるくらいには蓄えもある。金の使い方を知らないシルビアに、ローザンナがいろいろと楽しみ方を教えてくれもした。
それでも、この家を思うとき、シルビアの胸には懐かしさと少しの悲しさと、それを上回る喜びの思い出が浮かんでくる。多分、乗り越えたのだ。母への思いも、父への思いも、そのあとにあったいろいろな出来事も、今はシルビアの中で過去になって仕舞い込まれた。だから、全てをひっくるめて、いい思い出になり得たのだろう。
「やあねおじさん。部屋に転移陣を置かせてくれるような、おおらかな家主が他にいると思う?」
シルビアがそう言うと、大家は面食らった顔をして、それから苦笑した。まったくもってその通りだ、と笑うと、彼はシルビアの頭をひとつ撫でて、忙しそうな店へ戻っていく。
店の脇に回って、細くて狭い階段に向かうと、そこに誰かが腰かけているのが見えた。ゆっくりと正面に立つ。
「どいて」
含み笑いで、それを必死に隠しながらぶっきらぼうに声をかけると、ユーリが顔をあげてほっとした顔をする。
「よかった、鍵を忘れて来て困っていた。助けてくれ」
「何回目よ、まったく。出る前に気を付ければいいじゃないの。ねぇ、隣の部屋の鍵貰って来たわ。あんた、本気なの? あの部屋に転移陣を入れるなんて」
ユーリは立ち上がり、一段上から優雅に下りて、シルビアに道を譲った。その横を通り過ぎて部屋に向かい、鍵を開けて、乾いた空気に顔をしかめる。
「便利だろう、ここに来るのに。デュランのところは少し遠いし、それに、陣を使う度に、魔石代わりになる人間を紹介しろとうるさいし」
「とんでもなくお金がかかるってきいたんだけど」
「うん。それくらい出せるから。他に使うこともないし、俺たちなら魔石もいらないから初期投資だけで済むし」
あの事件の全てが終わってから、久しぶりに帰郷したシルビアは、引き払ったはずの部屋がユーリに借り上げられていることを知った。どうやら、シルビアが王都にいると知ったすぐ後のことらしい。いずれ戻ってきたくなるから、というのがその理由だが、確かに、この部屋が誰にも借りられずあると聞いた時、少し嬉しくなった。帰る場所が残っていた、と。
イレニウス本邸も、翠嵐邸も、居心地が良い。ただ、ふるさとが恋しくなる気持ちは誰しも持っているのかもしれない。
だから、時々こうして、部屋で過ごす。立て込んだ仕事が一息ついた時や、セルジュと喧嘩した時、ローザンナが有望株だという男とお見合いさせようとしてきた時。シンプルな服を着こんで、デュラン商会に駆け込む。ついでに一緒に荷を運ぶので、彼らなどはむしろシルビアの訪れを待っていたりもしたものだ。
そしていつからか、ユーリもごく普通の顔でやって来て、料理をしたりひたすら寝たり、シルビアに新しい魔術を教えたりする。まるであの頃のようだ。
あの頃と違うのは、ユーリも少しずつ、事件を乗り越えつつあるところだろう。父の跡を継ぎ、しばらくはひどいものだった。引っ搔き回された塔内からは理不尽に責める声もあったし、宮中では犯罪者の息子が法に携わることに反対する声も大きかった。
しかし、王の一声で決まったことであるという事実が広まり、またユーリ自身が、今まで塔内でゆるく過ごしていた頃とは一転して、骨身を惜しまず事態の始末に尽力し、新たな仕事を自分のものにしようと努力し始めたことで、それらの声は次第に小さくなっていった。消えたわけではない。それでも、あらゆる事が未来に向かい始めていた。
シルビアはその事を、本当に嬉しく思う。彼が、心から笑うから、嬉しくなる。
「ちょっと休んだら買い出しに行こう。食べたいものあるか?」
「うーん、あ、パン」
「あ、そう……」
二人で石畳の道を歩く。冷たい空気が耳を刺し、首をすくめる。きっともうすぐ、雪が降るのだろう。
そして街は白に覆われる。音を吸い込み、光を増して、二人の部屋を照らすだろう。
「シルビア」
「うん?」
「寒いな」
「そうだねぇ、寒いね」
「手をつないでもいいかな」
少し唐突に、ユーリが言った。
あの頃と違うのは、二人が過去を乗り越えたことばかりではない。そこからようやく、未来について考えるようになった。
そこにお互いがいることを、少しずつ願う。
それが二人のいまいるところだ。
一歩を踏み出したユーリに、シルビアはまるでお茶でもしていこうと言われたみたいに、
「いいね」
と笑った。
雪が降る。
それはあたたかな春の、ひとつ手前。
<完>
完結しました。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
新連載を始めています。
「君に誓う」 有沢ゆう
王道の記憶喪失ものです。
もしご興味を持って下さったら、ぜひ。




