第9話 断罪の間に咲く花
ヘルミーナの笑みの意味は、翌日に判明した。
公爵家の名で、王宮の裁定院に申立てが出されていた。内容は——「元公爵夫人フィーネによる公爵家財産の不正持ち出しおよび使用人の教唆」。
義母は攻撃に転じたのだ。守るのではなく、先に訴えることで私を被告に据える。
「ディートリヒの入れ知恵か。先手を打って攻撃側に回る。法廷戦術としては定石だ」
レオンが書類を睨んだ。
「おそらく。顧問弁護士として、最後の賭けに出たのでしょう。受け身に回れば証拠を突きつけられる一方だと分かっている。だから先に訴えて、こちらを防戦に追い込む」
裁定院での審理は五日後。時間がない。
だが、慌てることはなかった。
なぜなら——。
「この展開は、想定していました」
全員の視線が私に集まった。
「義母が自分から裁定院に持ち込むということは、公的な場で証拠を提出する機会が与えられるということです」
マルタが目を見開いた。
「……最初から、公的な場を必要としていた?」
「はい。私たちの証拠は、公爵家の内部の問題です。公爵家の中だけで処理されたら、もみ消される。力関係が違いすぎる。でも裁定院なら——記録が公文書として残る。傍聴人の前で証言される。嘘で上書きできない」
「つまり——」
「義母は自分で、自分の不正を暴く舞台を用意してくれたんです」
レオンが低く笑った。
「あの人は賢いが、相手を見誤った」
◇
審理の日。裁定院の広間は、予想以上に人が多かった。
公爵家の問題が裁定院に持ち込まれたという噂は、すでに王都中に広まっていた。貴族、商人、神官——様々な立場の人間が傍聴席を埋めている。壁際まで立ち見が出ていた。
申立て側にはヘルミーナとディートリヒ。ディートリヒは書類の束を抱え、眼鏡の奥の目は冷たく光っている。クラウスは——申立て側ではなく、証人として中央に座っていた。その位置選びだけで、裁定官の眉が動いた。
私の隣にはレオンがいた。後ろにマルタとトビアス。エーリッヒは傍聴席の中に控えている。菓子は持っていないが、いつもの笑顔はある。
そしてリーゼロッテは、神官の席に座っていた。聖女の正装。銀の紋章が胸元で光っている。
「まず、申立て側の主張を聞きましょう」
裁定官が開廷を告げた。
ディートリヒが立ち上がった。書類の角を揃えながら——これがこの人の癖だ——流暢に主張を展開した。
「元公爵夫人フィーネは、離縁後に公爵家の使用人を不当に引き抜き、公爵家の薬草園の資材を私的に持ち出しました。さらに、公爵家の内部情報を外部に漏洩し、公爵家の名誉を毀損しました」
一つ一つの主張は巧みだった。事実の断片を切り取り、都合よく繋ぎ合わせている。嘘ではないが、真実でもない。半分だけの事実は、全くの嘘より始末が悪い。
私の番が来た。
「申し上げます」
立ち上がった。足が冷たい。心臓が速く打っている。でも、手は震えていない。手帳を持つときと同じように、指先に力を込めた。
「まず、使用人の引き抜きについて。退職届の控えをお出しします」
十七通の退職届の写し。全員が自発的に辞職したことを示す文書だ。日付は全て同じ日。私が屋敷を去ったのと同じ日。
「全員が自らの意志で退職しています。引き抜きの事実はありません」
「次に、薬草園の資材の持ち出しについて。種の購入記録をお出しします。全て私個人の資金で購入したものであり、公爵家の予算は一銭も使用していません。購入先の店名、日付、金額、領収書の控え。全て手帳に記録されています」
「そして——これが本題です」
テーブルの上に、十七枚の証書を並べた。一枚ずつ、丁寧に。
「公爵家の食材費における不正請求の記録。薬草の品質偽装の記録。元家令の不当解雇に関する状況証拠。全て、ヘルミーナ元公爵夫人の管理下で行われたものです」
広間がざわめいた。
ディートリヒの手が、書類の角を揃え始めた。速く。苛立っている。
「根拠のない中傷です。使用人の証言など、信頼性に——」
「では、この方の証言はいかがでしょう」
クラウスが立ち上がった。広間が静まり返った。
「私はヴァルトシュタイン公爵家の当主、クラウスです。——母の不正を、認めます」
完全な沈黙。
「長年、目を瞑ってきたことを恥じています。当主として、不正を看過した責任は私にもある。ですがこれ以上、嘘を重ねるわけにはいきません」
ヘルミーナの顔から、完璧な微笑みが消えた。初めて見る表情だった。怒りではない。恐怖だ。
「クラウス。あなた——自分の母親を——裏切るの——」
「裏切ったのは、母上です。公爵家を。使用人を。フィーネを。——そして僕を」
クラウスの声は震えていた。けれど、窓の外を見てはいなかった。初めて、正面から母親の目を見ていた。
リーゼロッテが立ち上がった。
「裁定官。聖女として、一つ申し上げます」
広間の空気が変わった。聖女の発言には、法的な重みがある。全員が姿勢を正した。
「聖女の儀式に使われる薬草の調達が、ヴァルトシュタイン公爵家の手で不正に管理されていました。品質の意図的な低下により、聖女の治癒の儀式に支障が出ていたことを証言します」
そして——。
「また、この機会に申し上げます。聖女の治癒の力は、薬草の効能によるものです。代々の聖女が薬草の知識を受け継ぎ、祈りの形式とともに民の病を癒してきた。この真実を秘密にしてきたことが、今回の不正を生む温床になりました。今後は薬草師の制度として、公に運営されるべきだと考えます」
リーゼロッテの宣言は、聖女の秘密を自ら明かすものだった。
傍聴席がどよめいた。だが、そのどよめきの中に、批判の声は少なかった。むしろ——。
「薬草の力で救われていたなら、それはそれで立派なことじゃないか」
「秘密にする必要がどこにある。効くなら効くで良いだろう」
「むしろ、薬草師を育てれば、もっと多くの人が救えるんじゃないのか」
リーゼロッテの目に、薄く涙が光った。恐れていた反応は、来なかった。
裁定官が槌を打った。
「本件については、公爵家の会計監査を行い、改めて裁定を下します。ヘルミーナ元公爵夫人には、監査完了まで公爵家の一切の財政管理からの離脱を命じます」
事実上の敗北宣告だった。
ヘルミーナは立ち上がった。背筋はまだ伸びていた。だがその目から、あの完璧な微笑みは永久に消えていた。唇が薄く震えている。
「……覚えていなさい」
その言葉は、もう誰にも届かなかった。
ディートリヒは無言で書類を鞄にしまった。書類の角は、初めて揃っていなかった。
広間を出ると、冬の空気が頬を打った。澄んだ冷気が肺を満たす。
「終わった……のか?」
レオンが聞いた。
「まだです。監査の結果が出るまで、正式な決着ではありません」
「だが——」
「でも、もう嘘は通らない。事実が公文書に残りました。誰にも消せない場所に」
マルタが私の隣に来た。
「フィーネ。立派でした」
トビアスが鍋を——いや、今日は鍋はない。代わりに、大きな手で私の頭をぽんと叩いた。
「よくやった、嬢ちゃん」
目の奥が熱くなった。今度は、寒さのせいにはできなかった。
——その夜、星月草に戻った私たちの元に、一通の手紙が届いた。差出人は、元家令ベルンハルト。
「口止めの契約は、本日をもって無効と判断いたしました。全てをお話しする用意があります」




