第2話 王都の端の小さな店
王都の路地裏には、光の届かない場所がある。
けれどそこにも、人は住んでいる。洗濯物が風に揺れ、子どもの笑い声が壁に跳ね返り、焼きたてのパンの香りが角を曲がってくる。路地の排水溝には氷が張っていて、踏むとぱりぱりと小気味よい音がした。
私が見つけた空き店舗は、そんな路地の突き当たりにあった。
「……ここか」
扉は傾いていて、窓硝子が一枚割れている。壁には蔦が這い、看板は字が読めないほど褪せている。蜘蛛の巣が軒先を飾っていて、風が吹くたびに埃が舞った。
でも、天井は高い。日当たりは悪くない。何より——裏に小さな庭がある。薬草を育てられる。
嫁入り前に祖母から習った薬草の知識。屋敷で三年間、誰にも気づかれずに磨き続けた調合の腕。祖母はいつも言っていた。「薬草は嘘をつかない。正しく扱えば、正しく応えてくれる」と。
それが私の全財産だ。
「家賃は月三銀貨。前払い。修繕は自分でやるなら構わない」
大家のおばあさんは、私の手を見て少しだけ目を細めた。私の手。薬草を扱い続けて爪の間が少し黒ずんでいる。指先はかさついている。でも、力のある手だと自分では思っている。
「働く手だね」
「……ありがとうございます」
その一言が、三年ぶりに聞いた褒め言葉だった。胸の奥で何かが緩む感覚があって、慌てて唇を引き結んだ。泣くほどの言葉ではない。でも、乾いた土に水が染み込むような心地がした。
手帳を開く。今の手持ちで作れる薬草茶の配合を確認する。風邪の初期に効くもの、胃もたれを和らげるもの、眠れない夜のためのもの。材料が足りないものは印をつけた。
棚は自分で作る。通りで廃材を拾い、釘を買って、一枚ずつ板を打ちつけた。掃除は自分でやる。
蜘蛛の巣を払い、床を磨き、壁の染みを布で拭いた。看板も自分で書く。木の板にペンキで、一文字ずつ。
三日かけて、店の形を整えた。
壁を拭き、窓を直し、裏庭の土を掘り返した。指先にまめができて、爪の間に土が入り込む。屋敷にいた頃は、手袋をして薬草を扱っていた。今は素手だ。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
自分の手で、自分の場所を作っている。その実感だけで、背筋が伸びた。夜になると体中が痛んだけれど、それは心地よい疲れだった。
◇
開店四日目の朝。
最初の客は、隣の通りのパン屋の女将だった。がっしりした体格に小麦粉のついたエプロン。声が少し枯れている。
「薬草茶って、あんた、本当に効くの?」
「お試しいただければ」
カモミールと蜂蜜を少し。女将の声が枯れていたから、喉に良い配合にした。湯の温度は少し低めに。熱すぎると喉に刺激がある。
「……あら。美味しいじゃない」
「よかった」
「変に薬臭くないのがいいね。あたしは薬ってだけで嫌になるほうだから」
「薬草茶は薬ではありません。体を温めて、少しだけ調子を整える。それだけのものです」
「ふうん。で、いくら?」
「銅貨二枚です」
「安いね。もう一杯」
それが始まりだった。
パン屋の女将が「路地裏に薬草茶の店ができた」と話し、八百屋の主人が「喉の調子が良くなった」と人に勧め、三日もすると、小さな行列ができるようになった。
とはいえ、行列といっても五人か六人。売上は一日に銅貨三十枚がいいところだ。家賃と材料費を引けば、手元にはほとんど残らない。
それでも。
自分が作ったものを、自分の値段で、自分の言葉で売る。客の顔を見て、体調を聞いて、その人に合ったものを淹れる。
それだけのことが、こんなにも胸を満たすのかと驚いた。
ある夕方、店を閉めようとしたとき、背の高い男が扉の前に立っていた。
黒髪を短く切り揃えて、少しだけ猫背。腰に剣を差しているけれど、鎧は着ていない。非番の騎士、だろうか。
靴を見た。よく手入れされているが、踵が片減りしている。長時間の立ち仕事。巡回か、訓練か。
「まだ、開いてますか」
「はい。何をお探しで?」
「……肩が凝って眠れないんです。何かありますか」
私は彼の手を見た。剣だこがある。指の関節が少し赤い。稽古をしすぎているのだと思った。手首にも力の入れすぎた跡がある。
「ラベンダーとペパーミントの茶を、少し濃いめに淹れましょう。寝る前に、ゆっくり飲んでください。できれば肩を温めながら」
「……詳しいんですね」
「商売ですから」
彼は茶を受け取りながら、店内を見回した。まだ埃っぽい棚。手作りの看板。
小さな裏庭。それら全てを、丁寧に見ていた。物を見るとき雑にならない人だ、と思った。
「一人で全部やってるんですか? この店」
「ええ」
「……すごいな」
言ってから、彼は少し照れたように視線を逸らした。
「すみません。初対面なのに、偉そうに」
「いいえ。嬉しいです」
本当に嬉しかった。「すごい」と言われたのは、いつ以来だろう。屋敷にいた三年間、一度もなかった。
彼は銅貨を三枚置いて、小さく頭を下げて帰っていった。名前は聞かなかった。
その夜、店の裏庭で空を見上げた。星が出ている。屋敷の寝室からは見えなかった角度の星が、ここからは見える。壁の高い屋敷では、空は四角く切り取られた額縁でしかなかった。ここでは、端から端まで見渡せる。
手帳に今日の売上を書き込む。客の症状と、出した配合も記録する。一人一人の顔を思い出しながら、ペンを走らせた。
(一人でも大丈夫。一人でもやれる)
そう思った矢先に、店の裏口を叩く音がした。
心臓が跳ねた。義母の手の者か。いや——この叩き方は。遠慮のない、実直な音。
開けると、大きな荷物を抱えた女性が立っていた。白髪混じりの黒髪。がっしりした肩。見間違えるはずがない。
「マルタ……さん?」
「フィーネ様。——いえ、フィーネ。遅くなりました」
侍女長——いや、元侍女長のマルタが、息を切らして立っていた。頬が赤い。ここまで走ってきたのだろうか。その後ろに、もう一つの大きな影。
「嬢ちゃん、厨房はどこだ」
丸い体型。口の悪い声。トビアスだ。
「ちょっと……どうして……」
「退職届は出した。荷物もまとめた。あとはここに来るだけだ」
マルタが私の顔を覗き込んだ。三年間、毎朝起こしてくれたときと同じ、真っ直ぐな目だった。
「言ったでしょう。フィーネ様のいらっしゃらない屋敷に、私の仕事はないと」
「でも——あなたたちの生活は」
「生活なら、ここで作ります」
目の奥が熱くなった。唇を噛んだ。泣いたら、この人たちに心配をかける。
「……店は狭いですよ」
「狭くていい。あの屋敷より、よほど風通しがいい」
トビアスが鍋を一つ、荷物から取り出した。使い込まれた銅の鍋。屋敷の厨房で、毎朝スープを作っていたあの鍋だ。底が少し凹んでいる。何百回と火にかけた跡。
「今夜はスープを作る。明日から、この店の飯は俺が仕切る」
「……勝手に決めないでください」
「嬢ちゃんの料理がまずいのは知ってる。三年間見てきたからな」
マルタが肩を揺らして笑った。私も、少しだけ笑った。
——こうして、私の薬草店は三人になった。
翌朝、店の看板を書き直した。
「星月草」。
祖母が好きだった花の名前だ。月の光の下で咲く小さな白い花。目立たないけれど、根が強い。
マルタが棚を拭き、トビアスが裏庭の隅に野菜の種を蒔いた。私は新しい配合を手帳に書き込んだ。
三人でいると、店が少しだけ広く感じる。
そのとき、表の扉が開いた。昨日の騎士だ。
「あの——昨日の茶、よく眠れました。また……」
店の中を見回して、彼は目を丸くした。
「……人、増えましたね」
「ええ。家族が来たんです」
マルタとトビアスが顔を見合わせて、少しだけ笑った。
——けれど。
この穏やかな日々が長く続かないことを、私はまだ知らなかった。
三日後、一通の手紙が届く。差出人はヴァルトシュタイン公爵家——義母、ヘルミーナの名前だった。




