表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
公爵夫人が消えた朝、屋敷の全使用人が「退職届」を置いて消えた  作者: 渚月(なづき)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/10

第2話 王都の端の小さな店

王都の路地裏には、光の届かない場所がある。


 けれどそこにも、人は住んでいる。洗濯物が風に揺れ、子どもの笑い声が壁に跳ね返り、焼きたてのパンの香りが角を曲がってくる。路地の排水溝には氷が張っていて、踏むとぱりぱりと小気味よい音がした。


 私が見つけた空き店舗は、そんな路地の突き当たりにあった。


「……ここか」


 扉は傾いていて、窓硝子が一枚割れている。壁には蔦が這い、看板は字が読めないほど褪せている。蜘蛛の巣が軒先を飾っていて、風が吹くたびに埃が舞った。


 でも、天井は高い。日当たりは悪くない。何より——裏に小さな庭がある。薬草を育てられる。


 嫁入り前に祖母から習った薬草の知識。屋敷で三年間、誰にも気づかれずに磨き続けた調合の腕。祖母はいつも言っていた。「薬草は嘘をつかない。正しく扱えば、正しく応えてくれる」と。


 それが私の全財産だ。


「家賃は月三銀貨。前払い。修繕は自分でやるなら構わない」


 大家のおばあさんは、私の手を見て少しだけ目を細めた。私の手。薬草を扱い続けて爪の間が少し黒ずんでいる。指先はかさついている。でも、力のある手だと自分では思っている。


「働く手だね」


「……ありがとうございます」


 その一言が、三年ぶりに聞いた褒め言葉だった。胸の奥で何かが緩む感覚があって、慌てて唇を引き結んだ。泣くほどの言葉ではない。でも、乾いた土に水が染み込むような心地がした。


 手帳を開く。今の手持ちで作れる薬草茶の配合を確認する。風邪の初期に効くもの、胃もたれを和らげるもの、眠れない夜のためのもの。材料が足りないものは印をつけた。


 棚は自分で作る。通りで廃材を拾い、釘を買って、一枚ずつ板を打ちつけた。掃除は自分でやる。


 蜘蛛の巣を払い、床を磨き、壁の染みを布で拭いた。看板も自分で書く。木の板にペンキで、一文字ずつ。


 三日かけて、店の形を整えた。


 壁を拭き、窓を直し、裏庭の土を掘り返した。指先にまめができて、爪の間に土が入り込む。屋敷にいた頃は、手袋をして薬草を扱っていた。今は素手だ。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 自分の手で、自分の場所を作っている。その実感だけで、背筋が伸びた。夜になると体中が痛んだけれど、それは心地よい疲れだった。





 開店四日目の朝。


 最初の客は、隣の通りのパン屋の女将だった。がっしりした体格に小麦粉のついたエプロン。声が少し枯れている。


「薬草茶って、あんた、本当に効くの?」


「お試しいただければ」


 カモミールと蜂蜜を少し。女将の声が枯れていたから、喉に良い配合にした。湯の温度は少し低めに。熱すぎると喉に刺激がある。


「……あら。美味しいじゃない」


「よかった」


「変に薬臭くないのがいいね。あたしは薬ってだけで嫌になるほうだから」


「薬草茶は薬ではありません。体を温めて、少しだけ調子を整える。それだけのものです」


「ふうん。で、いくら?」


「銅貨二枚です」


「安いね。もう一杯」


 それが始まりだった。


 パン屋の女将が「路地裏に薬草茶の店ができた」と話し、八百屋の主人が「喉の調子が良くなった」と人に勧め、三日もすると、小さな行列ができるようになった。


 とはいえ、行列といっても五人か六人。売上は一日に銅貨三十枚がいいところだ。家賃と材料費を引けば、手元にはほとんど残らない。


 それでも。


 自分が作ったものを、自分の値段で、自分の言葉で売る。客の顔を見て、体調を聞いて、その人に合ったものを淹れる。


 それだけのことが、こんなにも胸を満たすのかと驚いた。


 ある夕方、店を閉めようとしたとき、背の高い男が扉の前に立っていた。


 黒髪を短く切り揃えて、少しだけ猫背。腰に剣を差しているけれど、鎧は着ていない。非番の騎士、だろうか。


 靴を見た。よく手入れされているが、踵が片減りしている。長時間の立ち仕事。巡回か、訓練か。


「まだ、開いてますか」


「はい。何をお探しで?」


「……肩が凝って眠れないんです。何かありますか」


 私は彼の手を見た。剣だこがある。指の関節が少し赤い。稽古をしすぎているのだと思った。手首にも力の入れすぎた跡がある。


「ラベンダーとペパーミントの茶を、少し濃いめに淹れましょう。寝る前に、ゆっくり飲んでください。できれば肩を温めながら」


「……詳しいんですね」


「商売ですから」


 彼は茶を受け取りながら、店内を見回した。まだ埃っぽい棚。手作りの看板。


 小さな裏庭。それら全てを、丁寧に見ていた。物を見るとき雑にならない人だ、と思った。


「一人で全部やってるんですか? この店」


「ええ」


「……すごいな」


 言ってから、彼は少し照れたように視線を逸らした。


「すみません。初対面なのに、偉そうに」


「いいえ。嬉しいです」


 本当に嬉しかった。「すごい」と言われたのは、いつ以来だろう。屋敷にいた三年間、一度もなかった。


 彼は銅貨を三枚置いて、小さく頭を下げて帰っていった。名前は聞かなかった。


 その夜、店の裏庭で空を見上げた。星が出ている。屋敷の寝室からは見えなかった角度の星が、ここからは見える。壁の高い屋敷では、空は四角く切り取られた額縁でしかなかった。ここでは、端から端まで見渡せる。


 手帳に今日の売上を書き込む。客の症状と、出した配合も記録する。一人一人の顔を思い出しながら、ペンを走らせた。


 (一人でも大丈夫。一人でもやれる)


 そう思った矢先に、店の裏口を叩く音がした。


 心臓が跳ねた。義母の手の者か。いや——この叩き方は。遠慮のない、実直な音。


 開けると、大きな荷物を抱えた女性が立っていた。白髪混じりの黒髪。がっしりした肩。見間違えるはずがない。


「マルタ……さん?」


「フィーネ様。——いえ、フィーネ。遅くなりました」


 侍女長——いや、元侍女長のマルタが、息を切らして立っていた。頬が赤い。ここまで走ってきたのだろうか。その後ろに、もう一つの大きな影。


「嬢ちゃん、厨房はどこだ」


 丸い体型。口の悪い声。トビアスだ。


「ちょっと……どうして……」


「退職届は出した。荷物もまとめた。あとはここに来るだけだ」


 マルタが私の顔を覗き込んだ。三年間、毎朝起こしてくれたときと同じ、真っ直ぐな目だった。


「言ったでしょう。フィーネ様のいらっしゃらない屋敷に、私の仕事はないと」


「でも——あなたたちの生活は」


「生活なら、ここで作ります」


 目の奥が熱くなった。唇を噛んだ。泣いたら、この人たちに心配をかける。


「……店は狭いですよ」


「狭くていい。あの屋敷より、よほど風通しがいい」


 トビアスが鍋を一つ、荷物から取り出した。使い込まれた銅の鍋。屋敷の厨房で、毎朝スープを作っていたあの鍋だ。底が少し凹んでいる。何百回と火にかけた跡。


「今夜はスープを作る。明日から、この店の飯は俺が仕切る」


「……勝手に決めないでください」


「嬢ちゃんの料理がまずいのは知ってる。三年間見てきたからな」


 マルタが肩を揺らして笑った。私も、少しだけ笑った。


 ——こうして、私の薬草店は三人になった。


 翌朝、店の看板を書き直した。


「星月草」。


 祖母が好きだった花の名前だ。月の光の下で咲く小さな白い花。目立たないけれど、根が強い。


 マルタが棚を拭き、トビアスが裏庭の隅に野菜の種を蒔いた。私は新しい配合を手帳に書き込んだ。


 三人でいると、店が少しだけ広く感じる。


 そのとき、表の扉が開いた。昨日の騎士だ。


「あの——昨日の茶、よく眠れました。また……」


 店の中を見回して、彼は目を丸くした。


「……人、増えましたね」


「ええ。家族が来たんです」


 マルタとトビアスが顔を見合わせて、少しだけ笑った。


 ——けれど。


 この穏やかな日々が長く続かないことを、私はまだ知らなかった。


 三日後、一通の手紙が届く。差出人はヴァルトシュタイン公爵家——義母、ヘルミーナの名前だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ