第10話 薬草店の窓辺にて
裁定院の監査が終わったのは、それから二ヶ月後のことだった。
結果は明白だった。ヘルミーナの不正は十年以上に渡り、横領の総額は金貨三千枚を超えた。元家令ベルンハルトの証言が、最後の決め手になった。十年前に彼が見つけた不正の記録と、私が三年間で集めた記録が繋がり、一本の線になった。
ヘルミーナは公爵家の一切の権限を剥奪され、領地の外れにある別邸での隠居を命じられた。社交界との接触は禁じられ、財産は公爵家に返還される。ディートリヒは弁護士資格を停止された。最後まで書類の角を揃えていたが、その手は震えていた。
過度な処罰ではない。だが、二度と同じことはできない。それで十分だった。
復讐がしたかったわけではない。ただ、嘘を嘘のままにしておけなかっただけだ。
公爵家の再建はクラウスに委ねられた。使用人の募集を始めたと聞いたが、応募は多くないらしい。
「当然だろうな。信頼は一日では戻らない」
レオンが言った。
「でも、一日ずつ積み上げることはできる」
「……あんたの言いそうなことだ」
リーゼロッテの提言は王宮で正式に採択され、「聖女」の制度は「王立薬草治癒院」として再編されることになった。薬草師の資格制度が新設される。祈りの形式は残しつつ、薬草の調合技術を公的に教育する仕組みだ。
その初代の顧問として、私の名前が挙がった。
「フィーネさん。引き受けていただけますか」
リーゼロッテが店に来て、正式に依頼をした。初めて会ったときの影のある表情は消えていた。肩の力が抜けている。
「顧問は引き受けます。ただし——」
「ただし?」
「星月草は閉めません。ここが私の場所ですから」
リーゼロッテは微笑んだ。三秒の沈黙なしに。初めて見る、素直な笑顔だった。
「もちろんです。星月草あっての、フィーネさんですから」
◇
春が来た。
裏庭の薬草が一斉に芽吹いている。ラベンダー、カモミール、ペパーミント。冬を越した根は強く、茎はまっすぐ伸びている。紫色の小さなつぼみが、あちこちで顔を出し始めていた。
店は相変わらず忙しい。パン屋の女将は常連になり、毎週木曜に喉の茶を買いに来る。「商売柄、声が命なんだよ」と言いながら、世間話を三十分していく。
八百屋の息子は湿疹がすっかり治った。今は店の配達を手伝ってくれている。元気な声で「星月草さん、お届け物でーす!」と叫ぶのが日課になった。
仕立て屋の主人は月に一度、頭痛予防の茶を買いに来る。最近は奥さんも一緒だ。
マルタは店の裏方を仕切っている。使用人時代よりもずっと生き生きとした顔で、掃除から在庫管理まで一手に引き受けてくれる。
「フィーネ、カモミールの在庫が少なくなっています。エーリッヒさんに発注を」
「はい、マルタさん」
「それと、窓の桟が汚れています」
「……すみません」
相変わらず厳しい。でも、その厳しさが心地いい。
トビアスの薬草料理は評判になり、昼時には小さな行列ができるようになった。ローズマリーのスープ、タイム風味のパン、セージのソーセージ。
「嬢ちゃん。今日のスープはいい出来だ」
「毎日いい出来って言ってますよ、トビアス」
「毎日いい出来だからな」
鍋を叩く。嬉しいときの音だ。
エーリッヒとの取引は安定している。月に一度、菓子を持って仕入れの相談に来る。干し葡萄のタルトが定番になった。
「フィーネさん、今月の新入荷。南方のレモングラスが手に入った。いい品だよ」
「ありがとうございます。試させてください」
「もちろん。それと——」
菓子をもう一つ出した。
「これは祝い。星月草、半年おめでとう」
「……もうそんなになりますか」
「なるさ。早いもんだ」
ある日の午後、クラウスが店を訪ねてきた。
銀髪は短く切り揃えられ、頬の肉が少し戻っていた。上着は新しい。目の下の隈は——まだある。でも、以前のような暗さはない。
「久しぶりだな」
「お元気そうで」
「……元気ではない。屋敷の再建は大変だ。使用人が全く集まらない。自分で掃除も洗濯もしている」
「それは——」
「いや、いいんだ。自分がやって初めて分かることがある。フィーネが三年間やっていたことの大変さが、今になって分かった」
初めて聞いた。クラウスがそんなことを言うのは。
「フィーネ。一つだけ言わせてくれ」
「何ですか」
「すまなかった。あの夜、母上に何も言えなかった。お前が正しいと分かっていて、目を瞑った。窓の外を見ることしかできなかった」
返す言葉を考えた。怒りはもうない。悲しみも薄れた。残っているのは——穏やかな、手放す気持ちだった。
「ありがとう、クラウス。裁定院で立ち上がってくれたこと、忘れません」
クラウスは少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「……お前の店、いい場所だな。風通しが良い」
「ええ。私の場所です」
彼は薬草茶を一杯飲んで、静かに帰っていった。振り返らずに。
別れは穏やかだった。それでいいと思った。
夕方、店を閉める準備をしていると、レオンが入ってきた。今日は非番らしい。外套の下に剣はない。いつもより猫背が軽い。
「茶、いいか」
「どうぞ。今日は何にしますか」
「あんたが選んでくれ」
カモミールにした。蜂蜜は少しだけ。レオンが初めて淹れてくれたときの配合を、少しだけ思い出しながら。あの夜、カモミールが多すぎて蜂蜜が甘すぎた茶。でも、一番温かかった茶。
カウンター越しにカップを渡した。指先が触れた。ほんの一瞬。彼の指は相変わらず剣だこがあって、少し熱かった。
レオンはカップを受け取って、一口飲んだ。
「……美味い」
「当然です。私が淹れたんですから」
「生意気だな」
「事実です」
小さな笑い声が店に響いた。窓から差す夕日が、カウンターの上に長い影を作っている。
レオンが窓辺の椅子に座った。夕日が差し込んで、黒髪に赤い光が混じる。いつもの猫背が、光の中だとあまり目立たない。
「なあ、フィーネ」
「はい」
「……この店、ずっと続けるんだろ」
「ええ。ずっと」
「なら——俺も、ずっと通っていいか」
その言葉の意味を、私はちゃんと分かっていた。告白とも呼べないくらい静かな言葉。でも、一杯の茶よりも確かな温度があった。
「……毎日でもどうぞ。ただし、皿洗いは必須ですよ」
レオンは何も言わなかった。ただ、窓辺の光の中で、少しだけ笑った。猫背が伸びて、目が細くなって、いつもの不器用な笑い方。
それで十分だった。言葉はいらない。隣にいてくれるだけで。
手帳を開いた。今日の記録を書く。
客の名前。症状。処方箋の内容。売上。仕入れの予定。
最後のページに、一行だけ書き足した。
「本日の特記事項——窓辺にて、良い夕日」
ペンを置いて、窓の外を見た。
春の風が薬草の香りを運んでくる。ラベンダーとカモミールが混じった、柔らかな香り。小さな店に、夕日が差し込んでいる。
半年前、靴音が響かなかった廊下を歩いた日のことを思い出す。
あの日、私は何も持っていなかった。手帳と木の櫛だけ。振り返れなかった。崩れてしまいそうで。
今、目の前には小さな店がある。裏庭には薬草が茂っている。棚にはマルタが磨いた瓶が並び、厨房からはトビアスのスープの香りがする。カウンターの向こうには仲間がいて、窓辺には——大切な人がいる。
全部、自分の手で掴んだものだ。
自分の手で掴んだものは、誰にも奪えない。
店の看板を磨く。「星月草」。祖母が好きだった花の名前。月の光の下で咲く、小さくて強い花。
明日もここで、薬草を煎じよう。来る人の手を見て、暮らしを想像して、その人に合った一杯を出す。
それが私の仕事だ。それが、私の場所だ。
窓辺の光が、ゆっくりと琥珀色に変わっていく——。




