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彼女は牡丹君は椿②  作者: 汪海妹
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わたしと先生の間の線







わたしと先生の間の線







進藤君







「あ、進藤君。お疲れ」


野中さんが来た。今日はいた。時々用事で出かけていると、会えない日がある。


「夏休みなのに、遊びとか行かないで、こんなとこ来てていいの?」


にこにこしてる。遊びに行ってあなたに会えないと僕はつらいんだけど、きっと野中さんは僕がいてもいなくても平気なんだよね。


「お金ためて買いたいものがあるんです」


うそ、うそです。


野中さんには噂がある。


「火野先生って奥さんと別居してるらしいんだけど」

「はい」

「それで野中さんのことすごい気に入ってて、毎日のように呼び出すのよ。1人暮らしの家に」

「……」

「中学生とかじゃないんだからさ。お互い。まぁ、そういう関係なんだと思うの」

「はぁ」

「でも、いつまで続けるのかしらね、火野先生も。先生はいいかもしれないけど、野中さんがかわいそうよね。はっきりしてあげないと」

「……」


知りたくなかった、正直言って。野中さんのそういう話は。笑顔のすてきな優しい書店のお姉さんでいてほしかった。僕が18、彼女が24。ありえないって分かってる。ただの憧れ。でも、憧れの人には普通に幸せでいてほしい。


「野中さん」


彼女が振り向く。


「今晩とかも忙しいですか?」


彼女は夜、忙しい。空いている時が少ない。


「いや、別に。大丈夫だけど」

「バイト紹介してもらったお礼にご馳走させてください」


彼女は目の前で両手を振った。


「え~、いいよ~。別にそんなの」


断られた。


「行ってみたいお店があって、1人だと入りづらいんです」


彼女はちょっと考える。少し小首をかしげて、少しだけ微笑んで。


「割り勘だったら、いいよ」


じゃあね、とあっちへ行く。何か別のフロアに用事があるみたい。割り勘だったらってデートじゃなかったらって意味で使ってるのかな?でも多分、野中さんは僕がデートに誘っているって思っていない。きっと一生思ってもらえない。僕が高校生で、彼女が社会人で、彼女が免許持ってて、まだ免許持ってない僕を車に乗せて、送って、そういう出会い方をしたから。彼女から見たら僕はあのけがをしてしまって守ってあげなきゃいけない年下の男の子なんだ。半永久的に。


じゃあ、僕は一体どんな手段を用いれば、今から守ってあげなきゃいけない年下の男の子改め守ってくれる男の人になれるんだろう?僕自身にそういう能力が足りないというより、野中さんの中にいる僕がもうそこで固定されちゃっていて、動かしようがないんだよね。……考えたくない。現実から目をそむけたい。ついでに、本気になるのはやめておけ、見てるだけ、と呪文のように言い聞かす。


***


「わ~。会社の近くにこんなお店あったんだ」

「できたばっかりみたいです」

「ふうん。おいしかったら、今度はまたみんなで来たいね」


そう言って笑った。元気そうなのにな。でも、幸せではないのかな?きっと僕には野中さんはつらい顔なんて見せないんだろうけど。


僕が野中さんを連れてったお店はこじんまりとした店で、小さな音量で陽気な音楽がかかっていて、壁は黄色で、壁の作り付けの棚にはワインの瓶がずらっと並んでいて、ワインに合いそうな料理がいっぱいあって、お客さんがいっぱいいてにぎやかで、だけど、野中さんはやっぱり元気がないような気がした。


「乾杯!」

「なにに?」

「えーと、なんでもいいか」


そう言って笑ってワインを飲んだ。


「こんなニンニク入った料理食べて、明日臭くないかな?」


1人でぶつぶつつぶやいている。


「あの、野中さんって火野先生と何かあるんですか?」


エビを食べようとフォークでつっついていた手を止めて、きょとんとこちらを見た。


「え~、またみんなが変なこと言ったんでしょう?ないないなにも」


すぐにそう言って笑った。でも、笑い始める前、ほんの一瞬、彼女の瞳は悲しい色を映した。


「でも、しょっちゅう会ってますよね」


うーんと彼女は考え込む。


「先生にもね、周囲に誤解されるから、澤田さんに言われたからって家に来るのはやめなさいって言われたの。まぁ、でも、わたし先生のファンだからさ。つきまとってるだけ。先生は相手にしないって。便利におつかいとか頼まれているだけ」

「それでいいんですか?野中さんは」

「いや、だって、最初っからありえないってわかってるからさ。大丈夫、大丈夫」


僕と野中さんもありえないけど、野中さんと先生もありえないのか。


「じゃあ、もっとちゃんと現実的に婚活とかしたほうがいいんじゃないですか?」

「……」


あ、なんか僕、まずいこと言っちゃったかも。笑顔が消えちゃった。でも、その後、僕が年下だから、こんなことぐらいで怒っちゃだめだと気をとりなおして、


「うん、お兄ちゃんにもさんざん言われた」


笑顔がひきつってる。ぷ、くくく。


「なんで、笑うの?進藤君」

「野中さん、考えてること顔に出てるよ。ほんとうはこのくそがきって思ったくせに」

「……そんなこと思っちゃいないわよ」


お姉さんぶっている顔がすこしだけ外れた。笑いながら、心ではため息つく。かわいいなって思ってもしょうがないんだから、かわいいなって思うのはやめとけよ。自分。







このは







去年、ゆっくりとお互いを知って、少しずつ歩み寄ったわたしたちは、今年、ゆっくりと数歩ずつ後ろへ下がった。何か言葉があったわけじゃなくて、具体的な何かがあったわけじゃなくて、ただ、先生がわたしと先生の間に見えない線を引いたみたい。とても優しいんだけど、それは年上の男の人が人生の後輩に見せる清潔な何かに変わっていってしまった。


先生は巧みに少しずつゆっくりと、去年までとは違う何かを2人の間において、気が付いたら去年までのああいう2人の間に流れていた空気みたいなもの、それはわたしだけの勘違いだったんじゃないかと思うように、誰も悪者にならない、そんな方法で、離れていった。ある一定の距離まで。


ときどき二人で行った美術館も、もう先生から誘われることはなくなって、わたしから誘う勇気がなかった。澤田さんに行って来いと渡される演劇とか映画が、まだ出かけられる唯一のチャンス。先生は誘われるものを断りはしなかった。そして、また出かけるのだけど、それだけ。それでもデートみたいでわたしは嬉しかった。手も相変わらずつなげないのだけど。


きっと、先生は若い女の子がちょっと珍しくて、それで、その珍しさのピークみたいなのがもう終わったんだと思う。そして、今、特にわたしに興味がなくなったんだろう。先生にとってはなんでもないことだったんだろう。わたしが大げさにとらえちゃっただけ。


でも、やっぱりひどいと思う。からかうならもっと、わたしみたいな田舎者で、男の人のことよく知らないような女の子じゃなくって、遊びに慣れている人にすればいいのに。ちょっと赤が似合うって言われて舞い上がったり、高い浴衣買ってもらってその気になったり、本当にわたしって間抜けすぎる。そういう褒められたり、何かプレゼントされたりとかしなければ、いくらわたしだって、ありえないことがありえるかもなんて夢を見ないのに。


それなのに、そこまで思っていても、わたしは理由をつけては先生の家へ行って、一緒にご飯を食べて、お菓子を食べてお茶を飲んだ。その時間は、一日のうちで一番楽しかった。先生のそばにいると落ち着いた。何も話さなくても。先生がどう思っていたのかは見事なまでにわからなかった。ただ、前のように来るのをやめろと先生は言わなくなった。不愉快な様子もしていなかった。


先生がもし、もっと年上で50歳とか60歳とか、そうしたらきっと2人はいい友人になっていたのかもしれない。父親と一緒にいるような気持で先生といたかもしれない。でも、先生はそんな年上じゃなかった。父親と思えないなら、お兄さんと思わせるように、彼はそういう方法でわたしを傷つけずに、彼の引いた線の向こうへ置こうとしているのだと思う。長い時間、過ごしてきてわかった。先生はとても優しい人。人を簡単に寄せ付けないけれど、一度寄せ付けてしまった人に対してはとても丁寧なの。


また、夏が来て澤田さんが恒例の屋形船を借りるという。先生に聞く前になんとなく答えはわかっていた。


「行けない」


去年、とても楽しかったあの時のことを思い出しながら、先生の返事を聞いた。


「はい。じゃ、澤田さんにそう伝えます」


去年は行かないと言った。今年は行けないと言った。先生は心なしか悲しそうだった。ずっと、壁を作ってきたくせに、ふいにそんな顔をする。その顔はちょっとお兄さんっぽくなかった。先生、そんな顔しちゃだめだってば。心が乱される。まだ完全にわたしに対する興味を失ったわけじゃないのかな、とどこかで思ってしまう。


ずっと考えないようにしてきたことを考えるようになった。先生の奥さんのこと。きっと奥さんのほうから家を出ていって、別居中で、でも、先生はまだ奥さんのことが好きなんだと思う。2人は会ったり、話したりしてんのかな?


奥さんとわたしだったら、奥さん。だから、ゆっくりと距離をおきはじめたんだよ。去年は奥さんとうまくいかないことに疲れて、だから、ちょっとわたしと出かけたりして気を紛らわしてたんだわ。でも、別に決定的なこと言われたわけでもないし、手すら握られてないし、何もされてない。わたしたちが寄せあったのは心で、体ではない。そして心を寄せあった記憶は、風化する。確かな証もなくて、自分でもほんとにあのとき、わたしたちは心を寄せあったのかわからなくなる、どんどん。だから、先生を責めることができない。


***


お盆にはまた、両親の所へ帰った。母が心配だった。相変わらず、母はわたしに冷たくあたってきた。でも、それでもわずかな時間でも帰ったことが無駄だったとは思っていない。そして、東京へ戻ってきたら、こつこつと仕事に専念した。


「総合書店のラインナップでいくにしても、うちでしか買えないようなものを入れるとか、何か差別化できないと苦しいですよね」


会議の席上でみんながいろいろ言ってる。わたしは手を挙げた。


「なに?野中さん」

「コンテンツも大事ですけど、利用者にとって使いやすいかどうか、そういう環境で負けちゃいけないと思うんです。見やすくて、きれいで、使いやすい」


ちょっとみんな黙る。わかってる。今、紙の書籍と電子書籍が並行していて、断然紙のほうが売上が立ってるから、そちらのほうの店舗に対しても定期的に投資しなければならない。電子にどこまで投資するか、判断が難しい。どうリターンするか測りにくい物より、いくら投資すればいくらリターンするか過去データから測れる紙店舗への投資のほうが安心なんだ。だから、紙への投資の方が優勢。


「ページが重たくなくてつながりやすい。そういうのが大事だと思うんです」


でも、未来はきっと、電子が広がっていく。紙が減る、わたしはそう思う。紙が減ってから電子に投資しても間に合わないんだ。会議の場で発言するのは、ちょっとどきどきして、顔が赤くなっちゃうんだけど、でも、言いたいことは言った。わたし、今日も少しだけがんばりました。


会議終わって、自分の席に戻る。


「野中さん」


上司に呼ばれる。林さん。


「さっき、君が会議で言ってたことだけど」

「はい」

「僕も同意見です」


席に座ったまま、両手組んでその上に軽く顎載せて、部長はそういった。


「どういうサイトが見やすくて使いやすいのかいろいろ比較して、研究して、レポートにまとめてくださいよ。テクニカルな部分で分からないのは、みんなに聞いて、さ。それで、そういうのにいくらぐらいかかるものなのか見積もってみよう。みんなで」


ちょっとびっくりした。初めて部長からルーティン以外の仕事頼まれた。


「みんなで調べた結果で、提案書まとめて僕が上にあげますから」


初めて自分の意見が採用された。


***


その日、仕事が終わってからわたしは駆け出すような気持ちで先生の家に向かった。


それは、苦手な科目で初めて100点を取って、それをお母さんに早く見せたくて、ランドセルを揺らしながら駆けてしまうような帰り道。子供のように先生のところへ飛んで帰りたかった。


「こんばんは」

「いらっしゃい」


それなのに、息切らして駆け込んでわたしは黙る。なんというか、一生懸命しゃべってふうんと言われたらどうしよう、と思って。なんか、自分はすごくがっかりしてしまうような気がした。だから、


「今日は何飲まれますか?」

「今日は、ビールかな……」


いつものように食事の準備をして、食卓に並べて、向かい合って座る。


ニャー


エメラルダが寄ってきて、先生のひざの上にぽんとのる。


「なんかほしいの?」


ニャー


「人間の食べ物って動物にはしょっぱすぎて、身体に悪いんだぞ」


ニャー


「しょうがないなぁ」


やっぱり猫だから魚かといって、焼き魚の塩がかかってないところ選んで、ほぐしている。わたしはときどき、エメラルダが羨ましい。先生のひざにのれるから。


「今日」


エメラルダを見たままで、先生が急に話し出す。


「なんかいいことあったの?野中さん」

「え?なんでわかるんですか」

「見ればわかるよ」


ニャー、催促している。先生の手からエメラルダが魚を食べる。そして、先生は顔をあげてわたしを見た。


ニャー


「はいはい」


そして、また、猫にとられた。もう少し、身をほぐして、与えている。


「ほんとに身体に悪いんだから、これくらいにしときなさいよ」


そして、しばらくして先生はエメラルダをそっと膝からおろした。


「ゆっくり食べられないから、あっち行ってなさい」


エメラルダは前足でちょっと顔を掻いた後に、すたすたと向こうへ行った。


「何があったの?」


先生がもう一度こっちを見た。


「会議で言ったことが、初めて上司に認められて……」


わたしはお昼のことを先生に話した。先生は、話を聞いた後で、一言


「よかったね」


と言って、そして、笑った。


なかなか笑わない先生が笑うときの顔がわたしは好きだ。


めったに笑わない人が笑うのは、ほんとにうれしいとか楽しいときだから。それは、100%嘘ではない。絶対に嘘ではない。この人はわたしが仕事でちょっとしたいいことがあったことを、ほんとうに喜んでくれた。


しまったな……。後で食器を洗いながら思う。しまった。こんな話するんじゃなかった。先生の笑顔なんて見るんじゃなかった。もう少しまた、この人を好きになってしまった。奥さんのいる人なのに。


「野中さん」


いつの間にか先生がそばに来ていた。カウンターごしに、エメラルダを抱っこしながらわたしを見ている。


「はい?」

「最近はお母さんとは大丈夫ですか?」

「……」


流しっぱなしの水をいったん、停めた。


「母とは……、わたしが帰って母の気に入るような人と結婚しないと、たぶん仲直りできない気がします。相変わらずです」

「そう……」


その後、先生は何か言いたそうにした。時々この人はこういうことをする。だけどやっぱり黙りました。


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