エターナルホワイトアウト(2)
こんな雪の日は、世界に愛が溢れている。
涼子はそう言いたかったのだろうと思う。オレには信じられない。だが、そう思う涼子の気持ちはわかるつもりだ。誰もが積もり過ぎた雪にうんざりしているけれど、心の中に子供のように真っ白な景色に喜んでいる、もう一人の自分がいるのだ。滑って車をぶつけた誰かを、励ましたり、道路に押し戻そうと歩行者が力を合わせたり。
そういうことが、こんな日には起こりえる。
期待もしていなかった親切な心に、誰かが感動する日だ。学校に遅刻しても、約束に遅れても、こんな日だけは許される。道路の端で立ち往生しても、白い雪が、静かに見守ってくれる。その記録的な幻想風景が心を癒してくれる。すべてを許そうと、誰もが思う日だ。
オレには信じられない。いらいらしながらサービスエリアでコーヒーで体を温める長距離トラックのドライバーもいるだろう。雪のせいで転んで膝に三針も縫う怪我をするやつもいるだろう。ひょっとしたら、この雪のせいで、最後のチャンスを棒に振って自殺を考える商売人もいるだろう。
けれども、雪は、そんな不幸も覆い尽くす。静かに静かに、すべてを覆い尽くす。
涼子が、バッグの中から取り出したのは数枚のイラストだった。イラストというには描き殴り過ぎだったが。
「こういう塔が建っているの。まず最初に愛香ちゃんが見たのはこういう塔なの」
連れ去られた現場にプレリュードをエンジンをかけたまま止めると、オレは周りを見回した。
「見当たらないな」
「探すしかないわ。誰かに聞いてみましょう」
「そうだな」
近所で聞いたところでは、そういう塔は無かった。鉄の骨組みの上に丸い展望台の付いているような塔。けれど、そいつはオレが見つける事になった。それはガスの貯蔵用タンクで、街の外れに目立たないようにあった。塔だと思うには小さすぎる。直径で二メートル強しかない。しかし、塔だと思ったのはオレ達で、それは思いこみに過ぎなかったわけだ。
次の絵はスーパーのような建物。そんなもの、何処にでもある。小学生の愛香ちゃんにはアルファベットが読めないから、店の看板やロゴが理解できないらしく、涼子もそれをはっきりと理解できずにいた。ただ、Aという文字だけがはっきりとわかっているに過ぎない。
「涼子。じっとしていても仕方無い。ここからだと、国道に近い。オレ達が来た国道と、その反対側のここから近い国道の二つのどちらかを通るってのは考え方としても正しいと思う」
「そうね。これを愛香ちゃんが見たということは、こっちの道に出たのね」
「問題は、東西に走る国道のどっちに向かったかということだが」
「行ってみましょうよ。その建物があったほうが正解よ」
「じゃあ、距離を決めよう。プレリュードのメーターで三キロ走って無ければUターンする」
「いいわ」
東に向かい探し始めた。雲が多くて、雪は再び吹雪のようになった。視界は悪いが、スピードも出ない。三キロを進むのに三十分もかかってしまった。しかし見つからない。交差点で周りに車がいないのを見計らってサイドブレーキを使ってターンする。前輪を軸に車体の後半を横滑りさせて向きを変える方法だ。大学の頃、自動車部にいたんだよ、オレは。
西に向かって来た分プラス三キロの合計で六キロは、予想より少なくて四十分ほどで走った。
「歩いたほうが早いかもね」
涼子がにこにこして言った。
「嫌だよ、オレは。こんな寒い日に歩くなんて」
三キロを過ぎても目標の絵と同じ建物は見つからない。オレはそのまま走り続けた。
「あと三キロ行こう。それで駄目ならUターンだ」
「いいわよ」
あと二度ほどUターンを繰り返し、ついにオレ達はそれを見つけた。
それはスーパーではなくて自動車部品の量販店だった。
「丁度いいから、ちょっとオイルを買おうかな」
オレはつぶやいた。
「そうね。それに食事もしたほうがいいかも。もう二時よ」
「そうだな。雪のおかげで調査が難航したから」
「大丈夫よ。それに雪じゃなかったら通り過ぎていたかも」
「まあな」
オートバックスでホンダ純正オイルを買って、そいつをプレリュードに食わせた。直さなくちゃいけない。これは少々オイルの減りが早すぎる。
隣のマックでハンバーガーを買い、車の中へ戻った。予想以上に時間がかかっているから、ゆっくりと食事をしているわけにもいかない。
「次は?」
オレは、プレリュードのエンジンをかけると言った。気のせいか気温のせいかエンジンのかかりもにぶい。バッテリーを最後に替えたのはいつだったかな。
「煙突、だと思う」
オレは、涼子の描いた絵を見た。それにしても、涼子の絵はうまくない。煙突というより、オレにはホットドックに見えた。マックに入ったからかもしれないが。
ともかく煙突で思い浮かぶのは工場だ。
「あとは何かないか?」
涼子は、自分で描いた下手クソな絵を見つめて考えた。
「お風呂屋さん」
「銭湯か」
オレは、地図を取り出した。今までの経緯から言って、イメージを送ってくる女の子は、こちらに道順を教えてくれているわけではないと判っていた。だから、この煙突が、このオートバックスの近くにあるという保証は全くない。
しかし、この雪の中、遠くの煙突が見えるはずもない。
「銭湯は、ここに一軒あるな」
オレは、地図の一部を指差して涼子に教えた。涼子は、それをじっと見た。
「たぶん、違うわ。そこじゃない」
「なんで判るんだ?」
「なんでって言われても。はっきり言えないけど、なんとなく」
オレは、他にも煙突のありそうな建物を探し始めた。最終的には、現場に行って、涼子が見た映像と彼女自身が比べてみるしかない。子供の落書きのような涼子の絵では話にならない。
「仕方ない。とりあえず、近くに工場がいくつかある。そこへ行ってみよう」
プレリュードを発進させると一瞬、ヘッドライトの明りが暗くなった気がした。これはますますまずい。いっそ、ここでバッテリーを交換するか?しかし、そんな暇もないし。
「ま、なんとかなるだろ」
オレは、気にしないことにした。いざとなれば、こいつはマニュアル車だ。押しがけするという手もある。ようするに車のバッテリーなんていうのは、始動してしまえば必要無いんだ。エンジンが回っている間は発電しているのだから。エンジンをスタートさせるには、そいつを勢い良く回せる力さえあればいい。つまり押せばいい。勢いがつくまで押せばいい。実際は、車は重いから坂道の上に止めておくという手もある。なんとかなる。もとJAFの隊員のオレが言うんだから間違い無い。
もっとも、JAFの隊員はバッテリーを充電するのが仕事で、押したりしないが。それに最近の車はオートマばかりだから押してかけるのは無理だ。
工場地帯に車を乗り入れると、そこは除雪されていて走り易くなった。こんな雪でも、工場は止まらないんだな。いくつかの煙突から煙が吹き出していた。
「大きな煙突」
涼子が目を輝かせた。
「あれか?」
「そう。大きい」
「あれは発電所だ。火力発電をしている」
「火力発電?」
「そうだ。石油を燃やしているんだ」
「ガソリン?車と一緒ね」
「いや、重油だ。船の燃料」
「何が違うの?」
「何って・・・。それより、あれなのか?テレパシーで見たっていうのは」
涼子がオレを見た。
「違うけど。それより、ガソリンと重油って何が違うの?」
どうでもいいだろう、と思った。しかし、興味深げな涼子の顔を見て、オレはため息をついた。
「地下から掘り出した石油を精製すると、重油やガソリン、軽油なんかに分類されるんだ。それぞれ使い道が決まっているんだ。重油はガソリンにならないし、軽油は重油にならないんだ」
「ふーん。石油って地下から出るんだ」
そりゃあそうだろう。空から降ってくるとでも思っていたのか?
「そんなことはないけど」
子供と話している気がした。何にでも興味を持つ子供と。
次に行ったのは、銭湯だったが、そこにも彼女が見たものは無かった。
「他に手がかりは無いのか?」
太陽は沈み始めているらしい。ずうっと曇っているから太陽は見えなかった。しかし、あたりはどんどん暗くなっていく。オレは焦り始めた。暗くなっては、捜索出来ない。
「割れた窓ガラス」
涼子は、急にそうつぶやいた。
「なんだって?」
「ガラスの破片が見えた」
「いつ?」
「今」
涼子は、さっきから熊のぬいぐるみを抱えて目を閉じていた。正直に言って、運転の邪魔だった。助手席側の視界が遮られる。ただでさえ見にくい雪の日なのに。
「他には?」
「外が見える。割れたガラスから外が見えるの」
オレは車を歩道に乗り上げると、サイドブレーキを引いた。
「外には何が見える?」
「空が。真っ暗な空。雪が窓から入ってくるの。寒い」
オレはいらいらしはじめていた。
「てがかりになるものは見えないのか?」
「寒い。寒くて寒くて凍えるの。床が冷たい」
「何が見える?」
「アドバルーン」
「何?」
「アドバルーンが見えた。天気のいい日には、アドバルーンが見えたの。今日は見えない」
オレは、急いで地図を取り出した。アドバルーンなんて今時つけている建物、あるんだろうか。でも、わからない。田舎だからな。時代錯誤な経営者がいたって不思議じゃない。もしくは、アドバルーン好きな経営者が。そう思った瞬間、オレはそれを見た記憶を思い出した。
「ジョイラックだ」
「何それ?」
急に、現実に戻った涼子が、驚いた顔でオレを見た。
「ホームセンターだよ。前に一度行っただろう?とてつもない敷地のホームセンターがあっただろう。あれが近くにある。それにあそこはアドバルーンを上げていた」
オレは、携帯電話で友人を呼び出していた。夜になってしまっていた。
とにかく、ジョイラック・ホームセンターの駐車場までたどりついて、そこのレストランに入った。ホームセンターに飲食店があるなんて信じられないかもしれないが、田舎ってそういうものだ。おしゃれなものは売っていないが、生活に必要なものはすべて売っている。ピンからキリまでの品揃えだ。
レストランと言っても、喫茶店でスパゲッティーも食えるってくらいのものだけれど、時間も時間だったから、そこで食事を済ませることにしたのだ。
「あ、市倉か?」
電話に相手が出ると、オレはスパゲッティーをコーヒーで流し込んで声を送り込んだ。「ああ。桜井。久しぶりだな」
「ああ。突然なんだが、お前、胆試し、好きだったよな」
「胆試しって。心霊スポット探索って言ってくれないかな」
「悪い、悪い。お前、ホームページ持っていたよな。そのスポットの」
「まあな。いろいろ行ったからな」
市倉ってやつは、大学の頃から心霊スポットへ行っては写真を撮ってくるという変な男で、オレも一度だけついて行った事がある。奴自身は、幽霊を見たこともないのだが、怪しい写真は何枚も持っていた。つまり、その手の話が大好きなのだろう。
「それで、だ。ジョイラックってホームセンター、知っているか?」
「知っているも何も、そこの近くに住んでいるよ。大抵の買い物はそこでしている」
「そうか、それなら話も早い。この辺りで廃虚はないか?アパートとかマンションとか」
涼子が見た景色は、捨てられたマンションだ、とオレは思ったのだ。
「さあ、聞いた事ないな」
割れた窓ガラス、冷たい床。ひょっとすると、ホテルかもしれない。そう伝えると、市倉は反応した。
「そこへ行くのか?」
「知っているんだな?」
「もちろん。有名だ」
有名って。オレは知らんぞ、そんなもの。
「何処にある?」
「待ってくれ。オレも行く。そろそろホームページを更新しようと思っていたんだ。このところオフシーズンでな。スポット探索に行ってくれる仲間が集まらなくて」
そうそう。やはり怪談は夏のものだ。いくらホームページがバーチャルな世界にあっても、それを作る人間は季節に左右されるってわけだ。
「そうか。だが覚悟して来いよ。何が起こるかわからん」
「大丈夫さ。それには慣れている」
「そうか」
そういうことじゃないんだがな。
「ところで、お前、一人か?」
「いや、霊能者と一緒だ」
電話の向こうで、やつが歓声をあげて喜んでいるのが伝わってきた。
やつの先導でオレ達は狭い道をのろのろと進んでいた。
市倉の車は買い換えたばかりという、スタッドレスタイヤを履いたインプレッサで、なんなく走って行くのだが、オレの方はそういうわけにはいかない。
「ねえ、圭吾」
「なんだ」
不思議そうに涼子がオレを見た。
「あの市倉さんって、どういう人なの?」
「大学の頃からの友人の一人だよ。心霊スポットを探索した写真なんかのホームページを作っているんだ」
「そうなの」
納得したように涼子が言った。
「どうした?」
「あの人の後ろに、たくさんいろいろな人が見えて。なんであんなに引き連れているのかな、と思って」
オレは、思わず噴き出した。
「あいつは、今までに幽霊に出会った事がないって、こぼしてたぜ」
「そうなの?あんなに一杯いるのに。見てよ、あの車。定員オーバーだわ」
見ても、オレにはわからなかった。第一、幽霊も定員に入るのか?
そのホテルは入り口が閉鎖されていた。もっとも開いていたとしても雪が積もり過ぎていて、四駆のインプレッサでも入れそうには無かった。
「どうやって、あそこまで行くんだ?」
オレは、入り口から奥の建物を見上げた。地上十階建てくらい。おそらく営業していた頃は、いわゆるラブホテルだったんだろう。今では、そのなごりをネオンに残すのみだったが、それさえも雪に隠れてしまっている。一面の雪のおかげで、辺りは明るくて、薄気味の悪さのほうは、だいぶ薄れていた。
「掻き分けて行きましょう」
涼子が、そう言ってフェンスに手をかけた。
「ちょっと」
市倉が、それを制した。
「こっちに回り込むと入り易いんだ」
そう言って、市倉は自分の車に手招きした。
「乗って。ここから先は一台しか入れないんだ。帰りはバックで出なくちゃいけないから」
わき道の先は、資材搬入路だった。そっち側もフェンスで遮られていたが、フェンスの向こうは、すぐに建物だった。
「さあ、出発」
市倉はバッグをかつぎ、車を降りた。
「何が入っているの?」
涼子が目を丸くして言った。
「いろいろとね。ライトやカメラなんかが」
「用意がいいな」
「もちろん。いつも車に載せているんだ」
雪を掻き分けるようにして建物のそばまで侵入した。雪が積もっているから、静か過ぎるくらいだった。なんの音も聞こえない。
「そこの雪をどけよう。入り口のドアが開かない」
「ああ、そうだな」
オレは手で雪をどけようとした。すると市倉はバッグから折り畳み式のシャベルを取り出した。
「用意がいいな」
「もちろん。こういうアウトドア用品は必需品だ」
手際良くドアの周りを片付ける。
「さあ、行くぞ」
シャベルをバッグに戻し、代わりにライトとカメラを取り出すと、カメラは首に掛け、バッグは背中にかついだ。そうすると、何も確かめないで、いきなり建物の中に踏み込む。オレも、それに続いて入った。プレリュードから、もう一つライトを持っては来ていた。夜にオイルを足さなくてはいけなくなったときのために積んでいるのだ。
ホテルの中は暗かった。こういうホテルだから窓は極端に少ない。外があんなに明るいというのに、一階の控室は真っ暗だった。
おそらく営業していた頃は、従業員の部屋だったのだろう。雑然とやかんや雑誌が散らばっていた。足の踏み場もないくらい机や、予備の枕といったものもある。床には営業していた時のものだろう、割引チケットが散乱している。
「とにかく階段を探そう」
オレは、すえた匂いのする部屋をさっさと出たかった。
「何故だい?一階を探索しないのか?」
市倉は不満そうに言った。
「ああ、オレは探索に来たわけじゃないからな」
「じゃあ、何しに来たんだよ」
そう言いながらも、オレの後をついて歩いてくる。涼子も、市倉に渡された予備のライトを手についてきていた。
「ここは、気分が悪いわ」
涼子は、そう言いながらオレの手を握った。
「何か見えるのか?」
「いいえ。まだ。でも、何かいる。昼間にしたほうがいいかもしれない」
オレは周りを見回した。従業員の部屋を出ると廊下だった。左手の奥に入り口が見え、正面はエレベーターだった。まあ、ラブホテルの一階なんてそんなものかもしれない。
「ここは、いつから閉鎖されているんだ?」
市倉のライトの見えるほうに言った。
「十年くらいだよ。経営者が首を吊ったと言われている」
よくある話だ。しかし、心霊スポット関係のうわさ話はあてにならない。何処の施設でも、経営者は首を吊ることになっているらしい。都市伝説のようなものだ。
「営業中には、何処かの部屋で心中があったとか」
市倉は聞いてもいないのに続けていた。
「閉鎖されてからは、人もいないのに電気がついていたとか。おかしな声が聞こえるといううわさが絶えない」
それは、市倉のようなやつらが、夜中に忍び込むからじゃないのか?
「圭吾。階段なんてないわよ」
確かに。さあ、どうするんだ?
「大丈夫だよ、涼子さん。こっちに戻ろう。従業員用の階段があるはずだ。こういうホテルは通路が二重になっているんだ」
「詳しいな。働いていたことがあるのか?」
「違うよ。言っただろ、慣れているって」
ああ、なるほど。
「それにしても暗いな」
どんなに目を凝らしてみても、見えるのはライトで照らされた所だけだった。コンクリートの壁に音が反射して声が不気味に響いた。
「あったよ」
従業員室からライトの光が漏れ、市倉が手招きした。
「狭い階段ね」
市倉を先頭に、涼子、オレと続く。一番後ろというのは、この際、一番怖い。背中に冷たいものを感じる。もっとも、冬だし、雪で濡れた靴が霜焼けになりそうなほど冷たかったが。
「気をつけろ。濡れた階段が凍っている」
何処かから雨漏りしているのだろう。部分的に凍り付いている。階段は狭く、コンクリートの打ちっぱなしで、明り採りの窓から白っぽい光が流れ込んでいた。汚れた窓からは下に停めてきた市倉のインプレッサが見えた。
「上に行くほど冷えていくようだな」
市倉がつぶやいた。言われてみるとそんな気もした。
「待って」
涼子が、急に立ち止まった。
「何だ?」
オレが言うと、涼子は手でそれを制した。
「これ以上は上がれない。三階に入りましょう」
「しかし、涼子が見たのはもっと上の階じゃないのか?」
涼子が言うように、窓の外にアドバルーンしか見えなかったのだとすれば、下の方ではないはずだ。確かに田舎だが、ホームセンターの向こうには街が存在する。いくつかの商業ビルも建っていた。
「駄目よ、今は。そこに怖い人が立っているから」
おいおい、オレには見えないぜ。そうは言うものの、オレ達は三階へ引き返し、ドアを開けた。廊下の両側にドアが並んでいた。いくつかは開きっぱなしになっていた。床にBB弾が落ちていて、誰かが戦争ごっこに使ったらしい。テロリスト対スワットか?
「しかし、こんなところに来てもな」
オレは、そう言ったが、市倉は違った。
「探索してくる」
そう言うと、カメラを構えフラッシュを焚いた。一瞬、視界が真っ暗になった。暗闇に慣れた目には強烈な光だった。オレは、ちらりと腕時計を見た。バックライトに照らされて、九時三十二分の文字が読めた。市倉は一人で奥へ進んで行った。
「涼子、何階だと思う?」
「たぶん、七階」
「確かか?」
「だから、たぶんよ」
「愛香ちゃんはいると思うか?」
「わからない。けれどいたことは確かなの。さっきの階段には小さい女の子の意識が残っていたわ」
そこで、涼子は言葉を濁らせた。
「何か気になることが?」
「ううん。ちょっと、自信が持てないの。愛香ちゃんのような感じもするし、そうじゃないような気もするの」
「何が?」
「階段に残っていた意識よ」
まあ、いずれにしろ、ここにあの女の子がいるとすれば、そいつはもう生きていないということになるだろう。事件が起きたのは二ヶ月も前なのだ。いつの時点でここに来たのか、それはわからないが、こんな真っ暗な廃虚にいるのだとしたら生きていると考えるほうが間違っている。出来れば、ここにいないというほうが希望が持てる。
「階段に戻ろう」
オレはちらっと廊下の奥を見遣ったが、市倉の姿は見えなかった。
「どうだ?その変な男はいるのか?」
「男なんて言ってないわよ」
涼子は、そう言って階段を上り始めた。
「市倉さんは待たなくてもいい?」
「いいよ。やつはスポット探索でもさせておけばいい」
「そうね」
階段を一段上がると、気温も一度下がるような気がした。吐く息が白い。
「寒いな」
足元が冷たくてじっとしていられなかった。