モルゲンュテルンの策動
勝手に自分の邸宅に上がり、あまつさえ断わりもなく部屋に踏み込んできた招かざる客に対してまったく感情的な反応を見せない。座り心地の良さそうなアームチェアに深々と沈めた腰を浮かせることも、膝の上の読みかけの本を閉じることも、その本から視線をあげることさえしない。
「次期皇帝ともあろう者が礼儀というものを知らないのか?」
ようやく見せた反応がこの一言。おそらく門前に馬車で着けた段で気がつき、現在の情勢から来客の正体を推察していた故の落ち着いた対応なのだろうが、それでも冷静に皮肉な口上で出迎えるあたりいかにも冷血人間と揶揄されるリスティッヒらしい。
「これは失礼」
そんな思いで苦笑をこぼしつつ、非礼を詫び、
「しかし、苦情を言うならばせめて執事の一人も雇ってからにしてほしいものだな。家人の一人もいないのでは取り次ぎを頼むこともできん」
「雇っているとも。しかし、他人がいると落ち着いて眠れん質でしてね。任地ではしかたないと諦めているが、自宅ではくらいはゆっくりと眠りたいので特に客人が来る予定がないときは夕食の片づけが済んだら帰らせている」
確かに執事、侍女と言っても他人は他人。その他人に財産ばかりか自分や家族の命に手が届きうる自分の家の中を闊歩させるのだから位置に信用できる人間を雇うのも一手間。まして、元帥まで登り詰めるまでに多くの敵を作ってきたリスティッヒのこと、復讐を企む輩、政敵の回し者、他国の間者、いくらでも疑えるが、
(この男の人間不信と人望の無さは相当なものだな)
そんな呆れ、驚き、嘲り、感心の入り交ざった複雑な感情を抱きながらも、一切の感情を仮面の下に隠して会話を続ける。
「ほう。しかし、この広い屋敷に毎晩貴公一人とは不用心なことだな」
「次期皇帝陛下に心配していただけるとは光栄……」
あいかわらず膝の上の本から視線を上げず、かけらも光栄に感じている印象の無い色あせた声で字づらだけうやうやしく、その裏に皮肉を込めて返してきた。
「……しかし、心配はご無用。ご自身で体験されたことでしょうが、我が家には忠実な番犬が多数おりますので」
「たしかに……」
つい先ほど潜り抜けたばかりの小さな冒険を思い出して笑い、納得した上で、
「しかし、現にこうして私は無傷で貴公に会うことが叶ったが?」
「重ね重ね気にかけてくださるのはありがたいが、夜の闇の中をあの番犬たちを相手に無事で済む者などヴォルフとあの女……ゲファーレンとか言ったかな? くらいのものだろう。普通の兵士ならば一個小隊を用いても難しいだろう」
馬車では錠の下ろされた門を通ることができなかった。仕方なしに泥棒や間諜の真似事をして柵を超え敷地に入ったのだが、そこで牧羊犬と猟犬をかけあわせた帝国軍軍用犬の群の歓迎を受けた。昼日中でさえ訓練を受けた軍用犬は練度の高い兵士一人と同等か、それ以上の戦力。まして、闇夜の中では軍用犬は恐ろしい生きた兵器となる。
「さて。余談はこの辺にして、次期皇帝ともあろう方がこのような夜半に、こそ泥の真似事までして、訪ねて来た理由をそろそろ伺いたいものだな」
「何、主君として有能な臣下に頼みたいことがあってな」
「有能…………か」
今夜、リスティッヒの顔に顕われた感情による表情変化は自嘲による笑みだった。
「ならばツァールトリヒトにあたることをお勧めする」
リスティッヒの声に諦念と疲労の響きを感じたのは月明かりのみの暗い室内が、ただでさえ血色の悪い顔に深い影を落としているからだけではないだろう。
帝位継承戦が決着を見てからのおよそ二か月。留守中残しておいた部下からの報告を受け、帰国後に経過を見ているがリスティッヒを取り巻く状況は悪化の一途を辿っている。
ヤツを次期皇帝の最有力候補と見てすり寄っていた連中は可能性の潰えた途端、蜘蛛の子を散らしたようにヤツから離れた。そうした連中の中には次期皇帝である私や帝位継承争いで見事な政争、情報戦を演じて私を支援したツァールトリヒトなど今後の有力者にリスティッヒの過去の工作や取引などの情報を手土産にすり寄ってきている。
リスティッヒ自身も糸が切れたように軍事法廷での問責に対する抗弁を止めた。被告の抗弁が無くなり瞬く間に裁定は下りた。その裁定にも『降格だけでなく手緩い!』と退役を求める声が上がったが、『過去の功績を鑑みてそこまで追及する必要はないでしょう!』という弁護によって南東方面軍司令官更迭と降格の上での謹慎処分に留まった。
「他人を推挙するなど貴公らしくもないな」
「私はリアリストでね。ヤツに政争で敗れ、君に帝位争いで敗れたからこうしている以上、有能な者として彼を推しただけのこと」
「ほう? 政争で苦杯をなめさせられたばかりか、法廷で憐れみを施されて弁護されるなどという屈辱を味わわされて黙って引き下がるというのか?」
「挑発のつもりなら止めておけ」
「純粋な疑問だ」
リスティッヒは、フゥ、と一息煩わしいそうなため息を溢してから、
「意地だの誇りだのくだらぬ感情で奮起したりはしないというだけの話だ」
「なるほど、冷血人間の評判通り冷めた男というわけか」
「左様。わかったらお引き取り願いたい」
「意外とせっかちな男だな。それとも存外癇に障っているのかな?」
今度は挑発を意として問うがリスティッヒの表情にも、行動にも変化らしい変化は見られない。ただ、膝の上の本のページを捲っただけだった。
「まあいい。私は貴公を見込んで頼みに来たのだ。話くらい聞いてもらいたいな」
「私を見込んで?」
ようやく――ここまで問答を繰り返してようやくリスティッヒが視線を上げた。もちろん、向けられた目に『見込んだ』という言い回しを喜んでいるような輝きはない。疑念に満ちた猜疑の視線が怜悧に輝いている。
「ああ、この任を任せるのは貴公が最適だと判断した」
一口に有能と言ってもその意味は無数にある。剣技に秀でる者。政略に通じる者。戦術に長ける者。特別な技術を有する者。
普通ならば元帥にまで登りつめるその過程で信頼できる部下できてしかるべきである。それなのに、ただの一人として信頼できる部下を持たないこの男は人望の点においては皆無であり、その独断専行の結果が先の大失態である以上一軍の将として無能の烙印を押すことに疑問を差し挟む余地はない。
しかし、見方を変えれば部下の支えなしに元帥の地位まで登ってきたことは純粋なる個人の才覚裁量のみで登ってきたとも解釈できる。階級の上下に従順に従う凡百の軍人だけを用いたのではそうはいかない。弱味を握って従えた者や利害の一致で相互に利用した者など決して味方といえない存在を巧みに組み合わせて動かし、裏切られる前に切り捨て、袂を別つべき瞬間を見誤ることなく事前策を講じていなければどこかで潰されているはず。
「よかろう。話を伺おう」
そう答えるとリスティッヒは膝の上の本を閉じ、向かいの席を勧めてきた。勧められるままに腰を下ろしてリスティッヒと向かい合う。
(彫刻のような男だな)
改めてリスティッヒと対峙してそう思った。月明かりに照らされる血の気の無い顔は土気色というより大理石のようで、その顔色と色合いの似ているグレーの瞳もガラス細工のようで一層無機的な印象を強めている。
「話をする上でまず確認しておきたいのだが、貴公はルディアの東方――大陸中央の情勢についてどの程度のことを知っている?」
「無論。先頃まで敵として対峙していたルディアを取り巻く情勢を知らんはずがなかろう。ヴィドガルドが三年前アクティースに宣戦布告。ヴィドガルドの戦士、アクティースの聖騎士隊ともに少数ながら精鋭揃いで決着はつかず長期戦に突入。それを好機と見てアクティースと因縁浅からぬエプーシャ、貿易摩擦でトラブルが絶えなかったラムルスタンが相次いで宣戦布告。三ヵ国と同時に戦争状態に陥ったアクティースはルディアに援軍を要請し、以降各戦線はほとんどルディアが戦っている状況にある」
「その通り。そして、付け加えておくと我が国でもアクティースへの不満の声が高まっているようにルディアでもアクティースの戦に駆り出されることに反発が起こっている。王太子アレクサンドルも諸国の客人を前に対立的な態度をとるほどにな」
「ほう。しかし、ルディアとは講和を結び、王女を皇妃に迎えることで同盟関係になった。今更ルディアの背後を突かせようというわけでもないのだろう?」
疑問形の口調と無機的な瞳は何もわからず問うているのではない。こちらが何を意図し、この会話がいかなる流れになるか幾通りかの予測をしながらの問いかけ。
(さすがにエールリヒのような愚か者とは違うな)
舌先三寸で操り人形にできるような男ではない。ヘタに情報を秘匿したり、嘘偽りで誤魔化したりすれば見抜かれる恐れがある。さりとて、手の内をすべて明かせるような男でもない。その事実を再確認して気を引き締める。
「もちろん。しかし、この情報がルディアの背後を脅かすという意味以外でも重要な意味を持つことを理解できん貴公ではあるまい」
「ふむ……」
顎に手を当て考える素振りをする――いや、この男が意味もなく考えるフリをするとは思えない。こちらの言葉の裏の裏まで読み切るために熟考していると考えるべきだ。
「……君の思考に追いつけているかはわからないが……重要な意味があることは私にもわかる。しかし、私が推察する限り、現状ではチェックメイトまで運ぶためには駒が足りない」
アクティースを取り巻く情勢がどうなっていようとルディア王国を間に挟むブルトルマン帝国には直接的には影響がない。直接の影響がないということは逆に帝国側からも直接の影響を及ぼせないということでもある。そこに干渉するためには第三者――リスティッヒの言葉を借りれば『駒』――が必要になる。
「もっとも、君がわざわざ深夜に訪ねて来るのだから駒の用意はできているのだろうがな」
リスティッヒは言外に、出し惜しみせずにさっさと手の内を見せろ、と迫っている。
「もちろんだ」
懐から一通の封書を取り出してリスティッヒに渡す。
封書を受け取り裏返してその封蝋を確認した途端、リスティッヒの細い目がわずかに見開かれた。続いて中から取り出した便箋に目を走らせると、目が左右に動き一文を読む度にさらに細い目が開かれみるみる丸くなっていく。
「それだけではないぞ」
常日頃から感情と程遠い冷血人間の驚愕をたっぷり堪能しつつ、追加情報で畳みかける。
「先のルディア訪問の際、ラムルスタン、エプーシャとも類似の密約を交わしておいた。私が帝位を継ぎ次第すぐに使節を送り、帝国として陰ながら正式に結ぶ手はずになっている」
「手間暇かけて回りくどいことだな。ルディアを征服すればそのような……」
「絵空事だ」
長年担当してきた戦線に対する未練があるのだろうリスティッヒがめずらしく口にした繰り言を一言の下に斬って捨てる。
「陛下が聖伐を目指し版図拡大を図って十年――当初からルディア攻略の計画は幾度もなされ、そのことごとくが失敗してきたではないか」
「………………………………………………」
再びリスティッヒの顔から感情が消え去り、いつもにも増して無機的になった。
「……十年前のスタリア侵攻」
窓から射し込む月明かりが角度を変えるほど長い沈黙を経てリスティッヒが掠れるような声で、しかし、はっきりと呟いた。
「あのとき……まだ版図拡大も始まったばかりでルディアもスタリアも共に油断していたあのとき、難航が予想されたルディアの攻略のための切り札として第一王子と第二王女を捕らえるはずだった」
「未練だな。現実に失敗したから十年にも渡って睨み合う長期戦になったのではないか」
「あのとき、手はずは完璧だった。兵の配置、街道封鎖、それを感づかれないために毎年行われている演習を名目にしたカモフラージュ」
「数万の兵を動かすのだ。最善を尽くしても完璧などありはしない」
「否定はしない。しかし、身内に私に確固たる手柄を立てられては困る者がいて、その者が情報を流したために大魚を逃がした、とも考えられる。君もあの作戦に当時准将として一個旅団を率いて関わっていたな?」
元々勘ぐってはいたのかもしれない。しかし、今まで追及することはおろか探りをいれてきたことさえなかった以上複数いる疑惑の対象の一人に過ぎなかったはず。それをこの場で口にしたのは長年の計画の一端を見せた所為か、あるいは帝位継承争いに負けた相手に対する単なる恨み言か。
「貴公は私を疑っているのか?」
「私が他人を信じたことがあると思うのか?」
「……フッ……フフフハハハハハハッハッハッ」
リスティッヒが変わらぬ無表情で、自虐も、自嘲も一切なく、さも当然のように口にした斬り返しに虚を突かれ思わず笑ってしまった。
「いや、これは失礼した」
「何、かまわないが何がそんなに面白かったのか尋ねてもいいかな?」
「それを尋ねる時点で答えを聞いても理解できるとは思えないな」
「なるほど……そうかもしれないな」
リスティッヒがわずかに口角を上げて薄い冷笑を浮かべた。
「さて、話を戻させてもらうが、ここまで整えたアクティース包囲網だが、まだ完全とは言い難い」
「ヴィドガルド……それにルディアもか」
「ああ、貴公に頼みたいのはその件だ」
「どういうことだ?」
リスティッヒが疑問に眉をひそめる。それも無理はない。
先頃まで敵として対峙していたルディアだけならともかく、知る限りにおいてリスティッヒにはヴィドガルドとも、光の民ともつながりがない。いや、そもそも地理的にも文化的にも隔たれたあの国と繋がりをもつ者など帝国内にはいないだろう。
「貴公はヴィドガルドがアクティース相手に戦を続ける理由をどう見る?」
「元々エルフは即物的な欲求とは縁遠い連中だ。今回の戦の理由もヤツらの名誉や矜持に理由があると見るべきだろう」
彫刻然とした無機的な表情で推考しながら慎重な口調で答えた。
「私も同じ考えだ」
「連中は目的を達した後はすぐ退く。だから密約など結ぶ必要はない、と?」
「そこまでは言わん。念には念を入れるべきだからな」
「だが、ヴィドガルドとは密約は結んでいないのだろう?」
「ああ。貴公自身が言った通り連中は即物的な欲求とは縁遠い。利害が一致したとしてもそれだけで首を縦には振らん可能性が高い。だから、ヴィドガルドの女王に『我々がルディアの足を止めましょうか?』と囁くだけに留めた」
「なるほど、先に利を供して退路を断つ算段か」
「退路を断つとは人聞きが悪いな。先に誠意を見せるだけのことだ。それに誠意で返すも、それ以外で返すも連中の自由だ」
とは言ったものの先に誠意を見せておけばエルフがこちらにとって障害になる恐れはほぼなくなる。エルフは特別義理堅い質というわけではない。しかし、先にも言ったように戦いのはおそらく精神的なもの。目的を果たせば後のことはどうでもいい連中が先に示された誠意を踏みにじってまで邪魔をすることはまずありえない。
「物は言いようだな。で、私の役回りはルディアへ赴いての足止め、かな?」
「理解が早くて助かる」
この役目にツァールトリヒトではなくリスティッヒを選んだ理由は三つ。一つ、ツァールトリヒトの性格、思考がおそらくこの任務に向かないということ。二つ目は現役元帥に長期間帝国を空けるこの役目を回すは難しいということ。そして何より三つ目、性格、思考、そしてこれまでの経緯を鑑みてリスティッヒが最適だということ。
それで私の肩書はどういうものになるのかな?」
「ルディア王国ブルトルマン帝国両国の友好の証として技術文化情報の交流視察のための使節団の団長だ。元帥から降格された哀れな中将が左遷されて回される役目としては悪くはないだろう?」
友好の証として送られる使節団の団長。それは任務の性質を考えれば皮肉以外の何ものでもない。リスティッヒでさえあまりの皮肉さに声を出して笑った。
「では、答えを聞こうか?」
「引き受けよう」




