ヴィクトールの査問
『こっちにいらっしゃい、ヴィック』
懐かしい声が懐かしい呼び名でオレを呼ぶ。声の主に駆け寄ろうとして伸ばした手は不自然に小さく丸みを帯びている。周囲の景色も淡く滲んで水彩画を濡らしたようにぼんやりとぼやけて、それでいて妙な既視感があり、不思議と穏やかな気持ちになる。
突然、視界が緑色一色に切り替わった。
『おっと!』
芝生が鼻先三十センチに迫ったところで転びかけたオレを逞しい腕が抱き留めた。
『そそっかしいなぁヴィックは』
オレを呼んだのとは別の朗らかな笑い声。抱き留めてくれた男は笑いながらそのまま片手でオレを担いで歩き出す。
『降ろせ! 降ろせったら!!』
荷物のように男の肩に担がれているのが恥ずかしく、わめき散らして無茶苦茶に手足を振り回す。しかし、間違いなく恥ずかしいのになぜか不思議と心地良くもあった。降ろせという言葉は本気だが、同時に嘘でもあった。
『わかった、わかった。ホラ!』
声と共に男がオレを放りなげた。雲一つない夏の青空に吸い込まれるような錯覚を覚えたのもつかの間、すぐに大地の力がオレを引き戻しにかかる。グルリと回転する視界は空の青、緑の芝と切り替わり、そして、青とも緑とも表現し難い碧の水一色に染まった。
『ヴィック!!』
最初にオレを呼んだ声が驚きのあまり裏返って叫ぶその声を、パニックを通り越して冷静な耳で他人事のように聞きながら水に落ちた。
『ヴィック! ヴィック!!』
落下した衝撃で跳ねあがった水とオレと一緒に落ちた空気が巻き込まれた気泡の立てる騒音の中不自然にはっきりと彼女の声が聞こえる。高く放り上げられた所為で川底に額をぶつけてしまったが、ほとんど痛みはない。落下の勢いが消えると今度は浮力が身体を水面へと浮き上がらせる。
『ぶぃっく!』
スカートのままオレが落ちた川の中ほどまで水を掻き分けて駆け寄ってきた。傘のようなスカートは岸辺では裾が水に濡れないのに一役買っていたが腰まで水位がある中ほどでは足枷どころではない。それでも誰よりも早く駆け寄ってきてオレを抱き上げた。
『だぁいびょぅぶ?』
かけられた心配そうな声は耳に水が入ったらしくたわみ反響している。頭を傾けて叩き耳から水を出す。その動作の所為で張り付いた前髪がズレて川底にぶつけた額が露出した。
『ケガしてるじゃない!』
『こちらへ』
ヒステリックな声をあげ岸辺にいる従者を呼ぼうと振り返る――その一連の動きがまるで意図したものだったかのようにオレの身体が細い腕から取り上げられた。
『手当して参ります』
静謐な声でそう告げるとその近衛騎士は、ちょっとぶつけただよ、というオレの抗議には耳を貸さず岸まで向かい、待ち構えていた侍女からタオル受け取って風呂上りの子どもを拭く母親のようにオレを拭き始めた。
『いいって! 大丈夫だって言ってるだろ!!』
少し離れたところから聞こえて来る『どういうつもりッ! ヴィクトールがケガしっちゃったじゃない!!』という怒りの声の主に心配をかけたくなかった。オレを放り投げた男に気まずい思いをさせたくなかったのもある。しかし、何より擦りむいた程度のケガとも言えないケガで大げさに騒ぎ立てる周囲が煩わしかった。近衛らしい力強さの中にも女ならではの優しさで拭いてくれる手を払って駆けだす。
『ヴィクトール様』
背後から呼び止める近衛の声。
「『ヴィクトール様』」
二度目の声がブレたように二重に聞こえる。
「ヴィクトール様」
三度呼ばれたその声が背後ではなく正面から呼びかけていることに気がつくと同時に泡沫のように心地良さが掻き消え、代わりに鬱陶しいほどの熱気が戻ってきた。
「…………………………どのくらい寝ていた?」
「三十分ほどかと」
答える声は夢と――あのときと変わらない自制のとれた静かなもの。
「そうか……」
やりかけで机の上に散乱している書類を取ろうと机に向き直ると整理された机の真ん中にはグラスが鎮座している。薄っすらと黄色味を帯びた透明な液体、立ち昇る気泡はエールではなく度数の低いシドール。グラスの表面についた結露はまだ小さく均等で一雫として流れ落ちていない。
「温くなる前にどうぞ」
「お前の特製シードルか……懐かしいな。昔、姉上と一緒によく飲んだ。覚えているか? マーガレットが飲みすぎて……」
そこまで言いかけて口をつぐむ。懐かしい夢を見た直後に懐かしいものを出されたからとはいえ思い出話を自分から振るなどらしくない。話しかけられた方も方で落ち着いている風を装いながら目を丸くしている。
「どうされたのですか? 突然……」
「……いや…………夢を……昔川に遊びに行ったときの夢を見て……起き抜けにこんなものを出されたからつい……」
気まずさを誤魔化すようにシードルを一息に飲み干し、仕事に取り掛かる。……が、すぐに手が止まる。そうだ。この難題に頭を悩ませている内にうたた寝してしまったのだ。
書類の中身は第三旅団再編成に関する計画書。第三旅団長には現在クレプスケール北塔の守備を任せている第一旅団の副団長を推薦している。その編成にあたって彼が送ってきたこの計画書は現在指揮下にある第一旅団の騎馬歩兵混成連隊を核としての編成計画の要綱。
単純に国境の守備力を考えるならこの案は至極当然なもの。何しろ彼は何年も北塔を中心とした北部で任務に当たってきた。連隊の兵士たちも当該地域の出身者が多数を占める。再編成による移動の手間を最小限に抑え、かつ風土に慣れた指揮官、兵を配置することで守備力の維持も期待できる。
しかし、一方で第一旅団そのものも再編しなくてはならなくなるというデメリットもある。しかも、副団長を手放した上で連隊の中の中、小隊長クラスの将校も引き抜かれては第一旅団の戦力低下が著しい。
(フゥ……どうしたものか)
士官学校を卒業してからの五年――正確には卒業前から西方軍の中でオーリュトモスに睨まれたり、貴族派と対立したりして残杯冷炙の扱いを受けていた将校の中で有能な者や誠実な者を味方につけた勢力を築いてきた。しかし、所詮正攻法ではオーリュトモス一派を除くことはおろかその愚行を止めることさえができなかった程度の勢力でしかない。その小規模な勢力もブルトルマン遠征でドレイファスをはじめ大勢を失ってしまった。止めに先のイースウェア侵攻で南塔の守備を任せていた連隊は壊滅。腹心といって差し支えなかった連隊長以下の将校たちも戦死が確認された。
(ただでさえ南を潰されて片手がもがれたようなもんだってのに……この上、北の連隊を放出したりしたら両手を失うようなもんだ……)
もちろん、ローズとは違い五年の間に傘下で次期大隊長を担える人材の育成、発掘もしているから致命的とまではいかないが、それでも質の低下は否めない。
「なあ、軍に戻る気はないか?」
空になったグラスを下げようとしていたメイドに問いかける。
「ヴィクトール様の近衛としてですか?」
七年前、まとわりつく近衛騎士たちを追い払った際、ただ一人騎士を辞めて、ただの侍女になってまでオレの側に残ることを選んだ女。近衛騎士として見せかけの誇りではなく、徹頭徹尾側に仕えるという実を選んで忠誠を尽くしてくれる者。その忠誠心は疑う余地はなく、実力も申し分ない。
「いや、オレの麾下の大隊長としてだ」
「でしたらお断わりします」
きっぱりとした解答に、恨んでいるのか? という疑問が込み上げてくる。近衛騎士としての特権はもちろん、磨いた剣も、栄誉も捨てさせ、軍事、政治に関することには一切を差し挟まないことを側に残る条件にしたオレを恨んでいるのではないか、と。
「私はヴィクトール様に忠誠を誓っています」
オレの疑念を読んだように言い添える。
「……ですが、同時に同等の忠誠をブルーエットに誓っているのです」
「忠誠…………か」
本人は嘘を吐いたつもりはないだろうが、忠誠という表現は適切ではない。友情と言うべきだろう。二人はマーガレットとスカーレットのような――いや、二人よりももっと砕けた仲だったように思う。もっとも、それはスカーレットが姉の影響で格式ばったところがあった所為かも知れないが。ともかく、そのことを知っているオレの前で『様』をつける必要がないと知っているからつけなかったのだ。
「お疑いですか?」
「いや。だいたいウソを吐くような信用ならないヤツだと思っているなら復帰させてまで大隊長にしようしたりするはずないだろ」
「また、お試しになっているのかと。ビュファール大佐と指揮下の連隊が独立なさるからといって人手が不足するほどヴィクトール様のお味方が少ないとは思えませんから」
「買いかぶりすぎだ」
ちょうどそのとき誰かが扉をノックした。
「誰か?」
「ラズワルドです」
「入れ」
ローズに入室を許可し、同時にメイドに手振りで退室を命じる。他の近衛騎士たちが全員去った中、どれだけ冷遇しようと側にいることの選んだ女だ。一言二言のやりとりで説得できるはずがない。
「各部署部隊からの司令の裁決が必要な書類を預かってきたぞ」
「将軍ともあろうものが伝令兵のような雑事とは……初夏のころとは違って随分余裕ができてきたじゃないか」
ローズから書類の束を受け取り、目を通しながら軽口を叩く。
「おかげさまでな。人員が整って来てようやくまともな生活が送れている」
「それは羨ましい。こっちはビュファールの後任人事に頭を痛めている真っ最中だ」
「無理をしてまで第三旅団の席を抑える必要があったのか?」
卓上に放り出したままの書類を一瞥してローズが問う。
「必要の有無で言えば無いな。オレも連隊を潰されて手駒が不足しているところ。お前も似たようなもんで人材のとりあい状態だ。この上無理に風呂敷を広げても風呂敷が破れるだけだろうな」
「だったらなぜし……ビュファール大佐を推した?」
ローズの声音が単なる軽口の質問から厳しい詰問へと変わる。
イースウェア侵攻の報の情報源を伝えなかったときからローズの信用をかなり失ってしまった。戦いが収束して一応は許してくれたものの、以前ならこうしてオレが手の内を明かさずに打つ手にも真意を問うことなく、あるいははぐらかされたまま従ってくれたが、今はもうそうしてはくれない。
(自業自得か)
ローズは王子というだけでかしずき、忠誠を誓ってくれる近衛騎士ではない。盲目的信頼を裏切ってしまったオレが、それでも信じてくれ、などというのはおこがましい。
(しかし、どうしたものかな?)
多少の無理を承知でビュファールを推した意味はある。念のため、程度の意味ではあるが。しかし、それを今ここでローズに伝えていいものかどうか。
「さあな、自分で考えてみるんだな。そんなことより復興作業はどうなっている?」
熟考してからあえて嘲るように言い捨ててから強引に話題の転換を図る。そのあからさまに挑発的な言いぐさとどうどうの無視に一瞬だけローズの眉が――怒りではなく怪訝に――吊りあがった。
「報告書に詳細が書いてあるが、サングリエ将軍たちが戻られてからは順調に進んでいる」
が、ローズは食い下がることも、別の疑問を口にすることもなく素直に話題転換に応じた。
「もっともブルダリアス長官がもっと協力的なら速やかに復興に着手できたはずだがな」
軍令長官ブルダリアスはクレプスケールから五日ほどの距離にあるこのヴィヴェランの街にサングリエら留守を預けた諸将を招集した。目的は今回のイースウェア侵攻を許した責任の所在を明らかにすること。その所為で、サングリエを筆頭に重要な役職についている何人かが権限を凍結された。市民を飢えさせないための食糧や医薬品の輸送割譲といった最低限の活動はできたが、街の復興資材の確保などが遅れ本格的な復興作業の着手まで一か月弱を要することになってしまったのだ。
「まあ、サングリエについては司令官代行を任せていたからな。ブルダリアスとしても役目上、何もせず、というわけにはいかないさ。査問と短期間の権限凍結で済んだのはむしろ短いくらいだ」
「で、お前の査問はいつ終わる見込みなんだ?」
サングリエたちを早期に放免するためにあえて司令官に全責任がある、としてあえて身代わりを買って出た。そのせいで、今でもこうしてヴィヴェランの街に留め置かれている。
「さてなぁ結末はわかっているがいつ終わるかはブルダリアスの腕次第だな」
「そうか。では健闘を祈って待つとしよう」




