第十七章 自切
「チィッ…………」
遅いッ! と叫びたい衝動がローズを襲う。身体が思うように動かないときの苛立ちを数百倍にしたような激しい苛立ちだ。その理由は指揮通りに動かない――否、動けない自軍。
大軍同士の激突というと固有名称のある陣を敷いて戦うようなイメージがあるかもしれないが、陣形というものは開戦前後しか用をなさない。戦いというのは流動的で、戦場の状況というのは刻一刻と変化している。だから、定形の陣形を保って戦うことに意味はないし、現実的には不可能に近い。
故に、将には戦場の情勢を常に把握する視野とそこからどのように軍を動かすか、という戦術的思考力が求められる。しかし、例え将が将たるに相応しい能力を持っていたとしてもそれだけでは意味がない。将を頭とするなら、頭から手足の先へ命令を伝達する神経がいる。軍においては将の指揮を理解し、直下の兵たちに号令を飛ばす各部隊の隊長がそれにあたる。さらに、神経だけでも意味はない。身体を思い通りに動かすには鍛錬を重ねて筋肉を鍛え、関節を柔らかくすることが必要になるように、兵卒たちが号令に従いスムーズに動けるように訓練を重ねる必要がある。
しかし、現状のローズ指揮下の第二旅団+αには神経と鍛錬が欠けていた。部隊長は無能な者や反抗的な者が多く飛ばした指示がすぐに兵卒に伝わらない。仮に伝わったとしても訓練不足の旅団はローズの指示を即座に反映できないでいた。
(なぜこの程度のことができないッ)
ローズの立てた作戦は簡単にいえばただ突撃し、突破するだけの単純なもの。しかし、その単純な攻撃運動でさえ、足の速い騎馬隊と遅い歩兵の足並みが合わない。敵を掻き乱し、そのまま別動隊の側面を突くはずが、途中で分断され歩兵隊が混戦状態に陥ってしまった。
(どうする!?)
先行する騎馬隊だけでも予定通りに進まなければ全滅する。アルコンティアとウンディーネの騎士たちの戦力も考えれば騎馬隊だけでも及第点の戦果は挙げられるだろう。しかし、その決断は歩兵隊を見捨てること同義だ。
その光景をヴェニティーは混戦の様子を一望できる高台から眺めていた。
「アンタの作戦上手くいったみたいだな」
声をかけてきたのはヴェニティーが籠絡した例の部隊長。眼下の混戦を眺める彼女と対等に騎馬を並べている。気分はすでに自分が大将と言ったふうだ。
「当然よ。むしろ、三倍の兵力で負ける方が難しいわ」
口では強気にそう返したヴェニティーだったが、本心からの言葉ではなかった。
四日前、それまで一方的に蹴散らしていたルディア軍は体勢を整えるや否や、南下してユルレモントとクレプスケール南塔の中間地点と言える山すその高台に陣を敷いた。ここを抑えられるとユルレモントとクレプスケール南塔の連絡が断たれるヴェニティーたちイースウェア軍にとっては生命線ともいえる重要な地点。
しかし、それを承知でヴェニティーはあえてこの地点を空けていた。もちろん、ルディア軍を――ヴェニティー個人としてはローズを――おびき出すためである。南塔を攻め落とした際、ルディア西方軍の現状の総力が五千程度であることが捕虜への拷問でわかった時点でヴェニティーはこの作戦に思い至った。
数で劣るルディア軍にとってイースウェア軍本隊が到着するまでに南塔を再奪取することは国防のための最低条件。つまり、残存戦力のほとんどを費やしてでも南塔攻略に動かなくてはならない。
しかし、ルディア軍には南塔を確実に攻略できるだけの戦力がない。そのまま手堅い陣形を敷いていれば、ルディア軍は援軍を、イースウェア軍は本隊の到着に賭ける睨み合いになってしまい、ローズを討ち取るという願いは叶わない。
そこで、あえて南塔に三千、ユルレモントに五千の配分で兵を配し、中間の要所を空けておいた。ここしかない勝負所を作ったのだ。ここに陣を敷けば、ルディア軍は挟み撃ちになる危険を払う代わりに、ユルレモント占領部隊の退路を断つことができる。しかも、これが罠である可能性が濃厚である以上、南塔の部隊も挟撃のために打って出る可能性もある。その瞬間に南塔から出た部隊を短時間で突破すれば、がら空きの南塔を攻めることが可能になる。
臆病者、凡将ならそんな危険な賭けは冒さず、援軍の到着を待って堅実な反撃を選ぶだろう。しかし、ローズなら踏み込んでくることをヴェニティーは確信していた。かつてジョストや剣術の教練で手合せしたとき、普通ならば退くような局面でも平然と踏み込んできたローズならば確実に来る、と。
「へえ、そうかい?」
部隊長が面白半分、疑念半分に笑い含みの口調で問う。
「結構ギリだったように見えたけどな」
「そう見えて?」
ここで弱味を見せるわけにはいかない。この男は隙を見せたらすぐに調子に乗るに違いない。そうなれば今後に支障が出る。形式的な手柄は譲ってやる。実質的に隊を束ねるのもこの男でいい。しかし、裏での主導権はあくまで自分が握っていなければ。
「ああ、敵さんの足並みがもう少し良ければやられてたと思うぜ」
色仕掛けなどに引っかかるような浅薄な男だと思っていたが、存外用兵の腕はあるのかもしれない、とヴェニティーは部隊長の評価を少し上げた。
部隊長の言う通り、現実は余裕とは言い難いきわどい勝負だった。
予想通りの地点にルディア軍が陣取った時点でヴェニティーは勝ちを確信していた。ルディア軍が陣取った高台は街道を一望でき、ユルレモント、南塔どちらからの攻撃に対しても有利な地形を維持できる。しかし、南東の一角からは近づく敵は補足しづらく、三方から責められた場合、一転逃げ場を失う危険を孕んでいた。
もっとも、その事実は地図を見ただけでは容易にはわからない。この地域に余程詳しい者がいなければルディア軍も気づけないだろう。まして、ユルレモントを占拠したイースウェア軍に地理に精通したヴェニティーがいることを想定していない以上その弱点をついて反撃してくるなどとは予想だにしない。
と、ヴェニティーは考え、自軍を二手に分け、南塔の部隊と合わせて三方から殲滅するつもりだった。
しかし、ローズはその危険さえも踏まえて作戦を立てていた。弱点の南東から迫る一隊に襲撃されるより前に一気に駆け下り、北から迫る部隊に攻撃を仕掛けてきた。
「多少の地形の優劣を加味しても、数の上ではほぼ五分の一軍を一気に突破しそうな勢いだったからな。オレは焦ったぜ」
「フンッ、所詮机上の空論よ」
ローズを賞賛するような部隊長の発言にヴェニティーが吐きすてる。
「たしかに短時間で北からの一隊を突破し、その足で南塔の部隊を蹴散らしてクレプスケールを奪取する。理屈ではそうでしょうけど、それだけの攻撃運動を統率できるはずがないわ。事実、伸び切った隊列を分断され、後部の連中は全滅必死じゃない」
事実、眼下ではユルレモントから直進させた部隊を突破し損ない取り残された歩兵隊が袋叩きにあっている。
「――――――――ッ!」
まどろこしさのあまりローズが歯噛みする。
十分な指揮能力のある部隊長がいれば、旅団が旅団として十全と機能していればできるはずの作戦だった。しかし、そもそも、練度の不足している第二旅団に“当たり前”を求めることが間違っていることをローズは失念していた。
およそ五か月前、三つ首の番犬要塞からの撤退戦のときもそうだった。ローズには普段から自分の尺度で推し量った高い水準を味方に求めてしまう悪癖があるが、刻々と変わる戦場での指揮ではそれが一層顕著になってしまう。
もっとも、それも当然なのだ。一人で何もかもできるわけではない。本来なら参謀が思考を助け、副官が事務を助け、部隊長が指揮を助けてはじめて部隊は部隊として機能する。あのとき、ミエルがローズを諌めたように。
しかし、今回それができる人材がいない。ヴァイオレットは不在、スカーレットは王都にあり、エバーはいるがさすがにまだローズと対等に渡り合うのは荷が勝ちすぎている。
しかも、今回はその悪癖に一層拍車をかけている要因がある。ローズ一人の肩にかかる責任の重さ。あのときも同僚であり、先輩でもあったジルが戦死したことで責任がローズの双肩にのしかかった。そして、今回は頼れる部下も同僚もいない上、頼れる上官であるはずのヴィクトールまでどこか信じ切れずにいた。その心理が知らず知らずローズの視野を前にだけ向け、自軍を振り返ることを忘れさせてしまった。
その結果が現状。
なまじ敵の罠を見破り、誘いに乗った上で勝てる算段を組めるだけの冷静さと不敵さがあったばかりに事態は悲惨になっている。
(どうする!?)
自問する中、吐き出さなかった苛立ちが焦燥とともに思考を焼き、一層冷静さを奪う。
選択肢は二つ。戻って歩兵を助けるか、進んで歩兵を見捨てるか。決断を遅らせれば、せっかく突破した騎馬隊までもが足を鈍らせてしまう。戻るにせよ、進むにせよ、数秒の内に決めなければならないが、
ギリッ
奥歯が砕けるほど強く噛み締める。そのことがすでにローズの中で答えが出ていることを示していた。
戻れば作戦は失敗。この戦いですでに命を落とした者の死は無駄になり、この戦いは名実ともに敗北。侵攻路を確保されたまま敵本隊が到着すればイースウェア軍の蹂躙でどれだけの民が、兵が命を落とすかわからない。しかも、戻ったとしても歩兵部隊を助けられるとは限らず、そればかりか全滅の憂いもある。
対して、このまま進撃し、南塔を奪取すれば痛手を被っても作戦は一応成功したことになる。兵の士気は保て、絶対防衛線を確保したことで民への被害も少なく済む。抜けない鏃のように国内に侵入した敵兵が残るが、退路を断ったことで、イーブンとまではいかずとも圧倒的劣勢を五分に近づけることができる。
選択の余地などない。
あとはその決断を下し、号令するだけ。
決意を固め、肺を空気で満たし一気に吐き出す。
「進めぇッ! 後ろを振り返るなぁッ!!」
ローズの号令に呼応して騎馬隊の駆ける足が一気に加速する。
およそ騎馬隊は千五百。対して、前方に待ち構える敵兵は二千五百から三千。倍近い数だが、“作戦通り”敵を突破した騎馬隊の士気は高い。加えてウンディーネの騎士たちの力も大きく、一騎当千とまではいかずとも一騎当数十くらいの力はある。
対して、包囲殲滅戦と聞かされていたイースウェア軍にとってこのルディア軍の攻撃事態が想定を上回る反撃である。まして、南塔の部隊はユルレモントから直行してきた部隊が突破された光景を目の当たりにしているため浮足立っている面も少なからずある。
「突破口を作るぞ、アル」
呼びかけに応じてアルコンティアが不機嫌そうに嘶く。四日前に言い争ってからというもの一言も口をきこうとしない。
それでも了解の意思だけは伝わってきたので手綱を握り直して突撃の体勢をとる。直後、圧倒的速力が巻き起こした風が軍奴を吹き飛ばし、敵を分断する。ローズが足を止めた隙を突いてくる敵を斬り捨てる間に分断した敵の傷口を追随する部隊がこじ開けて突き進む。
混乱する敵を突破する間にさらに百数十の兵が、わずかに南塔に残っていた敵の守備隊をとの戦闘に手間取っている間に挟撃ぎみの追撃で数百が命を落とし、南塔を掌握したときには千と少しが残るのみだった。
イースウェア軍侵攻から七日目。ローズが西方に戻ってから五日目。イースウェア軍侵攻に端を発するこの戦ではじめての本格的な戦闘は、南塔奪取成功という形式的にはルディア軍の勝利に終わった。
しかし、第二旅団の半数以上の兵を失ったローズにとっては喜べない結果であったことは言うまでもない。しかも、以前とは違い今回は間違いなく自分の失策によって殺してしまったのだ。尻尾を切って生き延びる蜥蜴のように半数の兵を見殺しにして“勝ち”を拾った戦いは実際には負けも同然だった。




