第十二章 四日目の真相
なぜ、イースウェア軍が南の山脈づたいに侵攻することができたのか? その問いの答えはおよそ四か月前まで時を遡る。
四か月と少し前、マーナガルム覚醒によってルディア軍の遠征部隊ほぼ壊滅した。しかし、全滅したわけではない。一部最前線にいた兵の中にはブルトルマン帝国に投降し、捕虜となった者もいる。そして、空を駆けることのできる乗騎を持つ者の中には総大将シヤン・オーリュトモス将軍のように落ち延びようとした者もいた。
彼女もその一人だった。
ヒッポグリフを駆り、部下とともに落ち延びようとする途上、ブルトルマン軍の追撃を受けた。次々と登校していく部下たち。しかし、ルディア貴族の誇りが、意地が、私に投降を拒ませ、単身逃避行を続ける道を選ばせた。
追撃してくるブルトルマン軍。マーナガルムの圧倒的脅威に怯え、指示に従わない乗騎。森を焼き払った炎が呼んだ雲。それらが帰るべき方向を見失わせた。
道しるべなき空の旅。ただでさえ、冷える季節に加えて上空の冷たい空気と雲の水滴、空腹がただでさえ減る一方の体力の減少に拍車をかけた。
せめて地上で休めれば少しは違ったかもしれない。しかし、マーナガルムをはじめとする妖狼魔犬の脅威を前に私自身も、ヴァンドゥラン(乗騎のヒッポグリフ)も着陸する勇気などなかった。
投降した部下たちを見限ってから数日後には乾きと空腹、それに寒さで手綱を握る手にはほとんど力が入らず、ヴァンドゥランの背に前のめりに倒れるようにして辛うじて乗っている状態だった。これが長年愛情を注いできたヴァンドゥラン以外ならちょっとした拍子に振り落とされて死んでいただろう。
私の身を案じたのか、あるいはヴァンドゥラン自身も翼が萎えていたのか、あの子がいない今となってはどちらか知る術はない。ともかく、私が指示することなくヴァンドゥランは自らの意思で降下した。
(どこへ……行く?)
擦り切れる寸前まで摩耗していた意識にそのときの記憶が辛うじて残っているのは柔らかく、暖かいヒッポグリフの背からまだ春先の冷たさ残る土の上に滑り落ちた(あるいは滑り降ろされた)変化に刺激されたためにすぎない。
(お前まで……)
遠ざかるヒッポグリフの騎影が飛んでいったのか、歩いていったのかも判然としない中で、お前まで私を見捨てるのか! と、悲しみと怒りを込めて呼びかけようとしたが、乾ききった唇からは掠れた吐息が零れただけで声にはならなかった。
次に意識が戻ったのは慌ただしい馬蹄の音と振動が大地を震わせたとき。少しして蹄の音が近づき、周囲を無数の気配が取り囲んだ。
(誰?)
誰何の声はもちろん、苦労して瞼を持ち上げ開いた視界も霞んで周囲にいる者の姿をはっきりとは映さなかった。ただ、かろうじて人らしいことはおぼろげな姿からもわかった。
(助……かっ……た)
安堵が最後の精神力を吸い取ったように意識が遠退く中で、自分を抱え上げる所作に慈悲や礼節など欠片もないことには気づけるはずもなかった。まるで狩った獲物を抱え上げるように無造作に両腕を掴み、放り込むように乱暴に荷馬車に寝かされた。
三度目に意識が戻ったのは人手ににぎわう雑踏のざわめき中だった。
(ああ…………助かったのね)
聴覚だけで人の中にいることを察すると、未だ重い瞼を開けてまで起きる気力はなかった。このまましばらくはまどろんでいたい、そう思いにわずかに身じろいだ。そのとき、はじめて今自分が横たわっているのが粗末なベッドどころか、布や板の上ですらない敷き詰められた石の床であることに気がつき、眠気も気だるさも安堵も一瞬で吹き飛んだ。
(どこ!?)
正規軍の牢の側にこれほどの人気があるわけがない。吹き飛んだ安堵の代わりに寒気と恐怖が背すじを這い登ってきた。
そして、無言の問いの答えは誰が答えるまでもなく、眼前に突き付けられていた。三方を石造りの壁に囲まれ、唯一空いている一面には格子が嵌まっている典型的な牢屋。ただ一つ普通の牢屋と違うのは普通の牢の格子が廊下などに面しているのに対してその牢の格子の向こうには人々でにぎわう通りが広がっているということ。
「なっ……!?」
格子の向こうからは通りを行く人々が好奇心と色欲をない交ぜにした視線で物色してくる。まるで見世物小屋の珍獣でも見るように。
向けられる視線を辿るように自分の身体に目を落とすとルディア軍の軍服ではなく、麻袋のようなゴワゴワとしたボロを着せられていた。
「なっ………なん…………」
そのとき、俯いたまま動かした喉に違和感を覚え、恐る恐る指を這わせて確かめると、首に冷たい金属が触れた。金属と言ってもネックレスのチェーンのような華奢な感触ではない。肉厚な金属の帯がグルリと首を取り巻いていた。首に嵌められたソレを視界に捉えることはできなかったが、ソレが何なのか恐怖の予想が脳裏に浮かぶ。
隷属の首輪。
父の庇護(過保護)のおかげで前線に立ってそれを嵌められている敵兵――軍奴と直接に剣を交えたことこそなかったが、士官学校時代の教本や捕らえた軍奴や討ち取った死体から回収した鹵獲品を見たことがあった。
「クククッ」
檻の中で驚愕に震える姿を眺めていた見物人が嘲笑った。
「助けてッ!」
無駄だとわかっていてもその言葉が自然と口を吐いた。
「ハァ? 奴隷が何言ってんだ?」
「まったくだ、ハハハ」
顔を見合わせ笑う見物人たち。
「私は奴隷なんかじゃない! ルディアの――」
貴族だ、と言いかけて口を噤んだ。おそらく――いえ、確実にここはイースウェア公国。長年の敵であるルディア王国に連なる、それも高貴な身の上などと知られたらどんな目に遭うか、想像するだけで恐ろしい。しかし、
「ルディアの将軍様だってかぁ?」
「なっ!?」
口にしようと思った言葉とは違ったが、それでもあきらかに素性を知られていることに驚愕を隠すことができなかった。
「なんでわかったかってぇ?」
見物人の男が愉しんでいるのを隠そうともせずに嘲りたっぷりに問う。
「お前の値札んとこに書いてあるからだよ」
そう言って男が指し示した檻の下の部分を見るために格子の隙間から顔を突き出し、下に下げられた札を覗き込むと、
『先頃生け捕ってきたルディア軍の将軍 値段:応相談』
言葉と共に証拠のつもりなのだろう、剥ぎ取った軍服と勲章が陳列されていた。
数日をその檻の中で過ごしてわかったのは、この店が高級奴隷を扱う店であるらしいこと。特に名家の令嬢のような本来奴隷になるはずのない者を捕らえて、奴隷にして売る専門の店らしい。しかし、さすがに『ルディア軍の将軍を生け捕った』などという話は胡散臭すぎたらしく、物色した客の多くが値段交渉で決裂して帰って行ったが、
「買おう」
言い値も聞かずに即決した男の容貌には覚えがあった。会ったことはもちろん、直接見たことさえない。しかし、その容貌は事あるごとに聞いていたし、男の身なりもそれが疑いないことを証明していた。
「ありがとうございます、ローチ閣下」
ローチに買われた私を待っていたのは奴隷商の檻の中での見世物よりもさらに屈辱的な生活だった。
どうやらローチは『ルディア軍の将軍』という触れ込みを信じたわけではなく、私の美しさを目当てに単なる夜伽の玩具として買ったらしく、尋問や拷問の類は一切なかった。ローチに買われた私はヤツの住まいでもある居館の一室に囲われた。
それからの生活は恥辱の一言に尽きる。一体あのだらしのない身体のどこにそれほどの精力があるのか、夜は欲求の捌け口として気を失っても使われる日々。人としての尊厳など意にされない生活の中、食事だけは質素ながらまともなものが提供されたがとても喉を通るはずもない。しかし、拒もうものなら給仕の奴隷が無理矢理にでもねじ込んで来るので無理にでも飲みこんだ。後は泥のように眠り、屈辱の夜を待つ。その繰り返しの生活。
そんな夜が何日も続き、もうどれだけ経ったかもわからなくなった頃。さすがに飽きてきたのか、ローチが部屋を訪れるのが一日おきになり、数日おきになった。
そして、一か月と少し前。
(逃げ出してやる! 絶対に!!)
休める――少なくとも何もされない時間が長くなったことでいくばくか気力が戻ってきた私の中で屈辱と羞恥が薪となり怒りの炎が燃え上がった。
(いえ、ただ逃げ出すだけではこの恥辱は拭えない! 軍を率いて戻り、ヤツを生け捕って同じ目に遭わせてやる!!)
すぐにでもあの男を殺してやりたい、と思ったほんのわずかな冷静さがそれを押し止めた。もし、殺意を実行に移してしまえば逃げ出すことは不可能になってしまうだろう。
ローチを人質に、とも考えたが、これも止めた。何しろ、首枷と対となる指輪も持つ主人が一言命じさえすれば――いえ、声を発するまでもなく、念じるだけで奴隷は一切抗うことはできなくなってしまうのだ。
スカラヴィア・デスモスの拘束力の下に他の奴隷たちは逃亡など考えもしないのだろうが、私と他の奴隷たちには一つ大きな違いがあった。
それは逃げる先があると言うこと。隷園で生産された奴隷たちはもちろん、イースウェア公国の国民から奴隷に堕ちた者も、奴隷制を公認している国の中で逃げるべき場所などない。当てのない逃亡ならばする気力も失せるだろう。しかし、私には逃げるべき当てがある。その希望が怒りと反抗心の炎を一層強く、高く燃え上がらせた。
まず、食事を運んできた奴隷を気絶させ、衣服を奪った。奴隷商の檻の中では麻袋に穴を空けただけのようなボロとはいえ衣服を与えられていたが、ここではそれすら与えられなかったからだ。
将軍であるローチの夕闇の城での住まいは当然城内の居館。私にあてがわれていたのもその一室だった。こんなボロを着ているところなど人に見られたくない、と思う気持ちを堪えてこそこそせず足を動かした。意匠が違う造りに多少迷いもしたが、奪った衣服も奴隷のものなので怪しまれることもなく一つ目の城門まで辿り着いた。
「外出か。目的は?」
見張りの一人二人いることは予想していたのでよどみなく答えた。
「ローチ将軍の命で街まで使いに」
上官の名を出せば門番程度は竦むもの。それに非常時でもなければ入って来る者には警戒しても出ていく者への警戒心は薄い。案の定、この門番も特に確認をとることもなく、門を開けた。
(やった!)
最初の壁を越えて心の中で歓喜した。
次の門も同じように通り抜ければいい。城の次は街を取り囲む城壁だが、そこでも同じ手が通じるだろう。最近のペースから考えて今夜ローチが来る可能性は限りなく低から、あとは事が露見するまでにルディア王国――いや、中立地帯の虎落笛の谷まで辿りつきさえすればなんとなる。
そう考えながら、門から一歩外へと足を踏み出したときだった。
「グギャガガガガガガガァァァアアアッ」
突然、激痛に見舞われた。殴られたとか、斬られたとかではない。どこといわず、身体中の神経を直接かきむしられたような激痛の嵐。
「ヒギィィィィイイイイイ――――――――………………………………」
身を捩っても、転げまわってもまったく変わることない激痛に息をすることすらできなくなり、そのまま十数秒喘いでから意識が暗転した。
【起きろ】
特に大きくもない抑揚の無い声に殴られたように意識が覚醒した。有無をいわさぬ強制力は、ローチのお愉しみのときに幾度となく経験したもの――スカラヴィア・デスモスの力による絶対の『命令』だ。
「逃げ出そうとしたそうじゃな?」
「……………………………………」
裸で転がされていた私を見下ろしてローチが不愉快そうに詰問してきた。ヤツにしてみれば可愛がったペットに噛みつかれたような心境なのだろう。それ自体はいい気味だったが、逃亡に失敗した落胆の方が大きく黙秘していると、
「仕置きが足りんらしいな」
嗜虐的な笑みを浮かべてそう告げると同時に片手をあげた。ずんぐりとした指にはめられた黒錆色の指輪に刻まれた紋様が鈍く光ると当時にあの激痛が再び襲ってきた。
「ギィヤァァァァァァ――――――――――ッ」
激痛に跳ね起き、もんどうり打って転げまわったが、やはり痛みはまったく変わらない。それどころかのたうち回った分痛みが増すだけだった。
【何のために貴様らにその首輪をつけていると思う?】
聴覚も痛みを伴う激しい高音に苛まれ、音など聞こえる状態ではなかったのに悦に入った脂声が耳からではなく、脳に直接流れ込んできた。
【いつ何時、どれほど距離が離れていようと罰を下せるように、じゃ】
後日、知ったことだが、スカラヴィア・デスモスを嵌められた奴隷は主人(指輪の所有者)を害すことと首輪を破壊すること、そして、自害や逃亡を図ることはできない。しかし、首輪の拘束力は主人の魔力に依存している。そのため熟練の魔法使いでもない者が多くの奴隷を支配下に置いているとその数に反比例して拘束力は弱まり、私のように行動に起こすことまで可能となってしまうのだそうだ。
しかし、それでも二重の策として禁則事項を破ると激痛が奴隷を襲うように仕組まれている。私の場合、許可なく外へ踏み出すことを逃亡の線引きとして設定されていたらしい。この痛みは奴隷自身の魔力を源としているので主人が意図的に止めるか、奴隷が意識を失うまで止むことはない。
そして、このときは意識を失う前に痛みが止んだ。
「痛いのはイヤでじゃろう? これに懲りたら愚かなことは考えぬことじゃ。大人しくワシに尽くしておればかわいがってやる」
ねっとりとした脂声が激痛の余波の耳鳴りと合わさり神経を逆撫でた。それでなくても屈辱と恨みに煮えたぎっていたのだ。感情を抑制できずに睨みつけてしまった。
「まだ、わかっておらぬようじゃな」
来るなら来い、と目を瞑って身構えたが、
「痛みでわからぬなら、逆らい続ける奴隷の末路を見せた方が良いかもしれんなぁ」
不気味で意味深な言葉とともにローチが目くばせで指示を出した。両脇から拘束されるまでもなく、頭に直接響く命令には抗えずに連行された。
最初に連れていかれた先は色とりどりの煙がたゆたう作業場のような部屋だった。動物のミイラや骨、乾燥させた植物などさまざまなものが置かれていたが、その陳列物の中には人骨も混ざっていた。
「これがお払い箱になった奴隷の末路の一つだ」
奴隷としての価値を失った奴隷は魔術儀式の生け贄や新しい術式や魔法薬開発のための被検体として軍お抱えの魔術師やその育成機関である魔術教練所、あるいは名のある魔女魔法使いに払い下げられるのだ、と男は語った。
「まあ、安心しろや。お前みてぇな上玉なら、例え将軍に逆らってもここに直行するこたぁねえからよ」
下卑た笑みを浮かべそう請け負うと男たちは再び私を引きずって部屋を離れた。次に連れていかれた先は内側の城壁の外にある倉庫のような建物だった。最初はそこが目的地だとさえ思わなかったが、
「ここ……?」
鼻を突いた香りに思わず声が出た。
「さすがに散々使われてりゃわかるか。ここはオレたちの“慰安舎”だ」
ドアを開けるとムッとするほど濃密に香が立ち込めていた。ローチも使っていた香だ。おそらく思考を鈍らせる効果があるその香が霧のように立ち込める中にいる女たちは死んだ魚のように澱んだ目で座り込んだり、横たわったりしているだけ。わずかに動いている者も虚ろな表情のまま、ただ自らを慰めていた。
「上官たちが飽きたり、使い古したりして払い下げた娼奴はオレたちがもらってこうして有効活用してるのさ」
「だから、オレたちとしちゃお前が逆らい続けてくれんのは嬉しい限りだ」
一思いに殺された方がはるかにまし。そう思うに十分な光景だった。
「一晩はここに堕ちた娼奴たちの姿を堪能してけってさ」
そう告げながら、男の片方が私の首に『反省中』と書かれた札を下げた。
逆らった娼奴に一晩自らの末路を見せることでその反抗心を叩き潰し、従順にさせることがローチのやり方なのだろう。
「将軍も人が悪いぜ。こんな上玉をおあずけなんてよ」
「文句いっても仕方ねえよ。ホラ、行くぞ」
そう言って男たちは建物を後にした。
男たちが出ていってからしばらくは呆然と座っているのが精いっぱいだった。しばらくしてようやく我に返り、少しでもむせ返るような香から逃れるために窓から頭を突き出した。そのときだった、
暗く夕闇が濃くなり始めた城内で、いくつかの役所も兼ねている建物とそれを結ぶ通路だけが松明や蝋燭の明かりに照らされ、闇の中でそのくっきりと浮かび上がらせていた。そんな照らし出されていた通路を歩く人影の一つに既視感を覚えた。
「……………………エッ?」
見た光景が信じられず、瞬き、目をこすってからもう一度見直してみたが、それは間違いなくあの女だった。
「ウソ……なんで…………アイツが?」
生きているはずがない。あの女は最前線で、それもわずかな決死隊を率いて敵城に斬り込んだのだ。自分がそれを許可し、命じた。そして、本隊は妖狼魔犬の大群と敵軍の挟み撃ちで投降したか、戦死したかのいずれかのはず。本隊が全滅した孤立無援状態で決死隊だけが助かるはずがない。
恥知らずに命を惜しんで投降し、生き長らえていたとしてもブルトルマン帝国の牢獄の中にいるはず……
と、そこまで考えたところで奴隷商人の檻で晒し者になっていたときに雑踏から聞こえてきた噂が脳裏を過ぎった。
青い髪の女騎士がユニコーンを駆り、祖国であるルディア王国と敵国であるブルトルマン帝国、両国の架け橋となり、大妖魔マーナガルムを鎮めて亡国の危機を救った。
救国の英雄の噂は妬ましかったが、そんなことよりもどうやって首輪を外すか、檻から逃げ出すか、の方に気がいって深く考えなかった噂。しかし、視界の彼方を歩き去っていくあの女が生きて、しかも自由の身であるという事実に考えたくない推測が浮かび上がってきた。
「まさか…………あの女が?」
ありえない。下々の生まれのあんな女が、騎士の栄誉でもあるヒッポグリフすら与えられていないような女が高貴と純潔の象徴といわれるユニコーンに騎乗するなどできるはずがない。もし、それにふさわしい女がいるとすればそれに相応しい女がいるとすれば自分以外に誰がいるというのか。
「見間違いよ! そうに違いないわッ!!」
しかし、紛れもなく本人だ、と宣告するようにもう一つの記憶がよみがえってきた。一緒に歩いていたもう一人の女。彼女にも見覚えがあった。第一王子ヴィクトールの息のかかった女士官だ。ヴィクトールの配下はそのほとんどが遠征軍には参加していなかった。つまり、二人が一緒に居るということは噂が真実であるという証拠。
「なんであの女が無事なのッ!」
恨めしさに壁を叩くと近くにいた娼奴がビクリと震えた。
噂が真実ならば今やあの女は救国の英雄。噂の虚実を措いたとしても、あの女が無事に祖国の地を踏んだことはほぼ確実だ。ルディア貴族でも名門中の名門の生まれである自分が奴隷にまで身を堕としているというのに。あんな女が英雄など許容できない。
「……待ってなさい」
あの女がわざわざイースウェア公国に来た理由は何かの任務だろう。ならば、簡単だ。ローチに一言ルディア軍の上級将校が潜入していると密告すればいい。ただでさえ、無能と謗られ、普段から手柄に飢えていると評判のローチのことだ敵の上級将校を捕虜にする機会を逃すはずがない。捕らえられたらあとは転落していくだけ。
「お前にも私の受けた屈辱を味あわせてあげる」
さっきまでの無気力が嘘のように力の戻った足で立ち上がり、報告へ向かった。
「閣下にお知らせしたいことがあります」
「な……なんじゃ」
私が許可なく戻ってきたことにも驚いていたが、何より泣いて許しを請うだろうと思っていた奴隷が堂々と、まるで軍人のように報告したことに意表を突かれたローチは叱り飛ばすことも忘れて報告に耳を傾けた。
「先の戦乱でルディア、ブルトルマン両国を救ったとされるルディアの英雄が城内を闊歩しているところを目撃いたしました」
「『戦場の青き薔薇』とか言われているあの女騎士か?」
そんな呼び名がついていることははじめて知ったが、知っていたような顔で続けた。
「はい。おそらく、何らかの任務のため一般人に偽装して入国したため入国の手続きにやってきたものと思われます」
「なぜ、そのようなことが貴様にわかる?」
「将軍は私を捕らえた奴隷商の売り文句をご存知のはずです」
「まさか、本当にルディア軍の将軍だとでも申すのか?」
「はい」
「ならばなぜその将軍が奴隷商人などに捕まっておった?」
疑念を隠さない――それどころか嘲りすら含まれる問い。しかし、そんなことを意に介す必要はない。この男を唆すに足るだけの口上は道すがら考えてあった。
「件の英雄がのし上がった戦役にて私は先陣を任されておりました」
今までは逃げることに希望を見出していた。しかし、あの女を堕とすと決めた以上、考えを変えてこの愚将に取り入ることを考えことにした。取り入るならば下手に嘘や隠し事をするべきではない。通常ならばともかく、命令一つで何もかも吐かされてしまう以上無意味だ。
「ヤツの進言した作戦の最中、私の軍は帝国軍と妖魔の挟撃に遭い壊滅。私はわずかな兵とともに落ち延びましたが、帝国軍の追撃に遭い、部下を失いました。敗走の過程で道を失い、体力も気力も底を突いたところを奴隷商人に捕らえられたのです」
与太話を想定していたところに辻褄の合う話を聞かされてローチは戸惑っていた。
「ならば、その者に助けを求めず、そればかりか祖国を売るような真似をするのじゃ?」
もっとも重要ともいえる動機を確かめるための質問。いくら愚かなローチ将軍といえど確実に真偽を計るために指輪をかざして命じることを怠らなかったが、
「あの女が憎いからです」
まず、純粋な本心だけを答えてから、
「閣下、考えてみてください。同じ戦場にいて方や敗軍の将、方や救国の英雄として凱旋。あり得るでしょうか? まして、挟撃を受け部隊は壊滅。その作戦を立案したのはほかならぬ英雄。ここに作為を感じませんか?」
証拠はない。事実ではないかもしれない、とも思っている。
しかし、ウソではない。
だから、命令に逆らったことにはならなかった。
「あの女は奇襲を進言し、自らその部隊を率いて少数で敵の背後へ回りました。しかし、結果としてあの女は自分が妖魔の被害に遭わない位置を確保し、事実自分だけ助かっています。これは帝国軍と内通して味方を売った証左だとは思われませんか?」
命令した以上真実しか答えていない、と思っているローチはどう反応すべきか戸惑っていた。ここまでくれば決断までもうひと押しだ。
「閣下が私をお疑いになるのは無理ありません。仮に私が嘘を申しているとしても旅の者を拘束し、真偽を問い質すだけならば閣下のお名前に傷がつくことはございません。が、しかし、私の申していることが真実ならばあの女を野放しにすることで閣下が不利益を被る可能性は少なくありませんし、捕らえることに成功すれば閣下の功績となります」
ウソに踊らされたとしても損はなく、真実ならば手柄になる。そう、唆せば例え手柄に飢えていなくとも動かずにいる方が難しい。まして、相手は手柄に飢えたゴキブリ将軍だ。
「うむ、わかった。直ちに今日この街にルディアからの旅の者がいなかったかどうか調べよ。それとその中に青い髪をした女がいなかったかどうかも調べるのじゃ。いたならば即刻捕吏を向かわせ捕らえよ」
こうして私はローチを動かすことに成功した。が、目標には逃げられ、捕らえることができたのは部下ばかりだった。その部下たちを尋問したところ、あの女は今や将軍を拝命し、ブルトルマン帝国へ輿入れする王女を護送している、とのことだった。
捕らえた部下の中にいたあの女の親友を囮におびき出す、という策を進言したが、通らず、その後に捕らえた王女の近衛騎士を一人、囮にすることになった。しかし、功を独占しようともくろんだローチの愚行の所為で包囲網を敷くことができなかった。その結果、囮にした近衛騎士を奪い返され、王女にもあの女にも逃げられてルディア王国とブルトルマン帝国の和平が成立してしまった。
そのままあの女がのさばるのを是認できるはずがなかった。
(捕らえることができないならこの手で討ち取ってその首を晒してやる)
ちょうど、国境を接する二大国に手を結ばせてしまったことの責を追及されたローチは名誉挽回のための策を欲していた。そこで、ルディア王国侵攻作戦を進言し、奴隷のままでいいから、先陣を任せて欲しいと願い出た。
そして、私は祖国に帰ってきた。
「出てきなさい、ラズワルド。お前が浴びた賞賛も、今いる地位も本来なら私が受けるべきものだったということをその身に刻み込んであげる」
陥落させたクレプスケールの南端の城壁塔の上でヴェニティー・オーリュトモスは遥か彼方の怨敵――ローズ・ラズワルドに向けて宣告した。




