第十一章 疑心
「軍需長官は知ってるわよね? で、その隣にいるのがカントルーブ家の当主の弟、アッチがペルーシュ家の本家筋。話してる相手は……」
目についた端から誰がどういう家柄、立場の人間なのかスカーレットが解説していく。
昨夜はローズ一人で回らざるを得なかったためどうしても手探り状態で、話してはじめて相手が何者なのかを知ることができる状態だった。だから、声をかける相手も軍事には縁遠い文官や貴族派の人間に声をかけてしまうこともあり、効率が悪かった。
しかし、今夜はスカーレットが一緒なので。顔を見ただけで誰がどんな役職、派閥、家柄の人間なのかわかる。話しておいた方がいい相手、面識を得るべき有力者、顔を覚えておくべき敵がわかり、効率的に過ごすことができる。それ自体は大いに結構なのだが、
「覚える顔と名前が多すぎて頭が焼けそう」
百人単位の人間がひしめく会場を回りながら声をかける相手を探しつつ、覚えておくべき顔と名前の授業を受けるのは予想以上に難しい。平時ならばともかく、昼間政治的な交渉で目一杯酷使した頭で、しかもアルコールも入っている。その上、
「この程度で弱音吐かない! ハイ、あの人は?」
「……デュラン将軍だろう、東方軍司令の」
こうしてスカーレットが抜き打ちテストもしてくるから厄介だ。
「ちゃんと覚えられてるじゃない」
「まあ、軍関係者はなんとかね。それに昨日に比べて人数も少ないし」
数が少ない、といってもそれは現在会場にいる人数に限った話。会場いる人数は少なくとも、かわされる会話はより活発になっているし、人の出入りも激しい。頻繁に別室に移動しては密談に移っているのだろう。
「参加者の顔ぶれもわかってきて必要な相手との交流を優先するからね。だから、顔ぶれくらいさっさと覚えないと置いてかれるばっかりよ」
「そうみたいだな」
今夜はまだ本命――というかこちらから面識を得ておきたい相手を捕まえられずにいる。
そして、皮肉なもので不思議なもので会いたい相手には会えず、逆に会いたくない相手は向こうから声をかけてきたりする。
「ラズワルド准将、少しよろしいかな?」
横合いからかけられた声に視線を向けると軍服姿の老紳士が立っていた。田舎者のローズでもそれが誰なのかは知っている人物だった。
「ええ、もちろんです。ブルダリアス長官」
礼儀正しく応じると、ブルダリアス長官は踵を返して、出口へ向かう。どうやら、人には聞かれたくない類の話らしい。黙ってついて行く。王宮の廊下を人気を避けて進み、しばらく行ったところにあった無人の部屋が会談場所に選ばれた。
「ヴィクトール様とキミの手腕には驚かされたよ」
部屋に入るなり長官はそう切り出す。
「わずか二日の間によくぞここまで事を進めたものだ、とね」
「何のことでしょうか?」
もちろん長官が何を指して話しているのかわかってはいたがあえてとぼけて返す。
「ここまで詰めておいて今更とぼけることに意味があるのかね? 西方軍再建のための応急処置案。キミは中央軍の物資を西方軍に供与させるため、ヴィクトール様は飛竜や軍馬を提供させるために走り回った。同時に持ちかければ確実に拒否されていただろう案件を、手分けして動かれたために我々は認知するのが遅れてしまった」
チェスの検討でもしているかのような軽い口ぶり。出し抜かれたことに怒りや焦りを覚えている様子はない。それどころかむしろ痛快といったふうにすら聞こえる。
「さすがはヴィクトール様だ。そう思わんかね?」
(さて、どう答えたものかな)
ブルダリアス軍令長官。元帥たる王の下で作戦立案を行う参謀本部や軍法の管理執行を行う憲兵部などを含む軍令省のトップ。彼は旧貴族ではなく、当然貴族派でもない。にもかかわらず、ヴィクトールから要注意人物として名前を聞いていた人物である。
「まさか、これほど早く見抜かれるとは思っておりませんでした」
ヘタに長官の問いに答えるよりは見抜かれた事実だけを肯定して躱した方が利口だろう、そう考えてローズは潔く肯定した。
「まだ、私以外誰も気づいていないだろうね」
当たり前だ。前日から二日の間、駆け回ったこの案件は、ローズが物資関連について主に貴族派以外を回り、ヴィクトールが飛竜と軍馬の件について貴族派を相手取った。そうすることで元々不仲で情報共有が遅れがちな貴族派とアレクサンドル派から別々に言質を取って、正攻法では通らないような要求を通そうと試みているのだ。誰にでも見抜かれるようでは意味がない。むしろ、直接関係のない役職のブルダリアス長官がこれほど早く気がついたことが恐ろしいほどだ。
「この策はヴィクトール様のものかな?」
「ええ」
直接的に聞かれては躱しようがないので仕方なしに肯定すると、
「さすがはヴィクトール様だ。軍事だけでなく政治も心得ていらっしゃる」
先ほどと同じフレーズを繰り返す。が、今度は同意を求めようとはしない。
「それで、お話というのはこの件についてのことでしょうか?」
「まあ、それもあるが……」
ローズの態度を不快に感じたとも、単に言葉を吟味しているだけとも、とれる微妙な語調と表情で間を取ってから、
「ラズワルド准将、キミ自身も参加した先の西方軍遠征をどう思うかね?」
唐突な質問の転換の意図を図るが初手を見ただけでそう易々と予測できるはずもない。なので、とりあえず素直に答えておく。
「愚行蛮行以外の何ものでもありません」
「私もそう思う。そして、私は、その原因があまりに軍事に無関心な陛下の姿勢にあると考えている」
確かにブルダリアス長官の言うことにも一理ある。百年前、貴族制度廃止に伴って貴族の圧政を許さないという志ある官吏が集った名残で政治方面には能吏、廉吏も多い。だから、国王が政に関心が薄くとも彼らが王妃を支えることでことなきを得てきた。
しかし、軍はそうではない。未だに貴族の力が強く、王の軍事に対する関心が薄いのを利用してやりたい放題に近い状態になっている。それは事実だが、
「長官のお考えの是非はともかく、国家に仕える軍人――しかも、その長の一人ともあろう方が陛下を非難するような言葉は慎まれた方がよろしいかと思いますが」
「確かにその通りだ。しかし、真に国を憂う者ならば先の遠征の惨劇を見て口を噤んでいることのほうが不道徳だ」
少しずつブルダリアス長官の語調が圧力を帯びる。
「あのような惨劇を繰り返さぬためには多少暴言でも声を上げねばならん」
「ならば、陛下に直接諫言されるべきでしょう」
「それに意味があると思うかね?」
皮肉な問い返し。
もし、ローズが王に忠誠を誓った忠臣なら歯噛みしていたかもしれない。だが、あいにくとローズは現国王個人に忠誠を誓った覚えはないので平静を保って受け流す。
「意味のあるなしではなく、それが筋というものでしょう」
「筋か……たしかにその通りだ。だが、筋を通して無為な行為に力を注ぐのは愚か者のすることではないかね?」
諫言は無益、と言い捨てられるほどに国王の信頼は薄い。それが仕方のないことで、ある意味では正しいとも聞いている。王位に就いた当初から政に関心の薄かった王は傀儡同然で、実質的には王妃と宰相が王の役割を代替してきた。
「それに陛下もお歳だ。今更諫言して考え方を改めていただくよりは次世代のことを考えて動くのが戦略というものだろう」
「ならばアレクサンドル様に進言すればよろしいではありませんか」
「本当にそれで済むと思うかね?」
「…………何をおっしゃりたいのですか?」
「アレクサンドル様は西方軍の遠征を止めることができなかった。また、アクティース教国への援軍の件も抗しきれず、結局はアクティース教国の言いなりになって東方軍の将兵の血が――我が国の民の血が無駄に流されることになってしまった」
「アレクサンドル様がいかに有能であっても全能ではないのですから、至らぬ点があったからといってあげつらうことに意味はないでしょう? それを支え、少しでも良い方向へ進める一助となるのが臣下の務めではありませんか」
あたりさわりのない模範解答を返したローズだったが、本心では、どの口がほざく! と罵倒してやりたかった。
先にも述べた通り、軍令省には参謀本部も含まれる。参謀本部の役目は作戦立案と具申される軍事計画の可否を採択すること。つまり、軍の運用に関して元帥たる国王に次ぐ発言力を持っているのはほかならないブルダリアス長官ということだ。
アクティース教国への援軍に関しては政治的に複雑な関係があるし、当時は配属間もない、それも直接の関係はない西方軍の新米士官だったローズには事情はわからない。しかし、オーリュトモス将軍の遠征計画を許可してしまった罪はブルダリアス長官にもあるのだ。
「たしかにその通りだ。しかし、よりよい選択肢があるならばそちらを選ぶべきだ。そうは思わんかね?」
「と、おっしゃいますと?」
どうしてもローズの口からその一言を言わせたいらしいが乗ってやるいわれはない。ここまできてなお、とぼけるローズに業を煮やしたブルダリアス長官先に動いた。
「ヴィクトール様だよ。西方軍再建のために下準備を整え、一挙に動く政治手腕は王たるに相応しい」
「しかし、政ならばアレクサンドル様の方に軍配があがるのでは?」
手腕だけならば甲乙つけがたいかもしれない。しかし、治世には多種多様な知識が必要になる。ヴィクトールは前線に身を置き、国防や国境付近の世情には通じているがその他の点に関しては並み。しかし、アレクサンドルは知識の幅が広く、量も豊富だ。
「キミはアレクサンドル様を支持するのかね?」
「そうではありません。ですが、立太子を避け中央から離れているヴィクトールをわざわざ説得して擁立する必要があるとも思えません」
「東西両軍の被っている被害を考慮しても、かね?」
「若輩者ですので東方軍に関してはなんとも言えませんが、西方軍の件に関してはアレクサンドル様を責めるべきではないのでは?」
先ほど飲み込んだ言葉を暗に突きつけると、そのことを自覚してブルダリアス長官の眉間に不快なシワがきざまれる。しかし、仮にも長官まで登りつめただけあってその程度で激昂することはなく、すぐに表情を繕う。
「まあ、アレクサンドル様に歩み寄るにしても中央軍の中でも反発はある。それを押さえ込むのは残念ながら我々では難しい。何しろ我々も一枚岩ではないのでね。しかし、ヴィクトール様という明確な旗頭を立てて意思を統一すれば話は別だ」
ものは言いよう、とはこのことだ。腹の内ではヴィクトールをアレクサンドルの対抗馬にしたいと考えているくせに、協力するためなどとは。
「なるほど。それでヴィクトールの説得に協力しろ、と?」
「その通り。キミはヴィクトール様に信頼されている。あのヴィクトール様に、女にもかからわず、だ」
ようやく本題に辿りつきブルダリアス長官が満足そうに頷くが、
「それならばお断わりせざるをえません」
ローズの言葉に再び眉間のシワが深くなる。
「西方軍の現状を知る者として言わせてもらえば、ヴィクトール以外の者に司令が務まるとは思えません」
中央軍と東西両軍の間には感情的な溝がある。端的にいえば中央軍はエリートで東西両軍はノン・エリートといったところだろうか。名目上は対等でも政治中枢のある中央軍の方が実質的に権限が強くなるのは仕方ない。だから、中央軍は東西両軍を見下す傾向があり、東西両軍は何かにつけて反発している。
それに、同じ釜の飯を食い、生死を共にしているため仲間意識が強いのが軍という組織だ。余所者に対する拒絶反応は少なくない。
「仮にヴィクトールの代わりに中央軍から有能な将軍がいらしてもすぐにその手腕を十全と発揮することは不可能です。ただでさえ、戦力低下の著しい西方軍に内輪に不和を抱えるゆとりはありません」
「それならば心配いらん。私たちは次期司令にキミを推すつもりだからな」
「本気でおっしゃっているのですか?」
抑えたつもりだったが、声にわずかな嫌悪感に染まっていた。地位で釣れば協力すると思われていたことも心外だが、それ以上に中央でのパワーゲームに執着し、地方をまったく省みていないことに憤りを覚えたからだ。
「本気だとも」
「そんなエサで私が協力するとでも?」
「もし協力が得られないならばこちらとしても相応の対応をとるだけのことだ」
相応の対応――真っ先に考えられることはまだ権力の乏しい小者であるローズに何らかの罪を被せて処断すること。
「私を排除すると?」
「それは簡単だが、それではヴィクトール様に動いていただくことが一層難しくなる」
たしかにそんなことをしてもヴィクトールの敵のリストにブルダリアス長官の名前が加わるだけで旨みがない。それに濡れ衣を着せるとなれば罪をでっち上げる分リスクも伴う。しかし、ならば一体どんな対応をとるというのか?
「キミたちが押し進めている西方軍再建計画。アレクサンドル様のシンパ、貴族派の双方に情報を流れたらどうなると思うかね?」
「正気か!?」
そんなことをすれば貴族派は間違いなく反発してくる。いや、アレクサンドル派のまともな官吏たちでも法外と言っていい要求をすんなり受け入れるとは思えないからこそ二手に別れて奔走したのだ。それが失敗すれは再建に時間がかかることは必定。もし、その隙にイースウェア公国に攻めこまれでもしたら西方軍が持ちこたえられる保証はない。
「しかし、ヴィクトール様中央にお戻りいただけるなら私は当然余計なことを触れ回るつもりはない。それに私と同じ考えの者は挙って協力するだろうな」
つまり、ヴィクトールが中央に戻るなら西方軍再建に協力を惜しまないが、そうでなければ妨害する、と言っているわけだ。しかも、妨害の際は単に情報を――それも軍内部の別派閥に流すだけなので罪に問うこともできない。
しかも、ヴィクトールを直接脅さず、ローズを介することでヴィクトールに言質とられることを回避している。
(老獪……とはこういうヤツを指すのだろうな)
最初はなぜヴィクトールを擁立しようとしているというだけで要注意人物として名指ししたのかわからならかった。しかし、実際に離してみてその理由がよくわかった。ブルダリアス長官は貴族派連中と同じだ。違うのは出自とその権力の基盤だけ。自分たちの権力を増すことだけしか頭にない。しかも、質が悪いことに彼は有能で敵に回すと厄介なのだ。
「語るに落ちているとは思われないのですか?」
精いっぱいの皮肉を込めてそう返す。
地方を省みず、中央の政治ゲームにだけ執着して憂国の士を気取る。かつての貴族たちと何ら変わららない腐敗しきった思考。国のため、とのたまった言葉とは食い違う。
「上に立つ者の見る景色を下の者が理解できるとは限らんのだよ。答えは祭りが終わるまでに聞かせてくれたまえ」
そう告げると長官はさっさと部屋を後にした。
「どうするの?」
副官らしく控えたまま無言で成り行きを見守っていたスカーレットが問う。
「…………………………………………………………………………黙殺する」
「ヴィクトール様に相談すべきではないの?」
「いや、ヴィクトールには伝えない」
「なぜ? 情報の共有は必要だと思うけど」
「長官の提示した期限は今日明日ではなく、祭りの間。つまり、あと四日あるからだ」
長官は口止めしていかなかった。つまり、ローズがヴィクトールに今の話を伝えることは予想している。予想した上で、猶予を与えているということはヴィクトールに伝えることも計算の内なのだろう。
「あえて私を泳がせてもいい別の策があるか、あるいは私を通じてヴィクトールを動かすことも計算の内と考えた方がいい」
「ねえ、ローズ」
「なんだ?」
「長官があえて猶予を与えたのはそう思わせて動きを封じるためってことはない?」
ローズは中央の、スカーレットは西方の事情に疎い。対して、両方に通じているヴィクトールなら長官の思惑を見抜けるかもしれない。それをさせないために長官が分裂を謀ったとも考えられる。
「私たちとヴィクトール様との接触は不自然なことじゃないし、貴女の懸念も含めて伝えた方がいいと思うわ」
「………………………………」
確かにヴィクトールと情報を共有した方がいいという言い分に理はある。しかし、何か――トゲのようなものが今ヴィクトールに指示を請うのをためらわせていた。
「ローズ、貴女長官の『女にもかからわず』っていう一言にムキになってない?」
「……そっ…………」
否定しようと口を開いたが、何と言って返せばいいかわからなかった。
西方軍は仕官制度の設立時に一騒動あったおかげで、現在では逆に女でも侮られることは少ない。しかも、少し前までは西方軍を我が物顔で支配していたオーリュトモス将軍が娘を溺愛していたことから貴族派連中でさえ女だというだけで嘲ることはなかった。
「…………そう…………かもしれない」
ここまで這い上がってきた大半は実力だと自負している。もちろん、二階級特進でいきなり将軍に抜擢されたのは運の要素が大きいが。しかし、女だからヴィクトールに気に入られた、とでもいうような言い様に少しムキになっていたのかもしれない。何故か負けを認めるような、そんな気がしていたのだ。
「あの程度で熱くにならないでよ。貴女を色眼鏡で見てるヤツなんて中央には掃いて捨てるほどいるんだから」
「肝に命じておく。会場に戻ったらヴィクトールを探して……」
「あら、今日はヴィクトール様は会場にはいないわよ」
「? ならどこにいるんだ? それになぜスカーレットがそんなこと知ってるの?」
西方軍関連のことで人と会っているならローズも知らされて然るべき。だが、ローズは今夜ヴィクトールが欠席してまで誰かと会うとは聞いてないし、自分が聞いていないならば一日中行動を共にしていたスカーレットが知っているのも変だ。
「ああ、そっか、ローズははじめてだもんね。ヴィクトール様が欠席されるのは王宮関係者の間じゃ結構有名な話なのよ。今頃は多分劇場の方にいらっしゃるわ」
スカーレットの言葉通り、ヴィクトールは夜会には出席せず王宮の劇場にいた。
初日にルディア建国伝が披露された劇場はそれ以降も様々な英雄譚や伝承が演じられている。その数ある演目の中で、これから上演される演目に限ってヴィクトールは毎年欠かすことなく見ることを決めていた。
演目はアルケーテロス神話 第一章第三節「知の禍」。
この世界のどの国どの民の間でもほぼ同じ内容が語り継がれるこの神話の本伝の中で唯一この一節だけは国、地域、民によって伝わる話が異なる。なぜならば、「知の禍」は歴史上はじめて人同士が争った戦い――原始の戦争を語る一節だからだ。故に、語り継ぐ民や地域によってその視点が異なっている。
そんな一節をルディア王国の神学者の一人は次のようにまとめた。
人は星を読み、未だ来ぬ時のことを知る術を得た。
あるとき、星は近きうちに人同士が争うときが来ることを告げた。
人は未だ見ぬ敵を恐れて疑う心を持ってしまった。
疑う心にとり憑かれた人は己の身を護るために罪なき者を襲った。
故なき戦いに多くの血が流されたことを神々は嘆いた。
闇の神は星々の告げる未来を不確かなものにすることを決めた。
闇の神は流した涙に命を吹き込み、星々の光を遮る娘を創り、これを月と名付けた。
未来を知る術――予知によって疑心に駆られた人間は、戦いを仕掛けられる前に敵を潰せ、と考えてしまった。少なくともこの点に関してだけは共通している。
また、この神学者のまとめは各民、国に配慮して細かくは言及していないが、疑心だけが戦いの理由ではなかったらしい。話によっては、知を得た人間は生活をより豊かにするために土地を奪い合い、水を奪い合い、あらゆるものを貪欲に欲した、と伝えられている。より生々しいケースでは奴隷の起源はここにあるともいう。
ともかく、そうして解釈が分かれるために演じる劇団によって解釈、表現、内容が異なる。そのため見飽きることがないことも毎年観る理由の一つだが、何より人と人とが争う理由の多さと愚かさについて省みることができるこの話を、軍事という戦争のための力を預かる己への戒めとして観ることに決めていた。
「ヴィクトール様」
間もなく開幕しようというとき、背後の暗がりから声がした。暗いボックス席にはヴィクトールの姿しかない。しかし、ヴィクトールはその声を空耳だと疑うこともなくごく当たり前に答えた。
「なんだ?」
「火急の報せにございます。イースウェア軍侵攻。先陣は明日中にクレプスケールへと到達する見込みでございます」
「何ッ!?」
多少のことでは動じないヴィクトールもさすがに動揺を禁じ得ず、開幕直前の静かな客席に驚愕の声がこだました。
「急に呼び出したりして一体どうしたんだ?」
長官の件は急を要することでもないので夜が明けてからでいいだろう、と思って他の軍高官と話し始めた矢先、近衛を通じてヴィクトールに呼び出された。
「さっきほど火急の知らせが来た『イースウェア軍侵攻。先陣は明日にでもクレプスケールに到達する見込み』とのことだ。日付が変わったからもう今日だな」
懐中時計に視線を落としてヴィクトールが訂正する。しかし、いつもの茶化すような軽い口調ではない。平静だがその眼差しが予断を許さない事態であることを物語っている。
「なっ……バカな! この短期間で準備を整え出兵してきたというのか!?」
第一旅団と第二旅団を束ねる二人が任地を離れるにあたって当然イースウェア公国に動きがないかヴィクトールは調査していたし、その報告はローズも聞いていた。少なくともローズがクレプスケールを発つ三日前の報告ではクロチェスターまでは以前獣人の群しかいない、との報告だったはずだ。
「信じられないがそうらしいな。今日の昼……遅くとも夕方にはイースウェア軍侵攻の報が中央にも届くだろう」
「数は? 部隊の編成は?」
「数はおよそ一万。飛竜部隊が二千。騎兵隊が八千だそうだ」
「一万……厳しいな」
通常通り西方軍が戦闘兵五万、後方支援兵五万の十万体勢ならば余裕で迎撃できる。しかし、二旅団五千の戦闘兵しかいない現状ではかなりきわどい防衛戦になるだろう。しかも、その中二千は城壁の南北の端の防衛にあたっている。そのどこかに敵が兵力を集中してきたら突破される危険が高い。
「しかし、飛竜部隊はともかくそれほどの騎馬でどうやって?」
ローズが省いた言葉は、それほどの騎馬がどうやって獣人の跋扈するクロチェスター近郊を突破してきたのか、ということ。わずか三十名の小部隊でも見つからずに突破することは不可能だったことはローズたちは身を持って経験している。まして、八千もの騎馬がどうやって突破してきたのか?
「わからん。戦って突破してきたなら少しは勝算が高くなるんだが……」
ちょうど一か月前のローズたちのように必死に戦って獣人の縄張りを突破してきたのだとすれば疲れて兵馬の気力、体力が削れて数ほどの脅威にはならない。無茶で稚拙な用兵をすることで有名なローチ将軍ならばその可能性も少なくはないが、
「敵の失策に期待するような希望的観測は控えるべきだ。サングリエ将軍やヴィオラが持ち堪えてくれている間に援軍と物資輸送の手はずを整えなければ」
ヴィクトールが受けた報告があくまで西方軍からの正規のものであると思っているローズはサングリエ将軍ら留守番組がすでに防衛体制を整えていることを疑いもせず話を進めていく。
「ヴィオラなら先陣は持ち堪えてくれるだろうが本隊が来たらどうしようもない」
敵は一万とはいえ、編成は足の速い騎馬と飛竜部隊のみ。もともと攻城戦は攻める側が三倍の兵力を必要とすると言われるのだ。護る側ならば兵の配置と飛竜部隊への対処さえできれば先陣相手には持ち堪えられるだろう。しかし、敵の本隊が来れば到底五千そこそこの寡兵でしのげるものではない。
(こういう事態を危惧して騙すような手口まで使って物資と竜馬の供与をとりつけようとしているというのに……その矢先にこれとは…………待てよ)
現状を整理していたローズの頭に一つの案が閃いた。それ自体は妙案なのだったのだが、それを言葉にして伝えることに思考を傾けた所為でヴィクトールが後ろ暗い顔をしている事実を見逃してしまった。
「ちょっと聞いて欲しい話があるんだが……」
そして、ブルダリアス長官からヴィクトールを説得するよう協力を求められたこと。協力しない場合は西方軍再建を妨害すると脅されたこと。協力すれば見返りにローズを西方軍司令に推すとそそのかされたことを手短に伝えた。
「ブルダリアス……あのバカがッ」
「お前が中央に戻りたがらない理由が少しはわかったよ」
「アイツも昔はああじゃなかったんだがな」
本当に口惜しそうにヴィクトールがこぼすが、長官がどうしてああも曲がってしまったのか、にまつわる昔話を聞いている余裕はない。
「昨日きょ――いや一昨日で過半数の同意はとりつけたはずだろ?」
「大体な。だが、それがどうし……なるほど」
情報源について打ち明けるか、悩んで思考が回っていなかったヴィクトールだが、さすがの回転の速さでローズの考えを理解した。
「ああ、一気に押し切ろう」
今日中には敵襲の報が正式に届くだろう、とヴィクトールは言った。ならば、その報告を後押しに一気に要求を押し通してしまえばいい。そうすれば、ブルダリアス長官にも反論も邪魔もできない。
敵本隊がどれほどの期間で着くか不明だが、歩兵や輜重部隊中心となることは間違いない。馬で駆け抜ければ三、四日の肯定も歩兵の、それも大軍ともなれば二週間はかかる。事前に夕闇の城を出陣していたとしても十日はかかるはずだ。
「…………いいだろう」
情報源について打ち明けることなく、問い質すことなく二人は留守番組ができうる護りを整えると誤信して援軍を遅らせるという判断を下してしまった。ほんの半日初動を遅らせるに過ぎないこの判断がどれだけの被害を招くか知らぬまま。
明けて建国記念祭四日目の朝――といってもかなり日が高くなってはいたが――エバーとクーシェは鳥のさえずりでも、祭囃子でもないけたたましい鐘の音にたたき起こされた。士官学校時代散々聞かされた起床の鐘の音を数十倍に大きくした鐘の音。
「敵襲!?」
エバーがベッドから跳び起き、軍服を着ながら部屋から飛び出すと、同じように慌てて飛び出してきたクーシェが叫ぶ。
「わかんない……けど火事とかじゃないよ」
火事と軍事的警鐘とでは鐘の鳴らし方が違う。明らかに火事ではない。
訳も分からないまま、剣をとって走り出す。玄関を出たところで街のざわめきが聞こえてきた。ローズの屋敷は郊外にある。祭りの喧騒さえも微かに聞こえる程度なのにこれほど慌てふためき、慄く声が聞こえて来るのは訓練などではあり得ない。
「冗談とか質の悪いイタズラとかじゃなさそうだね」
「イタズラでこんなことしたら後で大佐に殺されるよ」
誤報だったらよかったのに、と思いつつ規則規律にうるさい旅団の副隊長をネタに皮肉るが、緊張で強張る顔には苦笑すら浮かばない。
「とにかく急ごう!」
エバーの檄にクーシェが無言で頷き、ペースを上げて街へと駆ける。
駆ける二人の視界の上の端。城壁の上まで見える遠くでは素早く緊急事態を知らせるための狼煙が幾筋もたなびいていた。
「敵襲! 敵襲!!」
西方軍司令部は突然の事態に浮足立っていた。
「警邏隊の報告では何もなかったはずではないのか!?」
青ざめた顔で司令官代行のサングリエ将軍が怒鳴る。
将軍が激昂するのも無理はない。何しろ、昨日の飛竜部隊による警邏報告では、壁外に異常なし、ということだったのだ。なのに、実際に敵が目の前に現れるまで一切報告がなかった。これでは戦ベタの彼でなくとも浮足立つ。
「それが……その……」
警邏責任者の歯切れは悪い。それもその筈。何しろ祭りの期間で浮ついていた彼が司令官のいないのをいいことに警邏を半分以下の距離で切り上げて飲みに繰り出していたのだ。
「もういい! 貴様の責任追及は後回しだ!!」
手元の書類を投げつけて警邏責任者を叩きだす。
(なぜいつもいつも私が責任者のときに限って……)
クロチェスターのときもそうだった。オーリュトモス将軍が押し進めた遠征計画を、自らの派閥で固めるために半ば押しつけられるようにして任された重責。何事もなければそれでよかったが、結果として西方の重要拠点である要塞都市を失ってしまった。この上絶対防衛線であるクレプスケールを失ったりすれば何とか守った地位すら危ぶまれる。
(なぜ、ティリアン大佐が倒れたこんな時に限って……)
ヴィクトール麾下の第一旅団は大半を南北両端の防衛に振り分けており、今この街にいる戦力はドーバートン少佐の率いる飛竜大隊五〇〇騎と第二旅団二千五百。だが、部隊長の整っていない第二旅団はローズとヴァイオレットの二人無くしては烏合の衆に等しい。
「緊急動員だ! 近郊の街の衛兵をかき集めて兵士の不足を補え!」
「はっ!」
「それから士官学生も動員しろ! 訓練用に使っている物資も、だ!!」
「はっ!」
手近な部下に命じると敬礼して直ちに駆け出していく。
「司令! ドーバートン少佐がお見えになりました」
「少佐、戦況は?」
「何とか持ちこたえています。数の不利はありますが、飛竜部隊だけならば降下さえさせなければなんとかなります」
「飛竜部隊だけなのか?」
「むろん、あり得ません。本気で侵攻してくるつもりなら数が少なすぎます。おそらく、奴らは先兵。獣人の縄張りを突破してくるために飛竜部隊だけが先行したのでしょう。できうるなら偵察を出して敵本隊がどの程度のところまで来ているか調べるべきです」
そう答えた矢先、司令室のドアを突き破るように凶報が飛び込んできた。
「報告します! イースウェア軍の別動隊およそ一万が南の砦を襲撃!!」
「なっ……一万…………だと!?」
「こっちは囮か」
実際には八千の騎馬隊なのだが、奇襲同然の攻撃を受けた南の砦の面々は敵を過大に捉えていた。もっとも、数を見誤ったことは大した問題ではない。南北両端の守備隊はそれぞれ千しかいない。八千だろうが一万だろうが防ぎきれない大軍という事実に変わりはない。
「しかし、南だと?」
記録に残っているクレプスケールに侵攻してきた敵のとる布陣は正面攻撃がほとんど。なぜなら天険の南北の山脈は兵を侵攻させるのに不向きな地形が続いているし、特に城壁の端は護りやすい地形を選んでいるからだ。その上、ここ百年以上クロチェスターで足止めされていた敵がプロクス山脈の地形を把握しているはずがない。
「一体……どうなっているんだ!?」




