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ルディア戦記  作者: 足立葵
第二話「閨門の白い木春菊」
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第十六章 六日目――神の慈悲と悪魔の所業

 ルディア兵の侵入が発覚してから二日夕闇の城(ダスクフォート)の南門は早くも開かれることになった。過去に同じように他国の兵が侵入した際、直後に大軍が攻め込んできたという事例があることから市民を戦火に晒さないために避難させるのが通例。本来ならばすぐにでも避難を開始するところを一日間が置かれたのは侵入者の残党の捜索に費やしたからだ。

 捜索の結果は空振りで未だ市内では兵士による捜索が行われている。国内侵入の恐れを考えればまだ開門すべきではないが、司令官ローチ将軍と商業ギルドの上部の癒着を考えれば、むしろ一日誰も通さずに持ち堪えたことが上出来と言える。

「次ィ!」

 検閲官の一人が一組のチェックを終えて次の通行者を通すように苛立ちと疲労の色濃い声で促す。普段はこの街に暮らす者から通行証を持たない一般の旅人までこぞって避難しようと殺到しているのだから今日の検閲官は大忙しであった。

(ったく本当なら今日は非番だったってのに)

 心の中で検閲官が愚痴っていると扉が開き、二人分の足音が近づいてきた。テンションとともに下がっていた視界に映り込んだ足から判断するに男女の二人組らしい。顔を上げると不思議と不健康な印象を与える白髪の女性と不機嫌そうに眉間に皺を寄せている青年のカップルが立っていた。

「ご夫婦で?」

 ええ、と白髪の若夫人が笑顔で応じる。

「新婚旅行の最中なんです」

 そういって手をあげ、婦人用の薄手のロンググローブを外した。露わになった白い指はおよそ水仕事などをしたことの無い手。ほっそりとした白い指にはきらりと輝く指輪が嵌まっている。検閲で高価な品に慣れている検閲官から見てもそれなりに高価な品だ。旅行する余裕くらいあってもおかしくはない。

「その新婚さんがなんで今この街に?」

 北のブルトルマン帝国と北東のルディア王国との国境に位置する夕闇の城(ダスクフォート)は普段なら生活にゆとりのある者が外遊のために通過することも珍しくはない。しかし、今は通行が止まってしまっている。

「有名なルディアのお祭が見たくて私がせがんだんです」

 今から一月ほどするとルディア王国の建国記念祭が開かれる。王都では大々的な祭りが開かれ、剣術御前大会をはじめ、技芸の国ルディア王国の芸術家、技術者が挙ってさまざまな催しものが開かれる。

「なるほど、そういえば例年なら今頃のこの街はルディアへ出国する旅人で犇めいているころか。ですが、二か月前からルディアとの行き来ができなくなっているのはご存知なかったんですか?」

「リーファレットの西に住んでいるものですから」

 苛立ちで刺々しい検閲官の質問にも白髪の若夫人は笑顔を崩さずに答える。その笑顔にほだされたわけではないだろうが検閲官も、なるほど、と納得する。

 リーファレットはブルトルマン帝国とイースウェア公国にとって虎落笛の谷(エオルスバレー)に当たる中立地帯である。正確にはイースウェア公国領なのだが、地理的事情と領主の裁量によってブルトルマン帝国とイースウェア公国の国交の橋渡しをしている。

 それはともかく、つまりはイースウェア公国の北西の端に当たるわけで北東の端での出来事が伝わるのも遅くなる。まして、ルディア王国とは長年に渡り小競り合いを繰り返してきたので幾度となく通行が封鎖されたことがある。多少の情報を知っても仔細を知らなければ一時的なものと期待してもおかしくはない。

「旅の途中で知ったんですが、すぐに往来が回復すると思って……それに海路では間に合いませんでしょ?」

「そう……ですねえ、大きく迂回しますし、船は天候任せですからね」

 検閲官の納得した様子を見て言葉を重ねた白髪の若夫人が会話の主導権を握っていく。

「でも、せっかくの新婚旅行を諦め切れなくて……ギリギリまでここで様子見ましょう、って帰りたがる主人を引き留めたんですが……」

 ここで言葉を濁し、申し訳なさそうに横に立つ旦那を見上げる。つられて視線を旦那へと移した検閲官は続きを聞くまでもなく、夫人の言いたいことが分かった。

 白髪の若夫人の隣に立つ旦那はかわいらしい夫人と釣り合いのとれた見事な好青年だが、逞しいとか精悍とかというよりは美丈夫という表現がぴったりな美男子だ。今は眉間に深い皺を刻み、目つきも鋭さが増し、いかにも不機嫌そうだが、愛想よく笑顔でいれば女と言っても通用するかもしれない。それだけならば特に問題はないだろうが、この青年は見事な青い髪をしている。この容貌では夫人をつれずに街をあるけば手配中の女戦士と疑われて不快な取り調べを受けたに違いない。

「それは……お気の毒です」

 クク、と噛み殺しきれなかった笑いを溢した検閲官をギラリと青年の視線が射抜く。取り調べる側と取り調べられる側の立場が入れ替わったように検閲官が身を竦ませ、慌てて業務に戻る。

「で、では一応所持品検査とボディーチェックを」

 そう多くない所持品を台の上に並べ、怪しいものがないか調べてから、服の上から簡単なボディーチェックを行った後で若夫婦に通行の許可が下りた。

 若夫婦はそのままの足で南門を通過し、夕闇の城(ダスクフォート)の街から樹海を貫く一本道の街道を南へ向かって歩き始めた。白髪の夫人は青髪の旦那の腕に抱き着き、旦那の方は一層眉間のしわを深くしている。

 しばらく歩いたところで夫人が具合でも悪くしたように口元に手を当てた。しかし、旦那の方は立ち止まるどころか、気遣って声をかけることすらせず、歩みも落とさない。さらに歩き続けると夫人の肩が小刻みに震え、

「プッ……アハハハハハハハハハハハハハハハ」

 我慢の糸が切れたように白髪の若夫人ことマーガレットが吹きだした。十分に城門から離れていなければ笑い声を衛士に聞かれたかもしれない。幸い街の住民の大半は我先にと午前中に殺到し、運悪く滞在していた旅人の大半は検閲官の検査を受け出て来るのが疎らなため聞かれる範囲に人気はない。

「いくら周囲に人気がないからと言って目立つような振る舞いは控えろ」

 青髪の旦那ことローズがようやく腕に抱き着くマーガレットに視線を向けて窘める。

「フフフ……ごめんなさい。でも、いくらなんでも“不機嫌な旦那様”のフリはもう止めてもいいんじゃない?」

「これは本当に不機嫌なんだ」

「スッゴクうまくいったのになんで?」

 この作戦を立案した本人はご満悦だが、こんな突拍子もない作戦とも呼べない作戦を押し切られた上に――それ自体はいいことなのだが――何の疑いももたれずに通過できたことで微妙に女のとしてのプライドを傷つけられたローズはムスっと黙った。


「それよッ!!」

 昨日の朝、エバーの「抱かれてもいい」発言にため息を溢した直後、涙を潤ませたままのマーガレットが目に独特の輝きを孕んで見上げてきた。その輝きには覚えがあった。マーガレットが何か突拍子もないことを思いついたとき特有の危険な輝きだ。

「な……何がそれなの?」

 マーガレットの“グッドアイディア”とミエルの“イタズラ”に散々振り回された経験から反射的に背を反らして距離を取りながら聞き返すと、

「ローズが男装して私の旦那さんのフリをすればいいのよ!」

 マーガレットの閃いた作戦こそ男装作戦だった。

 確かにローティーンの頃は男の子と間違えられたりもした。思い返せば遠い昔にラフレーズにも男だと誤解されていたこともあった。

 しかし、あれから十年あまりが経っている。女らしい趣味の一つも、化粧っ気もないとはいえ、当時真っ平だった胸はそれなりに膨らんでいるし、男の兵士に比べれば肩幅も狭く、腰もくびれて曲線美とまではいわずとも女らしさを帯びている。いくらなんでも十九の今男のフリは無理があるだろう。あまりに突拍子もない案にマーガレットがおかしくなったのではないかと真剣に心配し、答えることが出来ずにいると、

「面白いかもしれないよ」

 と、マリが男装作戦に賛同を示した。

「手配は『青い髪の女戦士』ってことになってる。ただ男装しただけじゃ顔つきや髪の色で疑われるかもしれないけど夫婦のフリをすれば男って先入観を与えられる」

「ねっ! そうでしょ!」

 賛同を得られてさらにテンションの上がるマーガレットにさらに拍車をかけるようにエバーも「なるほど」と感心した。

「バカをいうな」

 誰一人反論せずに満場(と言ってもたった五人だが)一致になりかけたことでようやく我に返って反論した。

「街に入るときの検閲を忘れたのか? 男装なんて身ぐるみ剥がされて検査されたら一発でバレる」

 あっ、とマーガレットとエバーは街に入ったときの屈辱的な検査を思い出して消沈したが、

「検閲なら心配ないと思うよ」

 数拍考え込んでから男装作戦をマリが支持した。

「なんでだ?」

「前に夕闇の城(ダスクフォート)で工作員が見つかったあと大軍が押し寄せてきたことがあったらしくて街の人たち逃げ支度しようって話してたもん。きっと門が開いた直後には人が殺到するよ。いちいち全員を裸にして検査する時間も人手もないに決まってるし、大勢を対応したあと疲れたころに行けば集中力も落ちて、検査も雑になるよ」

 検閲は魔法器具の持ち出しや危険物、機密情報の流出など監視するために奴隷は手伝い程度で正規の役人が行っているため人手が限られることは知っていたが、

「だが、触診くらいあるだろう?」

 俯くように視線を下げて自分の胸を示す。十二歳のマリはまだ発育途上で忘れているだろうが男女の違いは裸にされずとも隠しきれるものではない。

「大丈夫、胸にサラシ巻いてその上からなめした革巻けば触診ぐらい誤魔化せるよ。下の方は検閲官もわざわざ触って調べたりしないって言ってたし」

 まあ、確かに男同士で股間を触って調べるなどやる側もやられる側も願い下げだろうが……

「なんでそんな方法を知ってるんだ?」

「ギルドの先輩が前に男限定の依頼受けるのにそうやって変装してたから」

 屈託ない笑顔で答えるマリに思わず脱力してしまいそうになったが、

「だとしても、顔でバレるだろ?」

 顎のラインは細いし、額だって女は丸みを帯びている。どうしたって怪しまれるはずだと反論したが、「大丈夫よ」、「大丈夫ですよ」、「大丈夫だと思うよ」と三人が拍子をそろえて請け合った。

「なんでだ?」

「なんでって……」

 何を当たり前のことを、と言わんばかりにマリが呆れ口調でそういう言うと、

「だって」

「姉様」

 マーガレットがアイコンタクトでエバーに何かを示し、それを受けてエバーが心得たとばかりに頷き、

「「「カッコイイもの」ですから」もん」

 と、三人はまるで事前に打ち合わせたような連係で答えた。特にマーガレットは直前まで泣いていたとは思えない。あの涙はなんだったのか、と真偽を問い質したい気もしたが、そんな場合ではなかった。

 それよりも、三人が請け負ったからといってこの作戦は不安要素が多すぎる。ついでに――あくまでついでに――個人的にも釈然としないものがある。多数決ならばすでに勝敗は決しているところだが、この場の決定権は一応私にある(はず)なので何とか反駁しようと何か他に反論の糸口はないか、と考えていると、

「往生際が悪いよ、ローズ」

 マリが止めの一撃を加えるべく口を開いた。

「大体男装くらい大したことないじゃん。蜘蛛の森(シュピンネヴァルト)じゃムゴォ」

「クーシェは何か意見はないか?」

 生涯最大の恥辱を親友と部下に知られないために慌ててマリの口を塞ぎ、何とか状況を打破するためにただ一人沈黙を貫いていたクーシェに振った。

「私は別に……ロー姉の決定に従います」

 最後の頼みの綱であるクーシェは逃げの一手を打った。

 その後いくら考えても代替案が浮かばなかったためなし崩し的に男装作戦が採用された……というか押し切られた。

 ならばしかたないと、せめて『妻』の役を護衛対象であるマーガレットではなく(マリは幼すぎるので)エバーかクーシェに、と言った。しかし、練習してみたところエバーは変に緊張して使い物にならず、クーシェはマーガレットがやってみせたような会話の主導権を握り、『夫』をしゃべらせずに済ませるための話術が心許なかった。

 最悪の場合は血路を開いて城外まで逃げて、アルコンティアと合流。嫌がろうがなんだろうが無理やりにでもマーガレットも乗せてその場を退避するしかない、と腹を括ってこの博打のような作戦を決行したわけだ。

 

「もう! 上手くいったんだからいいじゃない!! 笑ったのは謝るからいい加減機嫌直してよ」

 少し進んだところにあった徒歩の旅人が休息するために拓いた待避スペースで追ってくるエバーたち三人を待っていると、切り株に腰を下ろして休んでいたマーガレットがいつまでたっても口を開かないローズに拗ねたような口調で訴えた。

「別に機嫌が悪いわけじゃない」

「だったらなんでいつまでも眉間に皺寄せてるのよ?」

「…………苦しいんだ」

 豊満とまでは言わないが、それなりにボリュームのある胸を触診でバレないようにサラシとなめし革で圧迫してガチガチに固めているのだ。苦しくないはずがない。

「できることならさっさと外して楽になりたいところだ」

 ――クククッ………………いいんじゃないか?

 苦々しく答えると笑いを押し殺したような声が耳ではなく意識に直接響いてきた。

「アル」

 ――良く似合ってると思うぞ

「……………………」

 ――鞍を嫌がった俺の気持ちが少しはわかっただろう?

 明らかに面白がっている物言いに軽口の一つ二つ言い返そうと心の中で言葉を選択している間に笑い含みの追撃を受けて選びかけた選択肢を破棄せざるを得なくなってしまった。確かにちゃんと理由があり、話し合って納得したこととはいえ鞍をつけることを嫌がったアルコンティアの気持ちが少しはわかったのでローズは言い返すのを諦めた。

「とりあえず、無事で何よりだ」

 ――大変だったみたいだな

 ローズたちより先に南門を出た旅人の心でも読んだか、あるいは外からでも中の様子を聞くことはできたのだろう、街中の出来事についてはおおよそ把握しているようだ。

「大変では済まない」

 ――で、これからどうするんだ?

「お前がマーガレットも乗せてくれれば……」

 ――断る!

 予想していた答えだが、あまりにキッパリとした拒絶には苦笑するしかない。

「まあ、そう言うと思ってたよ。ただ、そうなると私たちは徒歩で進むしかない。予定の倍はかかるだろうがそれ以外に道はないだろう」

 大きな街ならば馬も売っているし、街と街をつなぐ駅馬車や個々に雇える辻馬車もある。しかし、宿に踏み込まれて有り金を失ってしまった。その上、変装の小道具を揃えたりもして手持ちの金はわずかしかない。このままでは馬を買うことはもちろん値段の高い辻馬車も厳しい。駅馬車に乗るのを最小限に抑え、安宿に泊まってどうにか、といった懐事情だ。

 だが、駅馬車は使わないほうがいい。長距離を移動する旅人は多少なりとも金を持っているし、駅馬車には街と街を行き交う荷が積まれていることが多く野盗郎党の恰好の標的となっているからだ。たった四人では対処できる人数に限界があるし、いざというときアルコンティアに助けを借りるとしても他者の目に付いては疑惑を招く。

 銭荘ギルド(各国の大きな街に支部を置き、預金の引出しと両替を担うギルド)やルディア王国と繋がりのある商業ギルドから金を引き出すという手もあるが、そのためには身分を明かすという危険を冒す必要がある。この旅のために偽装身分の口座を作ってあったが、それも次に銭荘ギルドがあるくらいの街に着くころにはローチ将軍の手が回っていると考えておくべきだ。ルディア王国ゆかりの商人と接触するのは言うまでもなく危険。

 ――で? 俺はどうすればいい?

 アルコンティアに連絡係を頼んでヴィクトールと連絡をとる、という作戦もある。ユニコーンの脚力ならば単騎なら一日あれば往復できる。援軍や作戦変更の指示を請うことは可能。

 しかし、戦力分散は最大の愚。

 ただでさえ護衛がたった四人になってしまった現状で奥の手ともいうべきアルコンティアをすぐに駆け戻れない距離に離すことは危険だ。どの道、人手不足の西方軍がローズたちを支援できるほどの数と質の兵を送れるはずもない。

「移動手段が変わっても目的は変わらない。マーガレットの護衛だ」

 その後、追いつきたマリ、エバー、クーシェと合流して街道を進んだ。

 ルディア王国の主要都市を結ぶ街道は石畳が敷かれているが、今進んでいる道はイースウェア軍の物資輸送などもあるだろうに大勢の人馬が長年にわたって踏み固めただけの道だ。それでも特に速度を出さなければ馬車が横転するようなこともないだろう。もちろん歩き旅には何ら難はない。普通ならば。

 忘れそうになるがマーガレットは王女だ。王宮を抜け出して街に下りていたらしいが、それも短距離に限った話。長距離の移動は――脱走時は馬だが――もっぱら馬車。歩き旅での最長移動は昔ローズたちと行ったピクニック。数時間歩いたあたりから歩みが遅くなり、進むほどに足を摩るために立ち止まる頻度も増した。

「乗りなさい」

 もう幾度目かもわからないが、一メートルほど後ろでマーガレットが立ち止まった気配を感じてローズがしゃがみ、背に負ぶされ、と示す。

「へ、平気よ! ローズに荷物持ってもらってるんだからちゃんと歩くわよ」

 マーガレットの言葉の通り、だいぶ前にマーガレットの荷物はローズが引き受けていた。「自分の分くらい持つわよ」と主張するマーガレットから「『妻』の荷物を『夫』が持つくらいは優しさの内」と半ば無理矢理ローズが取り上げたのだ。

「自分の足で歩こうという気概は買うけど、これ以上遅くなると日が沈む前に樹海を出て一番近い町に到着することが難しくなる。いいから乗りなさい」

 ため息交じりに告げられ、渋々マーガレットがローズの背に負ぶさった。エバーたち三人は他人のフリをするため多少の距離をおいて後ろを歩いているが、何故かエバーが顔を赤くして黄色い叫びをあげていることが手に取るようにわかった。

 文字通り足を引っ張っていたマーガレットをローズが負ぶったことで格段に歩みが早くなり、何とか日没前には樹海を抜けることができた。

 開けた視界にビアンチエ大陸最大の湖リオペルス湖が夕陽を受けてその雄大な湖面を赤く染めて美しく輝く光景が広がり、その湖畔には今夜の宿となる町も見える。景色に見惚れて感嘆の吐息を漏らすか、野宿の心配がなくなったことで安堵の息を吐いてもいい場面。だが、ローズは込み上げてきた苦味に顔を歪め、その耳元ではローズの肩越しにその光景を見たマーガレットが、ウッ、と吐き気を堪えるような呻きを漏らした。

「どうしたの?」

 目の当たりにした光景に足を止めてしまったため着かず離れず歩いていたマリが追いついて訝しげに声をかけた。ヒョイと脇に並び、ああ、と声のトーンを落とした。

「ローズたちもスカラヴィルキ見るのはじめて?」

「ああ」

 隷園(スカラヴィルキ)――隷の園という言葉とは裏腹にそこ光景は決して目を覆うようなものではない。むしろ神々しくすらある。西は湖岸から東は地平線まで、北は樹海の縁から南は町まで広大な畑が広がり、そこには眩く輝く作物が植えられている。しかし、それは食物でも、飼料でも、もちろん花でもない。

「……これ…………全部……ゾエラーカノ………………?」

 同じく追いついたエバーが目の前の光景を疑うように呟く。

 命の芽(ゾエラーカノ)――まぐわいによって子を生し、姿を変じ、力を得ることを禁じた光の神(エルオール)が人間に与えた子孫を残すための手段。白く光り輝く葉が玉状に幾重にも重なり、その白光石(アルブマイト)やエルフの頭髪と同様の退魔の光をもって妖魔を退け、中の赤子を護り育てる。葉が開いて赤子が生まれた後、母親が葉を食べれば乳が出るようになり、葉をすり潰して水で溶けば乳の代わりとなって赤子の糧となる。

 例え妖魔の災厄がある地でも命の芽(ゾエラーカノ)ならば子が襲われることはなく、親もその光に護られる。そして、食糧に乏しい地でも乳呑み児の間は飢えを恐れる心配はない。神が妖魔から人を護り、生き延びて子孫を残すための術として与えた慈悲の仕組み。

 命の芽(ゾエラーカノ)自体はルディア王国でも目にする当たり前のもの。しかし、本来子を望む男女が我が子を作るため発芽させ、慈しみ育てるもの。普通は鉢植えなどに植えて屋内で大切に育てるし、それも一時に一株……多くとも二株が精々だ。家畜家禽を繁殖させるために大量に植えることもあるが今一面の畑を覆い尽くす大量の命の芽(ゾエラーカノ)は間違いなく人間の赤子を宿している大きさだ。つまり、

「これ…………全部が奴隷……」

 クーシェがうわ言のように口にした通り、神の慈悲の象徴ともいうべき仕組みを悪用したのが奴隷を生産するための農園、隷園(スカラヴィリキ)。その歴史は神話の時代の直後に遡るという。人間の欲が造りだした悪魔の所業。

「命の輝きがこれほど悍ましく見えるとは……思わなかったな」

 ローズが胸焼けのような不快な気分を感想と一緒に吐き捨てる。

隷園スカラヴィルキはきれいに光ってる分まだいいよ。ここでムカついてたらサーヴァケットの裏路地とか見たら内臓ごと吐いちゃうよ」

「「「「……………………」」」」

 ただ一人、すでに何度もこの光景を見ているマリの冗談とは思えない低いトーンの宣告にローズたちが固唾を飲む。

「まあ、私たちもこの畑の恩恵を受けてるんだからエラそうなことは言えないけどね」

「私たちはこんな酷いことに加担なんかしてないッ!」

 いつもの無邪気な様子とは打って変わって達観したような感情の起伏のないマリの言い草にエバーが噛みつき、ローズもわずかに眉を寄せる。

 ルディア王国がイースウェア公国と対立しているのはアクティース教の魔術排斥に由来しているからだが、アクティース教が妖魔に抗う貴重な術である魔術を排斥する理由こそ奴隷や生贄にある。だからルディア王国では奴隷制度を強く否定している。恩恵を受けていると言われる謂われはないように思えた。

「ふーーーん」

「な……何よ!」

 挑発的に鼻で笑うマリを挑戦的にエバーが見据える。

 スッ、とマリが手をあげた。一瞬エバーが身構えたが、別に掴みかかることもなくただ街道の伸びる先にある小さな宿場町を指し示す。

「私はあの町で宿をとるし、雇い主のローズと護衛対象のお姉さんも一緒に来てもらうけどアンタだけここで野宿する?」

「なっ……なんでそうなるのよッ!」

「あの町はこの畑に植えられた命の芽(ゾエラーカノ)の光で混沌の樹海グレガリオスフォレストの妖魔たちから護られてる。あの町に宿をとること自体がすでにこの国の奴隷生産システムの恩恵を受けることだもん」

 冷たく言い放つマリの言葉に、あっ、と小さく呻く。

「宿や食事だってそう。この国じゃ市民権を持つ平民なら誰だって奴隷を使ってる。掃除、洗濯はじめ宿の仕事だってほとんどは奴隷の仕事。主人がやるのは金勘定くらい。畑だって耕して、種まきして、収穫するのは全部奴隷の仕事。昨日、一昨日アンタが食べた食事もどっかしら絶対奴隷が使われてる」

「……………………うっ」

 一昨日の豪勢な食事が奴隷が鞭打たれて作ったものだと認識してクーシェが吐き気を覚えたように呻く。

「それに夕闇の城(ダスクフォート)だって結界魔法に護られてたでしょ。その結界魔法に生贄が使われていないなんてアンタ言い切れる?」

 止めの一言にエバーがうなだれる。

「酷いシステムだ、というのは簡単だがすでにその恩恵を受けていること。それに頼らなければ食事一つできない旅だということを自覚なければな」

 エバーの肩を軽く叩いて慰めつつ、マリの口にしたことを言葉にして自らに刻み込む。マーガレットとクーシェも何も言わず厳かに頷き、町へ向けて歩き出した。

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