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ルディア戦記  作者: 足立葵
第二話「閨門の白い木春菊」
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第十章 一日目――追憶・ローズ編

 出立の朝。

 城塞都市の開門時刻と同時に街に入り、そのまま閑散とした朝の街を進むローズたち一行を誰が見ても王女の輿入れのための旅立ちとは思えないだろう。まだ閑散としている街を蹄の音が石畳を打ち鳴らす音さえ気を配って進むようすは闇の中なら夜逃げといっても通るかもしれない。そうして忍び足で進み、東西を隔てる黄昏の城(クレプスケール)を潜り抜け、西側の街を一直線に抜けて西門へと向かう。

 二か月前までならば西門も同時刻に開き、西へ旅立つ商人や旅人が出ていっていたのだが、現在ではわずかな出入りもない。人通りがなければ獣人がいつ近づくとも限らない門を空けておく必要もなく、通行人ごとに門を開くようになっている。もちろん、ローズたち一行が止められるはずもなく、すんなりと通過して壁外へと踏み出した。

 まだ壁外に出てまだいくらも歩を進めない内にローズはこの部隊に抱いていた一つの危惧が的中したことを覚った。

黄昏の城(クレプスケール)から大して離れていないのにこれか……)

 歯噛みしながら心の内で呟く。

 ラフレーズをはじめ花園の守護者フローラルガルディエンヌ所属の近衛兵たちから伝わってくる過度の緊張感。彼女らは壁外に出ること自体ほとんどなく、出たことがあったとしても王族を警護するために盤石の警戒体制整えて進んだ経験しかない。しかし、今回の布陣は護衛団二十五名という盤石とは程遠いもの。まだ獣人も妖魔も気配すら感じられない程度の距離しか進んでいなくともその不安がにじみ出ている。

「肩の力を抜け! ガランス近辺までは獣人の数もさして多くはない。油断は禁物だが、今から緊張していては身が持たないぞ」

 一応指揮官として声をかけたが、何人かがこわばった顔をぎこちなく動かしただけで緊張が解けた様子はなかった。それは副隊長のラフレーズも同じであった。

 先導を案内役の部下に任せて、後尾につくラフレーズの元へと駆ける。

「ラフレーズ、少し肩の力を抜け、副隊長のお前がそれでは部下たちの不安を掻き立てるだけだぞ?」

「わっわ私が緊張しているっていうの!?」

「無理な意地を張るな。それにお前は妖魔との戦闘経験もあるだろう?」

「ええ、だから緊張なんてしてません」

 無駄に意地を張るラフレーズ少佐の態度になぜか懐かしさを感じつつも再度嘆息する。

(この分では少し不安だな)

 今はよくとも精神をすり減らしては明日の晩が持たない。

「周辺を見回ってくる。少しの間指揮を任せるぞ」

 そう告げ、アルコンティアを意識で促し、隊列から離れる。

 離れ際にふと馬車を見れば、窓際に座るマーガレットの姿が見えた。いよいよブルトルマン帝国に向けて出立ということで、ついに空元気さえ使い果たして俯いているマーガレットの顔は白髪に覆われて消沈していることがよくわかる。

(そうか……さっきの感覚は)

 強がるラフレーズの姿とマーガレットの弱り切った姿が出会ったころの姿と重なり、十年前の記憶を甦る。

 

 スタリア王国の滅亡後心を病んでしまったマーガレットは王宮に帰ることを頑なに拒み、しばらくは現在ヴィクトールが住んでいる王族の別邸に留まっていたそうだ。

 しかし、騎馬もヴィーヴルも傍に在る場所に置いておいてはいつ無謀な行動に及ばないとも限らない。そこで国王は黄昏の城(クレプスケール)の街から遠い山間部に屋敷を用意し、見張りと世話役としてお付きの者数名をつけて静養させることにした。

 私は村はずれにあるその屋敷の管理人をしていた祖父と二人で暮らしていた。元貴族の別荘だった屋敷は交通の便の悪さから長年今の持ち主も訪れなかったのだが、

「今日だよね? 新しい持ち主の娘さんが来るの」

 朝食を終えて庭の手入れする祖父を手伝い、雑草を刈りながら少し離れたところにしゃがみこんでいた祖父に問いかけた。

「ん? ああ、今日だ」

 少し前に持ち主が変わったという連絡と新しい持ち主の娘がさっそく来るという連絡を受けた。おかげで食材の買い込みやら掃除やらで大忙しだったのだ。

「でも何しに来るの? まだ街だってそんなに暑くないでしょ?」

 高地にあるこの屋敷は元々は避暑のために造られた別荘だ。確かに季節は夏に向かっていたが、まだ避暑に来るには早い上に娘だけというのも不自然な気がした。

「詳しくは聞いとらんが持ち主の娘さんは静養にくるらしい」

 祖父も持ち主が変わったとは聞いていたが、新たな持ち主が王族とは聞いていなかった。雇われている側にすればちゃんと給金をはらってくれれば誰でも同じだし、すぐに持ち主の身内が来るならばわざわざ手紙のやり取りをして確認をとる必要もなかった。

「セイヨウって?」

 ルディア王国では町や村には学校があり、子どもたちは十歳までそこで読み書きと簡単な計算、そして歴史を習うが、その言葉は聞いた覚えがなかった。

「んん? お前らも疲れたり病気になったら休むだろう。人の多い都会では休めない人がこういう静かな土地で養生することを静養っていうんだ」

 丁寧に説明してくれたが、今度は養生の意味が分からなかったのでその意味を尋ね、ようやく皆が理解するに至った。

「じゃあその娘病気なの?」

「さあな、病気か、ただ静かに過ごしたいだけか……どっちにしろ静かに過ごしたくて来るんだ。その娘がおる間は友だち入れたりしちゃいかんぞ」

 牧草地にも近い屋敷の庭は村の子どもたちのいい遊び場になっていた。

「わかった。みんなに言っとく」

 しかし、子どもの好奇心というのはどんなものにも向けられる。今日から屋敷の敷地に入っちゃダメ、などといえばなぜと問われ、仕方なしに新しい持ち主の娘が来るからと答えればどんな奴が来るのか見に行く、と言い出す者が現れるのはある意味当然の帰結だった。そんなやり取りの結果、午後学校が終わってから屋敷の門前には村の子どもたちが集まっていた。

「アンタ羊や牛ほっといていいの?」

 門前に集まった村の子どもたちの中でもリーダー格の悪ガキであるトマに横目で睨みつけながら詰問する。村の子どもの大半は午前に学校へ行き、午後には家の手伝いをする。まして初夏のこの時期は牧草が生い茂り、いろいろな作物を育てる働き時の季節。遊ぶ時間すら乏しい季節に油を売っている余裕などあるはずがないのだ。

「だーいじょーぶ。ペロは優秀だから」

 ペロとはトマの家で飼っている牧羊犬である。

 犬に任せてくるなんて、と嘆息していると聞きなれない轍の音が近づいてきた。門の前で一度止まり、従者が二人降りてきて鉄の門を開く間、止まった馬車の窓から垣間見えた少女の姿を見とめて背筋に怖気が奔り、ブルリと身震いした。

 真っ白な肌はいかにも良家のお嬢様といった風。顔立ちもあどけなさを残しながらもスッと通った鼻筋や顎のラインは美少女と形容するに相応しく、虚ろな瞳がガラスのように見えたのも当時の私たちには別世界の住人という幻想的表現で通るものだった。しかし、たった一つ、抜け落ちたように真っ白な白髪が寒気をもたらした。

「ウワッ何? アイツ」

「真っ白な髪だったよね?」

「病気で白くなったのかな?」

 ルディア王国に限らず白や白に近いプラチナブロンド、シルバーブロンドの髪をした者はいるし、ルディア王国内にはいないがエルフの髪も白く輝くブロンドだと聞いていた。しかし、馬車の窓越しに見えた少女の髪は不思議と病的な印象を与えた。例えるなら魂が抜け落ちたとでもいう白さだった。

 少女の白髪に感じた怖気に追い立てられるように子どもたちは散っていった。そして、その日以来、少女が静養のために来たという話と実際に少女を見た子どもたちの印象から、病気が移る、といって村人も屋敷には近寄らなくなった。

 祖父も少女の病気がうつることを懸念したのだろう。私に「なるべく屋敷に近寄らないように」と言い付けあまり仕事を手伝わせないようになった。それから私が屋敷に近づく用事といったら、庭や野山の花を摘んで侍女の人に渡すことくらいだった。

 月日が過ぎ、緑に覆われていた木々が色づき、赤や黄に染まっても少女は屋敷に留まっていた。その頃になると花も散ってしまい、私はとんと屋敷に近づくことがなくなった。侍女や給仕とは出入りで何度か顔を合わせ挨拶くらいするようになっていた。他に屋敷の庭で白髪の少女とは別に私とおなじくらいの年齢の赤毛の少女が剣を振っている姿も何度も見たが、こちらは私を見ると髪と同じくらい真っ赤になって顔をそむけてしまうのであいさつさえしたことがなかった。

 秋が深まり、冬も目前になったある日、もう花は無いがそれでも雪の降る前に最後に彩りある植物をと思って葉の落ち難い紅葉した枝葉や赤い実や越冬のため綿毛に包まれた蕾が銀にも見える枝など精一杯の彩りを集めていたときだった。

「花は無くともずいぶんと華やかなものですね」

 幾度か聞いた穏やかな声に振り返ると執事が立っていた。

「キミのおかげでさびしい屋敷にも彩りがあって助かっています」

 どうも、と短く頭を下げる。元々舌足らずな面はあるが何よりそれ以外になんと答えていいかわからなかったからだ。

「ローズちゃんでしたね?」

「どうして私の名前を?」

「キミのお祖父さんから名前を聞きましてね。どうでしょう。お嬢様のお相手をしていただけませんか?」

「相手?」

「今までは私共が時折沢や野花の咲く丘など外にお連れしていましたが、これから雪が降るとそうもいきません。貴女ぐらいの年頃の女の子というのは会話が好きなものですからお嬢様の気を紛らわせる話相手になっていただければと思いましてね」

 正直私に向いているとは思えなかった。村の女の子の多くは母親から機織りや家事などを習い、過ごすので村の中で過ごすことが多い。対して数年前に祖母を亡くし、以来祖父の男手一つで育てられた私は庭仕事や屋敷の手入れなどどちらかというと男手の仕事を手伝っていたので村の女の子たちと話す機会はあまりなかったし、何よりあまり口数の多い方ではなかったからだ。

「病気なんですよね?」

「大丈夫ですよ。お嬢様のご病気は人にうつる類いのものではありません。どちらかというと気の病ですから」

 気の病? と疑問符を浮かべた私に「驚きや悲しみが深すぎて心が深く傷ついた状態です」と執事は丁寧に説明してくれた。

「じゃあ話しかけても無駄なんじゃないんですか?」

 いいえ、と執事は優しく、しかしきっぱりと首を横に振り、熱い説得の声で続ける。

「気の病ほど話しかけてあげることが何より大切なのです」

「それならあの赤毛の娘がいるじゃないですか?」

「ラフレーズはお嬢様を主人と考えてしまっているため、あまり気さくに話すことができませんからただの友だちとしては不適切なんです」

 気乗りはしなかったがこれ以上上手くかわすこともできそうになく、はっきり断る、はぐらかす、渋々折れる、の三択で迷っていると、

「突然話して今すぐとはいいません。雪が降り出して、雪にも飽きたころに応えを聞かせてください」

 そういうと丁寧にお辞儀して屋敷へ向かって踵を返し、行ってしまった。

 そうして赤や黄に染まった木の葉が枝にぶら下がる力を失って地面を彩る絨毯となって短い秋に終わりが訪れ入れ替わるように、絨毯の上に少女の髪のような白い雪が降り積もって冬が訪れた。

 雪に覆われた村は恐ろしいまでにすることがない。女の子は機織りや針仕事を習ったりするがそれとて限られているし、男の子はさらにやることがない。唯一家畜相手で休みの無い酪農家たちは麓の町に下りている。だから村に残った子どもたちにとって冬はかなりの時間が自由に使える貴重な季節なわけで、雪の降り止んだ日ともなれば当然、

「ヒャッホーーーー!」

 冬場狭い家に閉じ込められていた村の子どもたちは有り余る元気を爆発させるように歓喜の叫びをあげ賑やかに遊んでいた。屋敷の近くにある丘は村からもほど近く、急な天候の変化にもすぐに帰れる安全な遊び場であることと屋敷の敷地でもないことから数か月ぶりに子どもたちが集まった。

 白い斜面を滑り降りてはソリを引いて戻る。単調な遊びだがそれが不思議と楽しく止め難い。何十回目かの滑走を終えてソリを引いて登る道中一人が呟いた。

「アレ見て」

 振り返り、丘の頂上とは異なる方向を指差す友人、その指し示す方にはあの屋敷があった。暖炉の火が煙突から煙を吐いていること以外は特に例年と変わらないように思われたが、

「気味悪ィな」

 別の友人の呟きでアレが屋敷そのものではなく、その窓からこちらを窺う人影をさしていることに遅れて気がついた。

 窓から覗く姿は額に収められ飾られた絵のようだった。黒い窓枠が額縁となり、明るい色の壁と暖色の絨毯が彩る様は暖炉の炎以外雪が解けるまで暗色か、雪の白しか目にできなかった当時の私にとって眩しいものだった。しかし、絵の題材とも言うべき少女は絵具を塗り忘れたように真っ白で、雪景に慣れた私たちにも何か寒々しく感じられた。

「そんなこといっちゃ可哀そうよ」

「混ざりたいのかもね」

 と別の友人たちが非難した。

 しかし、私にはその少女が自分たちに混ざりたいと思っているわけではないように思えた。

 何か別のものを見ている、漠然とだがそんな気がした。

 視線を気にしていた友人たちも屋敷から見ているだけなのでそれ以上気にすることなく雪合戦やソリ、雪像作りなど日が傾くギリギリまで遊び、さて帰る前に最後に一滑りしていこう、と丘を登って屋敷と村を見下ろしたときだった。

「あれ?」

 異変を声に出したのは先ほど屋敷の少女に気づいた子だったが、今度はその声に示されるまでもなく私も気がついていた。村の中央にある広場に大人たちが集まっていた。冬の、もう日が暮れようという時間に集まる理由に思い当たるものといえば、

「雪崩でもあったのかな?」

「いや、違うと思う」

「なんでだよ」

 雪崩は雪の降る山村にとって死活問題だ。しかし、雪崩が起こりそうな前兆を見つけたらすぐに村に報せ、村人を避難させる必要がある。だが、そもそも雪崩の被害が起こりにくい場所に村ができるわけだし、万が一村にまで届くような場所で前兆が見つかったならこんな時間まで私たちが遊んでいられるはずもなく、呼び戻されて即避難のはずだ。

「雪崩なら大人たちが呼びに来るはず」

「ならなんなんだよ?」

「わからない……けどできるだけ早く戻った方がいい」

 どの道最後の一滑りのつもりだったのだから反対する子もおらず、頷くとみんな急いでソリに乗り、欠片も楽しめずに、ただ帰るためだけにソリを奔らせた。

「まだ戻らねえのか?」

 村に戻ると大人たちに聞くまでもなく騒ぎが耳に入ってきた。私たちが遊んでいた丘とは村を挟んで反対側にある山に入った狩人が姿を消したと村が騒然となっていた。

「戻ってねえ」

 別の村人が答えて、山を見た。

 その狩人が姿を消したのは獲物を追い込んでいたときのことだという。隠れようのないなだらかな斜面へと追い立て、そこで姿を消した狩人が止めを刺す手はずだった。しかし、追い立てるために走らせた猟犬の悲鳴に慌てて駆けつけると猟犬は爪牙で切り裂かれ殺されており、急いで相方の狩人待ち構えているポイントまで行ったが相方の姿もなく、追い込んでいた獲物を引きずって行ったあとがあるだけだった。

 戻らないのはベテランの狩人……とはいえ、何かの事故の可能性は十分にある。少ないとはいえ中途半端冬眠から覚めた熊に襲われたということもありうる。しかし、冬眠しているはずの熊がこんな時期にいることよりも猟犬と狩人を襲い獲物を掻っ攫っていったものの正体が妖魔である可能性が懸念されていた。

 ルディア王国にはほとんど妖魔は出ない。外部からの妖魔はほぼすべて東西の長城に阻まれ、侵入できず、国内にいた妖魔はほぼすべて長い歴史の中で駆除されている。

 しかし、ほとんどであって皆無ではない。

 黄昏の城(クレプスケール)の光が届かない死角、高度から国境警備の網を掻い潜って侵入する妖魔が希にいる。クリュスタッロス山脈の高高度、人間や普通の妖魔は近寄れない極寒地帯に生息する特殊な妖魔が雪の積もったこの時期は人里近くまで迷い下りてくることもある。

「とにかく探すのは夜が明けてからだ。今探しに出たら二次遭難のリスクがデケぇ」

 騒ぐ大人たちの中心で村長が叫ぶ。

「明日一日探して見つかんなきゃ、麓の町に連絡を出す。今夜はできるだけ火を焚いて静かに過ごすことだ。いいなぁ!!」

 重々しく了解する村人たちの顔を見渡して村長が頷き、その日は終わった。

 そして、翌日、一日を費やして捜索したが狩人は見つからなかった。

 それどころか捜索に駆り出された村人がさらに二人も姿を消し、村は恐慌した。

「連絡は出した。……数日の辛抱だ」

 村の広場で自然と開かれた昨夕の会議とは違い村長の自宅に集められた各世帯主に向かって村長がなだめるように言った。

 ほとんどの地域で中央軍が管轄する国内の妖魔退治だが、この地方に限っては西方軍が管轄している。村から西寄りに山を降りたところには黄昏の城(クレプスケール)の東端にあたる城壁塔と要塞の中間のような小城があり、そこには駐留軍がいる。連絡に出た村人が麓に辿りつくまでに一日、報せを受けた軍が到着するまでに半日から一日、討伐がどれほどになるかは不明だが軍が来れば一安心と言える。

「ローズちゃん屋敷の連中に伝言頼むよ」

 余所者である屋敷の住人は捜索にも駆り出されなかったし、事情もほとんど伝えていない。しかし、村はずれとはいえ村民である私と祖父には村の共同作業に参加する義務がある。そして、妖魔の可能性が強まった以上、数日間大人しくしておくという決定だけは伝えねばならない。その役目が祖父の代理で出席していた私に任せられた。

 まだ九歳の私がこの会議に参加していた理由は他に出るべき家族がいなかったからだ。父母はいない――ことになっている。祖母も数年前に亡くなった。そして、残された唯一の家族であった祖父が昼間の捜索に駆り出され戻って来なかった。

「わかりました」

 逆らっても無駄なことを理解していた私はただ一言了解の意思を伝えると立ち上がってすぐに村長の家を後にした。

 屋敷へ戻るとそのまま祖父の居ない小屋を見ないようにして真っ直ぐ母屋の扉まで行き、ノッカーを叩いた。

「何の用ですかな?」

「…………――ッ」

 応対に姿を現したのはいつもの執事だった。少女のお付きをしているだけに穏やかな雰囲気で迎えてくれたせいで一瞬泣き出しそうになったが、何とか泣き出すことなく伝言を伝えた。

「なるほど、ただの遭難ではなく妖魔の可能性がある、と。……困りましたな。せめて遣いを出す前に知っていればもっと素早い対処ができたものを」

 この時はまだ意味が分からず首を傾げただけだったが、執事の言葉の意味は「マーガレット姫が居る村であることを伝えれば飛竜部隊あたりを先遣隊として派遣させることもできたものを」という意味だった。

「ラフレーズ!」

 執事が呼ぶとすぐに例の赤い髪の少女が姿を現した。子ども用の軍服はないので士官学校の制服で代用していたが、当時の私はそれが士官学校の制服とは知らず「屋敷の中でそれなりに遅い時間なのに乗馬服を着ているなんて」と思った記憶がある。その上、例によって私を見て顔を赤らめていたため、この時までのラフレーズに対する印象は「変な奴」以外の何ものでもなかった。

「……なんでしょうか?」

 少し私に視線を釘づけにした後で照れたような妙な表情を無理やり引き締め、一般人の私がいるため敬礼こそしなかったが、直立不動の凛々しい立ち姿で問う。

「近くに妖魔が出ている恐れがあるそうです。すぐにお嬢様のお部屋に行き窓から明かりが漏れぬようにカーテンを閉めなさい。それと万一に備えて火を絶やさないように」

 今度は敬礼しそうに右手が少し動いたが敬礼と読み取れるほどまで上がる前に思い止め、返答だけ返す。その後でチラリと私に視線を向け、私と目が合うと慌てて回れ右して駆け足でお嬢様の居室に向かった。

「ありがとうございました、ローズちゃん。夜一人で大丈夫ですか?」

「大丈夫です。この屋敷は塀に囲まれてますし、事件のあった山も村の向こうですから大人しくしてれば一番安全ですから」

「そうですか。何かありましたら気兼ねなくこちらに来てください。部屋は空いてますし、私もラフレーズも多少の剣の心得がありますから」

 執事の親切に、ありがとうございます、とできるだけ丁寧に礼をして扉を閉めた後の記憶はない。どうやって庭番の小屋まで戻ったのか、どうやってベッドに潜り込んだのか、翌朝目を覚ますまでの記憶は一つもない。

 ドンドンというノックの音に無理やり意識が引きずりあげられた。

「ん、何? じぃ……」

 祖父ちゃん、と声に出しかけて祖父がいないこと、居たとしてもノックで起こすような部屋などないことに思い至る。そうして寝ぼけた頭が覚醒している間にもノックはしつこく繰り返されていた。小屋の扉をノックするのは屋敷の人間だけなので一応雇われの身である以上無視するわけにもいかないのでノロノロと起き上がり、戸を開ける。

「アンタ村の子でしょ。なら山には詳しいわよね? 案内しないさい」

 扉が開けられるや否やラフレーズが高圧的に用件を告げた。口調は措いたとしても内容もここで仕事を取り仕切っている執事の許可を得ているとはとても思えなかったので無言のまま扉を閉めようとすると、慌てて片脚を滑り込ませて無理矢理扉を閉められないようにして、

「ちょっ……ちょっと、待ちなさいよ!」

「なんでしょうか?」

 あえてうやうやしく使用人口調で聞き返す。

「ひ、お嬢様直属の護衛の私の命令聞いて無視して扉閉めるってどういうことよッ!!」

「アンタその命令執事さんの許可とってるの?」

「べっ別にアンタに関係ないでしょッ! アンタは使用人じゃないんだから」

「使用人じゃないんだったらアンタの命令も聞く必要なし。以上終了」

 言い切るが早いか、全体重をかけて扉を閉めようと引っ張る。

「イタッイタイイタイイタイイタイッ」

「なら抜けばいい」

 革靴越しでもさすがに全体重+扉の重量に圧されては痛いらしい。が、容赦なく引き続ける。すると腰に携えていた刀を外し、鞘ごと刺し込んでテコの原理で体勢の不利を補い始めた。そればかりか、乱暴に刀を動かして取っ手を握る私の手を叩きはじめた。格闘すること数分手にダメージを受けた私が取っ手を放して敗北した。

「で? 今山に入りたい理由は?」

 冬の凍てつく空気の中繰り返し叩かれて傷む手をさすりながら問う。どうせ押し入られてしまったのだ。こうなったら理由を聞いたうえで論破して追い返すしかないと思った。

「あたしとアンタで妖魔退治に行くのよ!」

 どうよ、と胸を張って言い切るその誇らしげなドヤ顔をたっぷり数秒見つめてから、

「バカ?」

「はあ? 誰がバカよッ!」

「Eランクの妖魔一匹狩るのだって大人の軍人が何人も必要だって知らないの?」

「そりゃあ、有象無象の雑兵なら数人がかりでも無理よ。でも、あたしは強い! だから、普通なら数人は必要な護衛任務をたった一人で仰せつかったのっ!!」

 もし私がもう少し世情に通じていたら「仰せつかった」なんて大仰な、と思っただろう。だがこの時は、町の人間なら当たり前の範疇だろう、と気にも留めなかった。

「だとしても雪道でロクに歩くこともできないヤツに何ができる?」

 雪が降ってからも三日に一回は剣を振るうために外に出てきていたラフレーズがその度に屋敷の扉から稽古をしている庭の木までの短い道のりで何度も転んで尻もちをついているのを私は目撃していた。

「みっ……見てたの!?」

「見られてないと思ってた? 第一雪に尻もちの痕が残ってるんだから現場見てなくてもそれでわかる」

 ラフレーズは顔を真っ赤にして手を後ろに回して臀部を覆う。どうせこの小屋に来るまでにも何度か転んだのだろう。

「そんなんじゃ妖魔にやられる前にすっ転んで谷に落ちるのが……」

「アンタお祖父さんを助けたくないの!?」

「――――――ッ!?」

「今のところ猟犬以外死体は見つかってないどころか、血痕も見つかってないんでしょ?」

 昨日一応知っている情報を執事に話しておいたので彼から聞いたのだろう。確かに狩人たちの得物も行方不明の狩人も捜索中に姿を消した祖父ら二人も死体はおろか血痕すら見つかっていなかった。

「つまり、その妖魔は獲物を生け捕りにしてる可能性がある。昨夜この辺りに出る妖魔を図鑑で調べたけど捕らえた獲物を生きたまま氷室みたいな洞窟に閉じ込めて保存する妖魔もいるってことだったわ。ってことは一日でも早ければ可能性があるでしょ」

 仮にラフレーズの推測が正しいとして子ども二人で何ができるわけでもない。しかし、祖父がまだ生きていて助けられるかもしれないという誘惑はそのときの私には抗いがたいものだった。私はラフレーズの挑発に乗って山を案内することにした。

 

「ベックショッイッッッ!!!」

 乙女の可愛らしさも騎士の気品もない派手な音とともに飛沫を撒き散らしたのは私ではなくラフレーズだ。

「寒っっっっいっっっ!!!」

「グチるくらいなら戻る?」

 一応防寒着のコートは持っていたラフレーズだが、あくまで都会人の感覚での防寒着だった。雪山では通常の防寒着の上に火崗岩ラーヴァニティスの小片を埋め込んだスケイルメイルのような防寒着を着ることよって暖を取り、同時に暖を嫌う寒冷地の妖魔を牽制するというスタイルが常識だったが、当然ラフレーズはそんなものを持っていなかった。

「戻んないわよ! っていうか黙って案内しギャンッッッッッ!!」

 はぐらかしていたが屋敷の庭で転ぶほどのラフレーズは雪山歩きでは村の子どもにはるかに及ばない。私が何気なく進んでいる道でも彼女にとっては悪路もいいところだ。歩く速さだけでもウサギとカメほどの開きがあるのにカメの方が度々転ぶものだから遅々として進まない。

「………………」

「何よ?」

 ラフレーズは自分では強気で睨んでいるつもりだったのだろう。だが、目端に涙を浮かべて、尻もちをついたまま睨み上げるようすは強気に見えるどころか意地っ張りな妹のような可愛げを醸し出すだけだった。

「何とか言いなさいよ!」

「さっきは黙って案内しろと言ったくせに今度は何かしゃべれ……か。勝手な奴」

「うっうるさいわね! それよりこっちの方に本当に妖魔がいるんでしょうねッ!?」

「何を言っている? 私は妖魔がどこにいるかなど知らない」

「ハアアアアアァァァァァッッ!?」

 そもそも妖魔の姿など誰も見ていない。妖魔ではなく特別凶暴な熊と言う可能性もゼロではない。あくまで妖魔だった場合に備えて軍を呼んだに過ぎず確信があるわけではない。

 ――が、どうやらラフレーズ私が妖魔のいる場所を知っていると思っていたらしい。

「じゃあ何!? あたしたちは何の当てもなくこんな寒い山を歩き回ってるわけ!?」

 落胆の大きかったラフレーズは起き上がろうとついていた両手を広げて大の字にひっくり返ってしまった。

「……当ても無しじゃない」

「当てがあるっての?」

 首だけ器用に起こして問う。

「昨日行方不明になった二人が探していたのはこっちの方だと村長が言っていた」

「何だちゃんと当てがあるんじゃない。ならさっさと行きましょ」

 テンションの持ち直したラフレーズがヒョイと体のバネを生かして飛び起き、私を抜き去りながら言う。しかし、その勢い任せの歩みは数歩しか持たなかった。

「キャッッッッッッ!!!」

 しかし、再び転んだことにラフレーズは命を救われた。

 当時の私の腕ほどもある巨大な氷柱が飛来し、一瞬前までラフレーズの胸があった空間を矢のように貫き、私の両足の間の雪に突き刺さった。氷柱の刺さった場所が凍りつくので慌てて跳び退る。

「グオォォォッッッッッッ!!!」

 獲物に攻撃を躱され、姿を隠すメリットを失ったと思ったのだろう、立ち上がった妖魔が怒りにまかせて吠えた。

 全体的に熊に似た妖魔だった。体長三メートルの熊に似た巨躯、白い毛並みはダイヤモンドダストを纏っているかのようにキラキラと輝いていた。伏せて動かなければ雪と見分けはつかないだろう。氷柱を飛ばすという獣ならざる攻撃が運よく外れなければ周囲に妖魔がいるなど殺されるまで気がつかなかっただろう。飛来した氷柱の正体は白い巨熊の爪牙。ガラスのように透明な爪牙は目の前に突き刺さる氷柱の矢と間違いなく同じものだ。

 猛り狂った咆哮と先制の攻撃さえなければ美しさを感じたかもしれない。

「なっ……何よアレ」

 ラフレーズの呟きが呼び水になったように熊に似た妖魔が前脚を振り上げた。ただの熊なら爪牙が届く距離ではない。しかし、氷柱の矢という攻撃を受け、熊の前脚に生える透明な爪は真ん中の一本が抜け落ち、同じものが四本生えている。二つを結びつけるのは当時の私にも難しくはなかった。

 尻もちをついたままのラフレーズの首根っこを掴んで斜面に転げ落ちるように回避した。一瞬の後、風切り音と次いで背後の雪に何かが突き刺さる擦過音を捉えた。

「ちょっとなんで逃げ……」

「他に何ができるッ!?」

 当時の私にはあの熊の妖魔が私とラフレーズのどちらを狙っていたかはわからなかった。しかし、逃げなければ二人ともやられていただろう。遠距離攻撃を狙って妖魔が距離をとっていたために逃げる余地があったことも幸いした。半ば転がるように雪まみれになりながら斜面をがむしゃらに走る。

 巨獣が雪を吹き飛ばして駆ける音が背後に迫る。振り返るまでもなく、数十秒もそのまま追いかけっこを続けていれば、追いつかれてガラスのような爪で私もラフレーズも引き裂かれていただろう。だが、

「跳ぶぞ!」

「はっ? えっ……キャァァァアアアアア―――――ッッ!!!」

 ラフレーズの甲高い悲鳴が山々に谺するのを聞きながら私たちは崖を落下した――というほど長く落下はしなかったが。飛び降りた場所は僅か数メートルの崖で普段でも命にかかわるようことはないし、まして冬場は雪のクッションが受け止めてくれるので心構えなく落とされたラフレーズもケガなどはなかった。

「イッタァ~~なんなのよッ! もう!!」

 雪の中から立ち上がりながらラフレーズが悪態を吐く。

 私はといえば転落死の危険がないことを理解して飛び降りたので妖魔の手を逃れた安堵が大きかった。妖魔は、と思い出して頭上をふり仰げば顔を突き出し

「グルルルゥゥゥゥゥ~~~~~」

 という恨めし気な唸り声をあげるだけで追って来る気配はない。

「なんで追ってこないの?」

「あの巨体ではここにうまく着地できないし、無事に降りて来れても戻れないだろ?」

 私の言葉を聞くまで降り立った場所がどんなところか確認してなかったらしい。改めて周囲を見回して身を竦ませる。

「あんまり乗り出すなよ、死ぬぞ」

「見りゃわかるわよッ!」

 背後の絶壁に背をピッタリとくっつけて噛みついてきた。私たちが降りたのは崖の下に突き出た小さな崖で辛うじて私とラフレーズが着地できる程度の面積はある。しかし、体長三メートルの妖魔が降りて来るには狭すぎるし、仮に下りて来ても足場がなく私たちを押し潰すか、蹴落としてしま上に戻ることも難しい。

「妖魔が追ってこられないのはわかったけどこれからどうするのよ!?」

「どうにかなるように見える?」

 以前ここに大人の羊飼いが落ちてしまったときでさえ、自力で登るには危険すぎるので村の大人が救出する騒ぎになったのだ。ロープも無しに女の子二人で登るなど夏場でも大博打、ましてあちこちの岩の表面が凍りついている冬場に登ろうなど自殺行為だ。

「どーすんのよ!? さっきの氷の矢みたいなの撃たれたら逃げ場ないじゃない!!」

「獣は意味のない殺しはしない。私たちを氷の矢で射殺すことができたとしても引き上げることができないから撃ってこない…………はず」

 村の猟師から「獣は意味のない殺しはしない」という話を聞いたことは事実だが、それはあくまで普通の獣相手のこと、長距離攻撃など持たない獣と長距離攻撃を持つ妖魔を同列に考えていいものかどうかはわからない。

「はず!? どーすんのよ、撃って来たら!?」

「ここに飛び降りなかったら今頃あの爪の力で氷づけか妖魔の腹の中だったんだ。それとも他に何か方法ある?」

 私の言い分に反論の糸口がなかったのだろう、ラフレーズは悔しそうな表情をしたもののそれ以上ここに飛び降りたことを追及するのを止め、代わりに話題を変えてきた。

「ねえ、アレなんていう妖魔なの?」

「この辺の妖魔はすべて図鑑で覚えてるんじゃなかったっけ?」

「載ってなかったから聞いてるんでしょッ!?」

「載ってないのを私が知るわけない。図鑑に載ってなかったならそういうこと」

 一瞬、私の言葉を吟味してから、

「新種……………………なの?」

 こくり、と頷く。

 おそらく冬眠中の熊が産んだ仔が妖魔だったのだ。妖魔の起源は神話で語られるようにまぐわいによって生された獣が代を重ねることで力を増し、姿を変じたもの。そして、現在も光の神(エルオール)がまぐわいによって仔を生すことを禁じていることからも分かる通りそれは現在も続いている。人間に飼われる家畜は人間が神の定めた儀によって繁殖させるが野生の獣はそうはいかない。故に野生の獣から新たな妖魔が生まれることがある。

 新種はまだ獣に毛が生えた程度の強さ、つまりEランクか高くともDランクがせいぜいでそれ以上の妖魔が生まれることはない。しかし、下級妖魔とはいっても既知の妖魔よりはるかに手強い。人間は長きにわたる生存競争の中で生活圏の近くに棲む妖魔の特性、弱点を学び折り合いをつけている。だが、新種は特性が詳らかにされてきた既知の妖魔とは異なる妖魔。力は同じでも攻撃法も習性も未知の存在なのだ。

「なら、新種だって伝えなきゃ」

 確かに氷の爪を矢のように飛ばすという攻撃法、さらにその爪が刺さったものを凍らせるという能力、知っていると知らないのとでは大きな違いがあるだろう。

「でも、どうやって?」

「ふっ二人で肩車……とか」

「無理。私たちの身長じゃ高さ足りない」

 三メートル弱の岩の壁を上からの助けなしに登るには登山用の靴とピッケルでもなければ無理だろう。

「それより風を凌いで明日か明後日に来る軍の人たちを待つことを考えた方がいい」

 岩壁を登る案が現実的でないということをラフレーズも渋々認め、私たちは周囲に在る雪をかき集めて小さなかまくらを作った。周囲にあったわずかな雪しか使えなかったため壁は薄かったが雪はこれから降り、吹きつける雪で補強されるだろうから問題はない。二人で入ると身動き一つできないほど狭かったが、暖をとれるものが二人の体温と私の身につけていた火崗岩ラーヴァニティスだけだったので狭いこともむしろ好都合だった。

「寝るなよ」

 ラフレーズが船を漕ぐ気配を感じて軽く小突いて起こす。かまくらの中でわずかばかり暖をとっているとはいえ暗くなると同時に吹雪きはじめた冬山で寝れば凍死してしまう。

「う……うん」

 頷いたものの慣れない山歩きの疲れもあってか再びラフレーズの頭がユラユラと揺れる。

「ねえ、なんか話しなさいよ」

「何を?」

「何でもいいから!」

「無駄話とか苦手だからそっちがしゃべって、ちゃんと答えるから」

「あたしから……って言われても……」

「フー、自分ができないクセに私に言ったの? 勝手なヤツ」

 年齢は同じくらいでも片や都会育ちで(この時は知らなかったが)元貴族のお嬢様と田舎者の山娘では共通の話題などあるはずもない。ラフレーズも無茶振りとは自覚せずに振ったのだろうが私もまだ十歳になる前の少女だった。

「なっ……――アンタって冷めてるわね」

 雰囲気から察するに一瞬頭に血を昇らせたようだったが、すぐに皮肉げに切り返した。

「そう?」

「身内が妖魔に殺されたかもしれないっていうのに平然としてるじゃない」

「平然としてられるならアンタのバカな誘いに乗ったりしてない」

 何かせずにはいられなかったのか、それとも単に捨て鉢になっていただけなのか、あるいは本当にラフレーズ言葉に一縷の希望を見ていたのか、今でもわからない。しかし、一つだけ言えるのは祖父のいない小屋に堪えられたなら子どもの身で妖魔退治などという無茶に付き合ったりはしていなかったということだ。

「それに……さっき妖魔に襲われたとき…………アンタは咄嗟に対応できてた」

 自分で口にした言葉の所為で自分の失態に目を向けてしまったラフレーズが沈んでいくのがわかった。

「あたしは……何もできなかった。…………ううん、それどころかアンタに助けてもらわなきゃきっとあのまま死んでた」

 暗いかまくらの中でもラフレーズの落ち込んだ表情が見える、そんな錯覚を覚えるほどにトーンの下がった声にいたたまれなくなり何とか慰めようとした。しかし、何と言っていいのかわからなかった。そして、私が少ない語彙の中から言葉を探している内にラフレーズの声は八つ当たりの色を帯び、私の鼓膜に突き刺さった。

「あたしは騎士なのよッ!! なのに……なんで一般人のアンタに後れを取るのよッ!?」

 従軍し、幾度となく命懸けの戦いを経験する中で咄嗟に動ける者と動けない者とがいることを知った今でもその理由は答えられない。まして、命懸けの経験などはじめてだったこの時の私には答えられるはずもなく、それからしばらくは悔し涙を流すラフレーズの嗚咽を聞いて過ごした。その後、吹雪が止んだらどうやって明日私たちの居場所を知らせるかという前向きな相談をして夜を越した。

 

「気をつけろよ」

 翌朝、吹雪が止み陽の光が射しているほどの好天だったため夜のうちに気がついた一つの案を試すために私たちはかまくらから這い出した。狭い足場に気をつけながらペタペタとかまくらを叩いて強度を確かめる。

「行けそう?」

 雪の強度などわからないためただ隣りで見ているラフレーズの問いに頷く。昨日は少ない雪で辛うじて壁を作れただけだったが、一晩続いた吹雪のおかげでかまくらの壁は分厚く補強されて子ども二人の体重くらいなら十分に支えてくれそうだった。

『雪で階段作れば登れるんじゃない?』

 というラフレーズの一見突拍子もなさそうな案に光明が見えた。頑丈なかまくらが子どもの体重くらいを支えるには十分な強度を持っていることを知っていたので試してみることにしたのだ。話し合いの結果、鍛えているから、というラフレーズの主張と、雪を足場にするなら私の方が得手、という理由でラフレーズが先に上がることになった。

 ラフレーズを押し上げ、上がったラフレーズが差し伸べる手を握り、なんとかよじ登り、斜面をわずかに上ったときだった。

 ザシュッ

 降ったばかりの新雪を踏む音を耳が捉えた。

 ザシュッ

 聞き違いを疑う間もなく二度目の足音が聞こえてきた。私のものでも、ラフレーズのものでもない全く別の音。雪山に不慣れで歩くことに全神経を注いでいるラフレーズは気づいていなかった。音の出どころがどこなのかわからなかったが、咄嗟にラフレーズを突き飛ばすよにして倒れ込んだ。

 シュッ

 と、下を向いた私の後頭部の上で風切り音が鳴った。直後に音を立てて雪に突き刺さった氷矢。それとは反対側に首を振ると、雪原を転がる雪玉のように駆けてくる白い姿が迫って来た。彼我の距離が縮まるのに反比例して増していく死の恐怖が全身を竦ませる。

「逃げるぞッ、ラフレーズ!」

 同じように竦んでいるラフレーズに呼びかけ、助け起こすことで自分自身を叱咤して逃げようとしたが、立ち上がったラフレーズは何を狂ったか、シャリンッ、と――おそらく特注であろう――剣を抜き放ち、妖魔へ向かって構え立ちはだかった。

「何してる!? 早く来い」

「ああああたしはアイツをたたたっ倒すために来」

 恐怖でガチガチと歯を鳴らしながらそれでも強がろうとした口上を言い終えることもなく、眼前に迫った巨躯が氷の爪牙を振り薙いだ。

 ガキィーーン

 甲高い金属音とともにラフレーズの構えていた剣が払われ、掠めた氷の爪が服とラフレーズの腕と胸を引き裂いた。前脚に押し倒されたラフレーズの顔に妖魔の牙が迫った。

「ラフレーズを放せえぇぇぇぇぇぇええええええ!!!」

 今思えば無謀の極みだが、そのとき私は近くに突き立っていた妖魔の氷の爪を抜いて剣か棍棒のように振りかぶって、ラフレーズを救うべく妖魔に殴りかかった。――が、もちろん、子どもの腕力で氷の棒で殴りかかった程度では妖魔はビクともしなかった。耳元を飛ぶ煩いハエを払うように軽く払われ氷柱は砕けた。

 だが、妖魔の気が私に逸れた一瞬に押し倒されていたラフレーズが鞘で妖魔の鼻面を強かに叩いた。

「グォォォオオオオオッ!!」

 怒った妖魔が前脚でラフレーズの胸を押さえつけ、剥き出しにした牙を頭蓋を噛み砕くために近づけた。

 もうダメだ、少し離れたところで起き上がりながら私の脳裏に諦めが過ぎった。おそらくラフレーズも覚悟を決めていただろう。しかし、物事の因果というのは不思議なものだ。分別ある大人ならば逃げようとして殺されるしかなかっただろうが、私たち二人の無謀な行動がまったく違う結末を手繰り寄せた。

 ギシィ

 不吉で巨大な軋みに獲物に噛り付こうとしていた妖魔でさえ動きを止めた。山で暮らすものなら幾度となく聞いたことのある音の発信源は数十メートル先の雪原。そこには妖魔の腕力で吹き飛ばされたラフレーズの剣が突き刺さっていた。降ったばかりの新雪に突き刺さった剣を中心として左右に細い線が奔っていた。そして、その線は更なる軋みとともに左右に伸びて上下に開く、まるでゆっくりと口を開くかのように。

 音を立てることを恐れるように妖魔がラフレーズの胸を押さえつけていた前脚をソロリと持ち上げ、ゆっくりと後退った。

 しかし、妖魔の恐れなど一顧だにせず雪原に奔った亀裂は広がり続けた。

 妖魔から解放されたラフレーズの元に駆け寄り、引き摺って少しでも亀裂から遠ざけた。

 数秒後、亀裂が限界に達した。瞬間、雪煙が舞い上がり、白い津波へと化して私たちに向かって滑りだした。

 表層雪崩。短時間に大量の降雪があった場合などに発生しやすい雪崩の一種。その速さは時速二百キロメートル。ユニコーンでもなければ逃げることはできない。その破壊力は妖魔といえどおそらくDかEランクの小物に耐えられるようなものではない。

 発生までのわずかな間にラフレーズを引き摺っていた私は再び崖下へと飛び降りた。もちろん妖魔がどうなったかなど見ている暇などない。かまくらの真上に墜落し、崩れたかまくらの中から目の前を舞い落ちていく白い滝が途切れるまでただ呆然と眺めていた。

 

 ――ほう、そんなことがあったのか

 手綱を取る必要がない分歩みをアルコンティアに委ねて思い出に浸っていたローズの心をアルコンティアは読んでいた。

「勝手に他人の心を読むな」

 ――で、その後どうなったんだ?

「まったく……あとはラフレーズの止血をしながら救助を待っただけだ。幸いにも村からの連絡を受けた駐留部隊の指揮官はマーガレットがいる村だと知らされていたからその日の夕方にはヴィーヴル部隊が先行して駆けつけてくれてな。館にいた執事がラフレーズの単独行動を伝えたおかげで日没前には救出されたよ」

 直前に雪崩があったこともあって空を飛べるヴィーヴル部隊は真っ先に雪崩のあった場所を探してくれた。もし、あのまま夜を越すことになっていたらラフレーズは出血多量で死んでいたかもしれない。

「おっ、止まってくれ」

 思い出に浸りながらも周囲の索敵は当然続けていた。前方にコボルトを見つけた。おそらく、獲物を探しに出てきたのだろう。五頭(人)の少数の群れだ。ローズとアルコンティアの敵ではないが、周囲を見渡し、ある程度の位置を記憶してから、本隊に戻るようにアルコンティアに伝える。

 ――いいのか?

「アルなら一瞬で片付くだろうがそれでは明日の晩が不安だ。ラフレーズたちに経験を積ませた方がいい」

 わかった、と答えてアルコンティアが騎首を反転する。

「クーシェ!」

 本隊に戻ると馬車の側面を固めていたクーシェの名を呼ぶ。

「はい」

「この辺りの地理は頭に入っているな?」

 この問いにもクーシェが「はい」と答えたので獣人を見つけたポイントを伝える。

「ラフレーズ! お前と部下九名でこの先にいる五頭のコボルトを退治してこい。場所はクーシェに先導させる」

「見つけたならなぜ退治してこない!?」

「まったく獣人との戦闘経験なしで明日の晩を過ごせると思うのか? 自分たちの手で倒せば自信に繋がり、緊張も解ける。隊員に経験を積ませてやろうという隊長心だ」

 声を上ずらせて噛みつくラフレーズに有無を言わせず、命じると、ラフレーズがおそらく腕の立つ順に選抜した九名を率い、クーシェに先導されて隊列を離れていった。

「大丈夫でしょうか?」

「ラフレーズは腕が立つし、他の連中だってそれなりの腕はあるだろう。いるとわかっていて向かうんだ、二対一なら大丈夫だ」

 不安そうにエバーに問われて、太鼓判を押すが、

「いえ、副隊長たちもそうですが……クーシェが……」

「クーシェはあのときのことを引きずっているのか?」

 牙の城(クロチェスター)撤退戦の折り、クーシェは獣人に咬み殺されかけた。強気で兵士たちの中では腕の立つクーシェだが、その経験がトラウマになっていないとも限らない。もしかしたら、親友のエバーには何か弱音を吐いているのではと少し不安になって問い返す。

「そんなことはないですが……ちょっと心配で」

「なら自分の番の心配もしなさい? 次はエバーに先導してもらうんだから」

 ローズの一言にエバーの顔が強張る。

 同様の訓練を二回ずつ計四回こなした。

 こうして周囲の獣人たちを狩りながら進み、キャンプ地についてからも周辺の獣人の群れを狩った。ただでさえ、ガランス近辺まではアルコンティアの気配に慄いて獣人が近寄って来ないことが確認されていたが、着実に進んでいった結果マーガレットの乗る馬車に獣人を一頭(人)たりとも近づけずに行程一日目の夜を乗り越えてしまった。

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