第九章 引波
ルディア王国で王女マーガレットが祖国で過ごす最後の一日を過ごしていたちょうどその日、ブルトルマン帝国の帝都ブルートアイゼンでは講和条約締結のための全権大使として使節団を率いてルディア王国へ赴いていたツァールトリヒト元帥が溜まってしまった仕事を片付けるために仕事に勤しんでいた。
「閣下」
忙しい最中でも顔に不機嫌さも疲れも欠片も浮かべることなく、取り継ぎを任せている部下の声にツァールトリヒト元帥が書類から視線を上げる。
「何か?」
「エールリヒ長官がお見えです」
「エールリヒ殿ご自身が? 使いの者ではなくて?」
使いの者ならばわかるが本人が事前の連絡もなしに来るとは思えず問い返すが、部下は、はい、と肯定する。
「今日お見えになると連絡を受けていましたか?」
今日は統括領で着手している軍港建造に関して資材の調達、職人の手配、物資輸送の打ち合わせなどのためひっきりなしに人と会う約束をしていたので自身の記憶違いかと思い、右手の執務机で作業している副官に確認する。
「いいえ、間違いなく連絡を受けてはおりません」
「約束がないのでしたらお引き取り願いましょうか?」
火急の用件ならともかく、仕事が立て込んでいるところに事前の約束もなしに来られて益体もない問答に付き合わされるのは不本意だ。用件だけ確認させて後日返答するというのが望ましいが、
「国務長官直々の来訪に門前払いは失礼でしょう。お通ししてください」
十数分後、複数ある応接室の一つでツァールトリヒト元帥はエールリヒ長官と向かい合った。
「突然だったので驚きました。本日はどのようなご用件で?」
「右文左武のツァールトリヒト殿なら言わずともお察しのことと思うが?」
突然の来訪に悪びれることもなくエールリヒ長官は傲然と皮肉で返す。本来なら突然の来訪を詫びた上で用件を切り出すべきはエールリヒ長官の側なのだが、元々穏やかな気性のツァールトリヒト元帥が言及しないことをさも当然のように振る舞う。
もっともツァールトリヒト元帥が儀礼的とはいえ見当いるはずの用件をわざわざ尋ねたことに苛立っている面もあるだろう。内政を預かる内務長官なら軍港建造に関して様々なかかわりを持つし、それ以外にも用件はいくらでもあり得るが、国務長官が訪れるとなれば用件は国交問題に限られる。現状ツァールトリヒト元帥が抱えている国交問題はたったの二つ、統括領に接するヴラドニアと和平の使節団を買って出たルディア王国しかない。
「ルディアとの和平の件……ですか?」
「もちろん、その件です」
「その件でしたら先日もお答えした通り、まだルディア側から連絡はありません」
「ルートも輿入れの時期に関してもですか?」
「ルートが決まらなければ時期など決められるはずがないではありませんか」
嘆息したいのを堪え、辟易した表情を柔和な笑みの下に隠して丁寧に答える。
ルディア王国から帰国してからというものエールリヒ長官は執拗にマーガレットの入国ルートと時期を問い合わせてきていた。
「貴公が戻られて半月は立つのですぞ」
「エールリヒ長官、気が急くのもわかります。ですが、ルディア王国側も和平の成立のためにもマーガレット王女の身の安全を第一に慎重に方法を考えているのです」
ルディア王国でマーガレットの入国ルートを決めた会議にツァールトリヒト元帥が参加していたが、その決定された内容をエールリヒ長官には伝えていなかった。なぜなら、
「第一空路での入国を拒否なさったのは貴方ではありませんか」
帰国後、マーガレットがルディア王国を出立する前に何とか空路での入国を認めさせようと動いたツァールトリヒト元帥の前に立ちはだかったのはもちろんリスティッヒ元帥――ではなく、彼に協力し、発言力の弱まっている彼に代わってエールリヒ長官だった。外国を担う国務省のトップに反対されてはいかに元帥とはいえ強行はできなかった。
同じ『聖伐』反対派であるはずのエールリヒ長官が突然敵に回ったことにはツァールトリヒト元帥も驚きを隠せなかったが、賢明なツァールトリヒト元帥は動揺を抑えて自分がいない間に反対派に何があったのかを調べはじめた。そして、敵味方を区別し味方と確信できる人物以外には情報を開示すべきではない、と考え皇帝にすらマーガレットの入国がすでに決まり、ルートも定まっていることを伝えてはいなかった。
「当然でしょう。南東部は先ごろルディア王国の攻撃に晒されたばかりなのですぞ!」
「南東部の被害の大半はリスティッヒ元帥が強行された作戦のためでしょう」
「確かに、実際に引き金を引いたのはリスティッヒ殿だ。だが、そもそもにおいてルディアが侵攻してこなければリスティッヒ殿があのような策には出る必要もなかった」
「そうした見方もできるでしょうが、民も和平をのぞんでいるのです。前もって触れを出せば歓迎こそすれ拒否するとも思えませんが?」
「しかし、前回のきっかけであるルディアが今再び大軍を持ってく飛来すれば民の恐怖心を刺激し、不安を掻き立てることになるでしょう」
帰国後同じような言葉の応酬を幾度繰り返したことか。
何とか考えを変えてもらおうと交渉を重ねたが、言葉を武器に外交交渉で出世してきたエールリヒ長官はのらりくらりとツァールトリヒト元帥の言に詭弁で返すことを繰り返し、決して空路での入国を認めず、今に至ってしまった。
「そもそも大軍で、という限定なのですから王女と少数の護衛で来ればいいだけのこと。どうせ人質なのだから姫だけ寄こせばいいでしょう」
「無茶をおっしゃる」
「無茶ですと?」
「ルディアほどの大国の王女の輿入れともなれば体裁というものもありましょう」
「ほう!? 国と国との条約よりも王族の見栄が大事だと?」
「王族の権威を穢すような真似は即ち国の威信に関わります。それに王女の身に万が一のことがあれば和平そのものが白紙に戻りかねません」
ブルトルマン皇帝は今回の和平を認めたとはいえ、内心は快く思っていない。だからこそ溜飲を下げる意味合いで条件に人質としての輿入れを咥えたのだ。その輿入れが成らないとなれば再度条件の見直しに応じるとは限らない。それに国境を越えてから王女の身に何かあったとなればルディア王の方が憤り、宣戦布告しないとは言えない。
「幾度となく言いましたが、飛竜ならば獣人を恐れる必要もないでしょう」
「懸念すべきは獣人だけではない、というだけですよ。多くはないとはいえ怪鳥の類も折りますし、南東部は現在妖魔、獣人の騒ぎが治まらず、加えてそうした治安の悪化に乗じる野盗郎党もおりますから」
「治安回復にはリスティッヒ殿が責任を持って当たられている」
「だからと言ってすぐに効果が得られるわけではありません」
「ではルディアは治安が回復するまで王女の輿入れを拒否すると?」
「拒否とは申しませんが嫌厭して遅らせる可能性はありますね」
「そうしてのらりくらりと時をかけることで両国の関係が拗れたらどうするのです? それにルディアは時間をかけることで条件を有耶無耶にする腹かもしれないのですぞ?」
エールリヒ長官はことさら嫌味に問いかける。
「ルディアほどの国が内約に至った条約の内容変更を軽々しく求めたりはしないでしょう」
「そのような無根拠ともいうべき曖昧な理由で敵を信じると!? ツァールトリヒト元帥は何と甘いことをおっしゃる!!」
芝居じみた口調で嫌味に拍車をかけたエールリヒ長官だったが、
「外交を任される国務長官ともあろう方がそのような軽率な発言は問題ですよ」
「何?」
ツァールトリヒト元帥の言葉とめずらしく蔑むような表情にここまで嫌味な笑みを貼り付けていたエールリヒ長官の顔が怒りに歪む。
「内約とはいえ条約に同意を得た以上、すでにルディアは友好国というべきです。まだ正式に条約が結ばれていないことを加味しても敵と呼ぶべきではないでしょう」
「ウグ……」
「昨日の敵は今日の友と言うではありませんか。こちらの信頼と誠意を示すことで彼らも応えてくれます。講和条約を結ぼうという相手を指して敵などと呼ぶような真似は愚か以外の何ものでもないですよ」
「なんッ……きさ……」
ツァールトリヒト元帥の嘲るような調子の諫言にすでに怒りに歪み赤らんでいたエールリヒ長官の顔さらなる怒りに紫色に変色していく。
「……輿入れの遅れで両国の関係に傷がつけば外交を担う貴公の責任ですからなッ!!」
何とか呼吸の仕方を思い出してそう言い捨てるとエールリヒ長官は足どり荒く退室していった。
「益体もない相手に無駄な会話お疲れさまです」
エールリヒ長官と入れ替わりに入室してきた副官が告げる。
「そうでもありません」
無駄な時間と労力を費やしたようにしか見えないエールリヒ長官との会話にツァールトリヒト元帥は意味があったと言う。その意味が理解できずに副官が首を傾げる。
「帰国してから調べましたが、国務省の利害関係上はもちろんエールリヒ長官の身辺にもリスティッヒ元帥に協力することで得られる政治的経済的メリットはありませんでしたね?」
「はい」
「つまり、エールリヒ長官がリスティッヒ元帥に協力するのは政治的利害はもちろん個人的な利害でもない。しかし、現に自ら足を運んで嫌がらせに来るほどに妨害に熱心です」
「あの方は元々誰彼かまわず人の神経を逆撫でするではありませんか」
そう、たしかに御前会議でヴォルフ元帥を挑発していたようにエールリヒ長官は武官に対して友好的ではない。だから、部下を寄こしたり、こちらの説得に応じないだけだったり、といったこれまでの遠回りなやり方では確証を持てなかったが、
「ええ、ですから私も確信を持てなかったのですが……エールリヒ長官が自分やリスティッヒ元帥の利ではなく、私の害になることを選んで動いているのではないか、と愚考しましてね」
「それであのようならしくない真似をされたのですか?」
「慣れぬことはすべきではありませんね」
苦笑を浮かべながら見つめる手のひらには室内の明かりを受けてジットリとした汗が光る。らしくない真似をして少なからず神経を使ったらしい。ツァールトリヒト元帥にとっては誠意と合理性の説得よりも悪罵によって相手の神経を逆撫ですることの方がよほど神経を使うことらしい。
「あの反応を見るにどうやら私はエールリヒ長官の癇に障ってしまったようですね」
エールリヒ長官の外交手法は他国との友好関係を築くものではない。侵略すべき国家に対して国主の悪行を探し出し、それを大義名分に解放軍として進行するか、敵国をうまく挑発して先に戦いの口火を切らせることを第一にしていた。逆にブルトルマン帝国に反攻を企む国に対しては国内の不和を煽り、隣国への不審を掻き立てることで抑え込んできた。要するにエールリヒ長官は他人の疑心暗鬼を掻き立てたり、挑発するのに長けているのだ。
そのような外交を行ってきたエールリヒ長官が両国の関係に傷が入ることを恐れることは考え難い。まして、彼は自身がルディア王国をまだ『敵』として認識していることを垣間見せた。にもかかわらず関係が拗れた場合のことを懸念し、あまつさえ責任がツァールトリヒト元帥にあると言い捨てていった。
「ですが、どうして?」
副官が驚きを露わに呟く。
「私にも理由はさっぱりです」
ツァールトリヒト元帥はかぶりを振る。
「できるだけ人から恨まれるようなことはしないように心していたつもりなんですが……」
ツァールトリヒト元帥の言葉に副官が激しく同意する。この上官に限って人から恨まれるような行動をするはずがない、と確信していることが良く分かる心の籠もった同意だ。
「しかし、私のような若造が元帥の地位にあることを考えれば嫉みの類もあるでしょうし、気をつけていても軍人などしていれば怨みを買うこともありますから考えても仕方ないですね」
考えても応えの出るはずのない疑問を頭の隅に追いやり、目の前に山積している問題へと思考を向ける。
「それより、進んでいるならばマーガレット王女の出立はまもなく……もしかしたらもう出国なさっているかもしれませんが。もうしばらくは王女がイースウェアを通過するということを彼に知られないようにする方がよほど重要です」
「この件に関する情報は麾下の者にも特に徹底させています」
「より一層念を押してください。外交を担う彼ならばいくらでもイースウェアに情報を流す手段を持ち合わせているでしょう。そうなれば止める手立てもなく、王女たちはイースウェアの中で孤立してしまいます」
「王女の一行を支援する手はずを整えた方がよろしいのでは?」
「それはかえって危険でしょう。私たちの動きでバレてしまう危険があります」
「でしたら、逆に陽動として動かすのはいかがでしょう。鉄の森かスタリア地域へ手勢を向かわせれば妨害者の注意を逸らせることができるのでは?」
少し考えてから、いいえ、と首を横に振る。
「悪くない案ですが、リスティッヒ元帥の統括領へ勝手に手勢を動かせば越権行為になってしまいます。それにあちらで和平に賛同的な……グロスマン将軍辺りに頼むとしても手勢以外に情報を伝えることは漏洩のリスクを高めます。ただの囮では見合わない危険でしょう」
「では、ルディア側の人員だけに任せるのですか?」
「不安ですか?」
心配そうな副官の表情を読んでツァールトリヒト元帥が聞き返す。
「……不安…………というよりも歯がゆいのです」
いくらか内心を吐露することを躊躇ってから副官が告げる。
「この件が失敗するようなことがあれば閣下のお立場が危うくなります。そのような重要なことを他人に任せきりにして何も打つ手がないというのは……」
「そうですね、確かに私も何もできないのはもどかしく思います」
ですが、と一度言葉を切り、
「ラズワルド准将が護衛に加わっているのです。大丈夫でしょう」
「あの若い将軍がですか?」
敬愛する上官が妙に信頼した声で敵の将軍の名を呼んだことにわずかだが副官の声に険が籠もる。
「業績は奇跡にも等しいものですが……だからと言ってまだ二十歳前の若造ですよ? あのように安易に激情に駆られるような小娘を当てにしてもいいものでしょうか?」
夕食会での光景を思い浮かべて副官は不安を示すが、ツァールトリヒト元帥は「歳が若いのは私も同じことです」と笑む。
「むしろ、あの若さで中佐まで駆けあがった実力の方をこそ評価すべきでしょう。それに帝国軍でもわずかな者しか知らなかった『聖伐』の情報を得ていたヴィクトール殿があの場に同席させ、随員として強く推した方です」
「はあ、そうならいいのですが……」
「賽なら投げた後は祈るだけですが、人ならば動き出した後は信用することが大切ですよ。王女を大切に思っている彼女ならやってくれます」
軍人よりも教師か牧師でもしている方が似合いそうな暖かいセリフを口にした直後に、それより、と口調を変える。直前の口調が暖かいために絶対零度まで下がったのではないかと思えるほど急激な変化。
「エールリヒ長官の他に『聖伐』推進派に回った方がいないか調べ、王女を受け入れる体勢を整えることの方が先決です」
ツァールトリヒト元帥の声は静かなものだった。しかし、その声に副官はブルリと震え、背筋を正した。副官はツァールトリヒト元帥声に普段の凪の海のような平和的な穏やかさはなく、嵐の前の静けさに似た空恐ろしい感覚を覚えていた。久しく聞かなかったが副官はこの声音を知っていた。かつて二度だけ聞いたことのある声音は平和主義者のツァールトリヒト元帥が不可避の戦いに臨むときの覚悟の声。
エールリヒ長官とリスティッヒ元帥を『敵』として排除するしかないと断じた決意の表れだった。




