終章
マーナガルムの気配が木々の騒めきとともに遠退くのに合わせて周囲に満たされていた深海のような畏怖の圧力と森の暗闇がわずかに薄らいでいった。
ローズが知らない内に詰めていた息を吐く。
精神的な疲労がどっと押し寄せ、視界が揺らいだような感覚を覚えた。
それでも辛うじて倒れずに済んだのは隣りに佇む仲間が目に見えてグラついたからだ。
「アルコンティア!!」
緊張の糸が切れて倒れそうになるアルコンティアの身体を全力で支えながら声をかける。
肩を押しつけるようにして支えるとアルコンティアの毛並みから暖かい液体が染み伝ってローズの肩を濡らす。
「しっかりしろッ!」
微睡むように下がっているアルコンティアの瞼が空恐ろしい。
「ゲンナディオス!」
多少物理的距離があろうとも意思の声に支障はないことは三日間の戦いで学んでいたが、それでも叫ばずにはいられなかった。
「ゲンナディオス!!」
しかし、ローズの懇願の叫びは木々に木霊して虚しく掻き消えるだけでゲンナディオスは答えない。
「聞こえているだろ、ゲンナディオス!アルコンティアが酷い怪我なんだ手を貸してくれ!」
木霊したローズの叫びは森中に響き渡ったはずだし、そう遠くない距離にいたゲンナディオスがローズの意思を感じとれないはずはない。
数十秒――感覚的には十分近く――返事を期待して待ったが一向に返事はない。
仕方なしにアルコンティアを支えながらブロンテー川へと向かって歩き出す。物理的な距離は街道とブロンテー川は大差ないが、ブロンテー川にはブルトルマン軍の軍船が停泊している可能性が高い。一刻を争うであろうアルコンティアの治療を急ぐために河を目指す。
――ゲンナディオスは…………優しいな
ゲンナディオスを呼ぶことを諦め、河原へ向かって歩きはじめて少ししてからアルコンティアが弱々しく呟いた。
「優しい?」
意外な言葉に問い返す。
――一族の墓を荒らしたものは決して許されない
アルコンティアが寂しそうに告げた。
――一族の長としてゲンナディオスはオレを裁くはずだった
ローズにマーナガルムと対する武器を与えるためにアルコンティアは一族の墓から遺角を持ち出した。ユニコーンの価値観、掟は知らないが、人間の基準でいっても生易しことで許されるとは思えない。
――なのに……ゲンナディオスはオレを見逃してくれたんだ
姿を見失ったことを建前に「見逃した」ということはもっと重い裁きだったということだ。それを見逃した、あるいは重傷を負ったアルコンティアは長くないと判断したのかもしれない。この傷では助からないかもしれないし、助かったとしても群れを作って生きる生き物が単独で生きていくことは難しいからそれ自体も結果は同じなのかもしれない。
「お前はこれからどうするんだ?」
――これから、があればの話だろ
何時になく弱気な返しに罪悪感が重く圧し掛かり、喪失の恐怖が寒気をもたらす。
「あるさ。私がお前を死なせない!」
幸いマーナガルムの畏怖の余波だろう、アラグラーソの仔蜘蛛たちも妖狼魔犬も獣人も襲ってくる気配すらない。
力強く宣言して肩にかかる加重を押し返しながら足を進める。
「アルコンティア、私とともに来ないか?」
自分を助けるために群れを、家族を失ったアルコンティアを治療だけして野に放つなどしたくない。ローズには彼に新しい居場所を提供する義務があるし、義務など無くとも恩に報いずに忘れることなどできない。
まだできたばかりで薄い森の香に混じって水の臭いが漂ってくる。ブロンテー川までそう距離は無い。事が終息した今ブルトルマン軍がローズに力を貸してくれる保証など何一つないが、ローズはブルトルマン軍が助力してくれると信じて疑わなかった。
水の臭いが増し、森が開けてきてようやくアルコンティアが答えを返す。
――人に飼われる気はない
こんな時でも――いや、こんなときだからこそか、気位の高さは相変わらずだった。
「戦友を飼ったりはしないさ」
――戦友?
「ああ、戦友だ。もし、もっと居たい場所ができたら発ったっていい。だから、それまで私と共に過ごそう。軍はお前の好みには合わないかもしれないが、お前が堪えられないようだったら……そうだな、ブレッドたちみたいに傭兵にでもなればいい」
口にしてから、それもいいな、といくらか本気で思った。
煩わしい権力闘争に悩まされることもなくなるし、小さくとも町の人々の助けになることはできる。軍を止めたらミエルとの約束を反故にしてしまうことになるが、彼女もきっとわかってくれるだろう。ジルはきっと笑って見ていてくれるはずだ。
――戦友というなら、お前というのは止めろ
親しい間柄でも呼び方というのは様々だ。出会った時から呼び慣れてしまいファミリーネームで呼び合う場合もあれば、ニックネームをつける場合もある。円熟した付き合いになると名前を呼ぶこと自体希になることも間々ある。
しかし、アルコンティアの価値観では「お前」は嫌なのだろう。
「……わかった。しかし、いつもアルコンティアでは呼び辛いな」
軍人同士ではファミリーネームに階級をつけて呼び合うことが普通だが、アルコンティアにファミリーネームはない。ニックネームを考えるよりはシンプルに愛称で、
「……アルと呼んでいいか?」
――…………………………………………
否定も肯定もなかったが、照れるような感情が伝わってきた。
満身創痍のアルコンティアを連れてようやくブロンテー川の河原へと出て、瀬に停泊していたドラグーンシュトックに救助を求めた。連日の戦闘による疲労と多量の出血でアルコンティアは危ない状態だったが、シッファー少佐という船長の計らいで早急な治療を受けられたことでどうにか危うきを脱した。
「お疲れさん」
ファーデンの外れにあるシュテフィの知人だという酪農家の厩を借りてアルコンティアに安静な寝床を提供し、寝かしつけ、ようやく息を吐いて厩の外に出てきたローズに労いの声が投げかけられた。
「ブレッド……そっちこそ市民を纏めての卵採集お疲れ様」
「お前に比べりゃどおってことない」
肩を竦めて至極軽い調子で答える。
「休んだらどうだ?」
「…………ああ…………」
「…………どうかしたのか?」
ローズのどこか気の抜けた返事を訝しんでブレッドが問う。
並々ならぬ大妖魔と連日連夜の死闘を繰り広げ、その後も一昼夜アルコンティアに付きっきりの看病をしていたのだ、疲れがないはずはない。
「……………………」
しかし、ローズは眠気など無いように見える……というより何か思い悩んで睡魔すら付け入ることができずにいるように見えた。
「……何も……」
しばし、沈黙してからようやく零れた一言は誤魔化すためのものかと思った。しかし、
「……何もできなかったよ」
寂しげな口調で自嘲する。
「……何も? そんなことないだろ」
ローズがいなければこの事態がどうなっていたかはわからない。
しかし、マーナガルムを鎮めるために皆が――官民はおろか国の垣根まで超えて――協力し合うということは成しえなかったことは疑いない。
「いや……何もできなかった。アルの助けがなければマーナガルムに傷一つつけることさえできなかった。マーナガルムを鎮めたのも私じゃない。ゲンナディオスがいなければ事態はもっと悪い方に傾いていたかもしれない」
ゲンナディオスというのが誰なのかブレッドは知らなかったが、ユニコーンの一頭だろう、と推測した。
「だが、ローズがいなけりゃマーナガルムを呼び戻し、鎮めようという行動自体起こせなかったんだ。確かに危ない橋だったかもしれないが結果オーライなんじゃないか?」
「私に何ができた?」
ブレッドの慰めを聞いて、自嘲の色を濃くして自問し、
「アルに罪を犯させ! ゲンナディオスの助けを借りて! その間私はアルの背で大した力にもなれずにいたんだッ!!」
吐き捨てるように自答する。
結局、自分は何一つ成してはいないのではないか? それが事態の終息とともにローズを苛んだ悩みだった。
アルコンティアは一族を追われることになることを覚悟でローズに力を貸してくれた。
なのに、自分は何の代価も無しに、彼に比べれば無きに等しい労で、ただ成果と名声を得たのではいないか?
「シッファー少佐にあっただろ?」
「あ……ああ」
唐突に切り替えられた話に戸惑いを覚えながらもその名が二人をファーデンまで送ってくれたブルトルマン軍船の船長の名だと思い出した。
「彼意味もなく笑ってなかったか?」
この問いには首を傾げる。ドラグーンシュトックの中ではアルコンティアの手当に必死で船長の顔など見ていなかったし、何よりマーナガルムを鎮めることに成功したという事実で湧き返った船内で笑顔を見せていても何の不思議もなかったからだ。
「彼はマーナガルムの遠吠えだけで笑顔が取れなくなったんだそうだ。その話を俺に話したとき少佐は『人には触れてはならない領域がある』と言ったし、俺もそう思う」
「ああ、私もそう思うよ」
「お前が見てきたのはその領域の戦いだろ」
「――――ッ!?」
「マーナガルムは言うまでもないし、ユニコーンだってBランクだがその力は実質Aランク。人間にしたら一万以上の力なんだ。一人の力が砂粒に見えたって当然だろ」
無力で当たり前――そう言われて不思議と胸の閊えがとれたような気がした。
「そう…………だな」
気負うな、と戦友から言われた言葉を思い出した。
「私一人の力なんてたかが知れているのに傲慢だったな」
「そうか? むしろ、謙虚だと思うぞ。それにローズはブルトルマン軍もブルトルマン帝国の国民も動かして大勢を救うきっかけを作ったんだ、たった一人の業績にしたら十分すぎるだろ。少なくとも俺なら大いに自慢してるな」
冗談めかしたブレッドの軽口にひとしきり笑うと溜まっていた疲れを脳が認識したのか、あくびが出た。
「少し……休むかな」
「少しと言わずしっかり休めよ」
そうさせてもらう、とあくびを噛み殺しながら答えて、宿にしている農家の納屋に向かう。
マーナガルムを鎮めるための共闘から十日。
ローズとアルコンティアはファーデンの町に近い牧草地に居た。ローズは牧草地の中にポツンと寂しく立つ巨木の木陰に腰を下ろし、ようやく牧草地を駆けまでに回復したアルコンティアの姿を眺めていた。
「よかったねー、元気になって」
声の主はローズが背を預ける木の枝に腰を下ろしたマリだ。
ブレッドたちも未だにファーデンに留まっていた。前代未聞の規模で町々が連携した協同作業の後始末(事が終息した日の朝、伝達が間に合わずに集めてしまった卵の始末や作業で負傷したり、亡くなった市民へ対応など)のためということだったが、一傭兵にそれほど責任があるはずもない。事実、マリはアルコンティアを介護するローズの手伝いに専念していたし、ブレッドとマーティンも十日も留まる必要があるほど忙しくしていたわけではなかった。
「ああ、そうだな。この分なら明日には発てそうだ」
ローズがそういうとマリがわずかに寂しそうな視線を向けてきた。
ローズがルディア軍人だということは少なくともファーデンの町の人々には知られていたが、市民は特に気にしていなかったし、ブルトルマン軍も滞在を黙認していた。とはいえ、一応は敵国長居をするわけにもいかない。
「そっか……寂しくなるね」
アルコンティアが回復したらローズが発つことはわかりきっていたことだし、マリ自身根無し草の傭兵だからローズを引き止めたりはしない。
牧草地を駆ける牛馬の群れから離れてアルコンティアが近づいてきた。
「調子はよさそうだな」
――これ以上馬扱いで狭い小屋に押し込められては敵わないからな
「軽口を叩けるまでに回復すれば大丈夫だな。明日発とうと思うがいいか?」
ローズの問いにアルコンティアが首肯して同意を示す。
牧草地で十分に慣らしを終えた帰り際、マリは好奇心と期待を込めてアルコンティアの背に乗りたいと言ってきた。しかし、当のアルコンティアは声を聞かせることは許したが、ローズ以外を背に乗せる気は無いらしく、きっぱりと断った。かといってマリだけ歩かせるわけにもいかないので、ローズはふくれっ面のマリの手を引いて歩いて帰った。
「明日か……随分急だな」
相変わらずシュテフィの家に厄介になっているローズとブレッド、マリ、マーティンの四人に家主二人の六人の狭苦しくも賑やかな夕食の最中、明日発つことをローズが告げるとブレッドがそう呟いた。
「ああ、あまりのんびりしているわけにもいかないしな」
今は黙認してくれているとはいえ、ブルトルマン軍がいつローズを捕らえに来ないとも限らない。ローズに協力してくれたグロスマン将軍はリスティッヒ元帥とともに事態の仔細を報告し、裁定を受けるために帝都へと召喚された、と代理で指揮を務めているというアウエルバッハ将軍からの使いが教えてくれた。
今はアウエルバッハ将軍が代理を務めているから良いが、いつ事態が変化するかわからない以上長居するべきではない。
「しかし、ユニコーンもお前もまだ本調子じゃないだろ?無理しない方がいいんじゃないか?」
ブレッドが、無理、と言っているのは旅そのものではない。ただの旅ならば多少低調子でもローズとアルコンティアが苦にするはずもない。
問題なのは三つ首の番犬要塞から牙の城までの道が完全に閉じてしまっていることだ。マーナガルムは鎮まったが、彼が創りだした妖魔と獣人は消えてなくなったわけではない。特に、獣人たちが第一の首と牙の城を占拠してしまったらしく、さながら獣人の国といった状態らしい。
「大丈夫だ。ブロンテー川沿いにゆっくり東に進んで間道を通って帰るつもりだ」
「そうか、じゃあ……」
ブレッドは自分とマーティン、ローズの木製のジョッキに酒を注ぎ、シュテフィ、ファルカ、マリのコップにお茶を注ぐとジョッキを掲げて、
「しばしの別れとまたの再会を祈って……カンパイ」
カンパーイと割り切ったマリの明るい、ファルカの寂しそうな、元気になったシュテフィの溌剌とした、マーティンの無言の、ローズの明朗な声復唱した。
マーナガルムの目覚めに端を発する争乱で牙の城を失ったルディア王国では逃れてきた住民たちからある情報が流れた。
ユニコーンを駆る女騎士が一人で数万の獣人たちを薙ぎ払った、と。
三つ首の番犬要塞を中心とするブルトルマン帝国南東領の住民の間では一つの風聞が囁かれた。
ブルトルマン帝国元帥の凶行によって神話で語られる大妖魔マーナガルムが目覚めた。未曾有の魔災に直面して敵国ルディア軍の女騎士がユニコーンを駆り、ブルトルマン軍をも説き伏せ、マーナガルムを鎮めた、と。
マーナガルム足止めに協力したブルトルマン軍とルディア軍では足止め作戦に参加していた飛竜部隊からある逸話が流れた。
一人の女騎士が国家の垣根を越えて救いの手を差し伸べ、架け橋となって一つの魔災を治めるために両軍の手を取り合わせた。その女騎士はユニコーンを駆り、ユニコーンを操る術を以てマーナガルムと対し、これを鎮めた、と。
人々は奇跡に等しい偉業を讃え、その髪の色とかけて女騎士をこう呼んだ。
――戦場の青き薔薇――
まだこの時、マーナガルムを鎮めたという偉業さえ物語の序章に過ぎないと知る者は一人としていない。
一か月以上お付き合い下さりありがとうございました。
特にお気に入り登録してくださった10名の読者の方、感想下さった方ありがとうございます。
このルディア戦記は投稿用に別の小説(ちゃんと主人公とヒロインのいるラノベらしいヤツ)を書いている途中で気晴らしに脳内で創った作品です。
結局、投稿用はボツにしましたが、こっちは完全趣味だし、文章力の練習にもなるだろう、とちゃんとした形を与えてWEB小説にした次第です。
発想の起点は「デジモンアドベンチャー」にあったりします。主人公が剣技や異常な強さでどうにかするのではなく、ユニコーンの力を借りて戦果を得る辺りはその名残です。
先にも言った通り完全自己満足の作品なのでウケないとは思っていたんですが、真面目に文章にしたら予想以上に手間で……まさか第一話「戦場の青き薔薇」を完結させるまでに一か月を越すとは思ってもみませんでした(汗)
第二話「閨門の白い木春菊」とタイトル未定の第三話、第四話「牢獄のエーデルワイス」、タイトル未定の第五話までは脳内のあらすじができているんですが、お付き合いいただけるでしょうか?
一話完結までを読んでいただいてのご意見・感想などありましたら是非聞かせてください。私は褒められたり、声援送られると調子に乗ってどんどんやる子です(笑)
とりあえず、しばらくは第二話をゆったり書き溜めて、溜まったらこのまま続きを掲載する予定です。
それでは。




