第二章 人間と妖魔 7
翌朝、日の出を利用して方角を確認すると雌蜘蛛が産卵場を作っていることが確認されている場所を目指して出発した。
「一体誰が確認したんだ?」
「森に出入りする連中だな。そいつらが巣を見つけると役場に報告をあげる。んで役場から俺たちに依頼がきたってこと」
いくら妖魔が危険とはいっても森と関わらずには人間の生活は成り立たない。木材はもちろんのこと、森深くにしか生えない薬草もある。近隣の住民の中には森によって生計を立てている者も少なくないのだ。
「こんな森深くに?」
見せてもらった地図によると確認された巣は森の外よりDランクの生息地の方が近い程度には奥だ。樵はもちろん兵士もそうそう立ち入るとは思えない。
「この森ではいい樹や高価な薬草でも採れるのか?」
「いや、蜘蛛の森は昨日もいった通り油断するとすぐに広がるから樵はもっぱら外縁の樹を切り倒す。薬草はあるが……まあ特別に目立つものはない。森深くに入るのは主に採屍人だな」
採屍人とは妖魔の死骸などから魔術儀式、魔導器具、武器防具の素材となるもの拾い集める者のことだ。妖魔から得られる素材は高値で取引される。しかし、妖魔のいる森に入ること、死体を踏みにじることなどからあまり好印象のある職業ではない。
ローズの表情を読みとったブレッドが補足する。
「アンタの国じゃどうか知らんが、採屍人っていってもこのあたりじゃ普通の村人は大体皆やってることだ。アラグラーソの噴き出す粘糸は絡みつくと粘着性が強くて取れない。斬るには高位の鉱物で鍛造した刃物か魔法を帯びた刃物が必要なほどだ。けど、例外もある。奴ら自身の爪だ。それを加工して作った鋏で奴らの粘糸を集める。それを湯がくと粘着質が落ちてただの丈夫な糸になる。安くて丈夫な糸とその糸で作った衣類はこのあたりの名産なんだ」
「まあ、粘着質がなくなるとだいぶ脆くなるけどな。それでも普通の糸に比べりゃ万倍強え。お前にやった外套もアラグラーソの粘糸製だぜ」
マーティンが得意げに言う。
内側から外套に触れてみるが悪い感じはしない。木綿や麻に比べればむしろ心地よいほどだ。
「ついでに、その外套は奴らの体液でも普通なら崩れないからな」
それを聞いてローズは申し訳なくなる。ローズが借りている外套はブレッドのものだ。
「すまない」
するとローズの殊勝な態度をマーティンがからかう。
「ブレッドにそれ返してストリップでも見せてくれるのか?」
「そうだな。お前から代わりに剥いで返すという手もあるな」
「んだとぉ?一回くらい勝ったからっていい気になってんじゃねーぞ、コラ」
「身の程をわきまえろよ。剣を打ち合わせることすらできないで負けたクセにマグレだとでも思っているのか?」
ローズがフフンと鼻で笑い、マーティンがウググッと悔しそうに呻く。
「ずいぶん仲良くなったね、二人とも」
「なってねーよ」
「何、弱い者の相手をしてやるのも強者の務めだ」
「誰が弱いってぇんだ?」
「私が隠れていることにも気づかず、一騎打ちで打ち負かされた大剣使いのことだ」
「言わせておけばテメェ……」
「いい加減にしろ!」
なおも噛みつくマーティンにブレッドが一喝する。
「さっそく、お出ましだ。気ぃ抜いてっと痛い目見るぜ」
ブレッドが見上げる先には昨日ローズが倒したのと同じくらいのアラグラーソが二本の樹に足を突っ張るようにして存在していた。
「ここは私の出番でしょ!いっくよぉー」
遊びにくような楽しげな口調でマリが跳躍する。
「なっ!?」
その跳躍力にはローズも唖然とする。小さな体を目一杯使って猫のようなしなやかな動きでローズの倍は跳躍する。左の樹を足場に二度目の跳躍で右の樹へ、二つの樹の間をジグザグに跳びながら地上十メートル近くにいるアラグラーソ目がけて急接近する。
「シャアァァァァァァァッ!」
アラグラーソが盛大に威嚇し、丸めた腹をマリに向ける。噴糸口の辺りがピクピクと動いてトリモチのような粘糸が噴き出す。しかし、アラグラーソが糸を噴出したときにはすでにマリはそこにはいない。
「ハァッ!」
一声とともにマリが両手の指の間に握ったナイフを投擲する。八つのナイフは一つも外れることなくアラグラーソの八つの目に突き刺さる。
「ジャラアァァァァァアアアアア!」
絶叫し、体をのけ反らせて暴れる巨大蜘蛛。しかし、樹上で悶え暴れるばかりで降りてくることはない。
「アラグラーソは糸を絡めた敵以外には近づかない、少なくとも森の中ではな。目が見えなくなれば、もうアイツは狩りもできない」
「しかし、退治しなくていいのか?」
「狩りができなくなったアラグラーソは森から出てこないから気にする必要ない。そのうち退治されなかった仔蜘蛛たちに縄張りを乗っ取られて終わりさ」
ブレッドが呆気にとられるローズに説明している間にマリがピョンピョンと軽いステップで枝から幹へ、幹から幹へ、跳び移りながら降りてくる。
「どーお?カッコイイでしょー」
ブイサインを掲げ、得意げに笑う。
「ああ、凄いなあれだけの高さを……」
ローズも身体能力には自信があるがそれをはるかに超えている。ほとんど凹凸のない樹の幹を足場にあれほど高くに跳躍するとは。手と使えばローズでもできるかもしれないが、足だけでしかも頭上の魔獣の攻撃を気にしながらなどとてもではないが無理だ。
「マリがいると単発には矢が節約できて助かるな」
こうして密集地帯までの道すがら単発で出くわしたアラグラーソ合計三体はすべてマリの驚異的な跳躍力と精密射撃のような投ナイフ技術で目を潰されなすすべもなく樹上で立ち往生する羽目になった。
三匹目を退治して三十分ほど歩くと周辺の雰囲気が変わってきた。木々の間に薄らと霞のような白いものが蔓延っている。先ほどまでのトリモチのような束よりも蜘蛛の糸らしい蜘蛛の糸、それが少しずつ行く手を阻むように密度を濃くしていく。
「見えてきたな。ここからは松明を焚いていくぞ」
松明の火で前後左右の糸を炙り、焼き落として道を開く。必然、歩みの速度は遅くなるが、周囲の空間を広げておかないと回避するスペースもないので仕方ない。
五メートルと進まない内に蜘蛛が蠢き、葉を擦る音が聞こえてきた。
「上にいる連中は俺が撃ち落とす。ローズとマーティンは前に進むことだけに集中!マリは二人のサポート、OK?」
「オッケー」
「了解」
「おっしゃぁぁあああ」
と三人が応じる。
「行け!」
頭上の巨大蜘蛛たちにブレッドがクロスボーで矢を射る。破魔の魔術が込められた破魔矢が刺さった途端、矢が爆発したかのように蜘蛛の身体が爆散する。たった一本の矢で巨大な蜘蛛の半身が消飛び、紫色の体液の雨と体殻の霰をまき散らす。
降り注ぐ雨を回避しながらマリとローズが松明片手に振り回す。周囲の糸を焼き落として道を作るとそこをマーティンが先行する。
「マーティン、ズルッ!ちゃんとやれぇ!」
「いいだろッ、俺はチマチマしたこと苦手なんだよッ」
そういうとちょうど行く手を阻むように生える巨木を見据え、地面と水平に大剣を構えて腰を沈める。糸の邪魔しない低い位置に斧を打ち込むように。
「ラアァァァアアアアッ!」
咆哮とともに地を蹴る。
ただの樹を切るとは思えない気迫を纏って大剣が水平に奔り、幅広の刃が幹を切った。
断たれた巨木が不気味に軋み、そして緩やかに傾く。巨木は轟音とともに周囲の白い蜘蛛の巣を綿あめのように絡めとりながら倒れていった。
「どーよ?ウザったい糸なんざ一掃ッ!」
大剣を肩に担ぎ、空いた方の手でガッツポーズを決め、ガハハハハハハと豪快に笑う。
「筋肉バカ」
「そんなことしたら雄蜘蛛集まってきちゃうでしょ」
マリの懸念した通り、ガサガサ、という騒めきが四方から迫る。雌に群がる雄蜘蛛たちは己の仔を作るという意味では敵同士だが、雌蜘蛛を外敵から守り、卵を守るという共通の目的においては仲間なのだ。
「何わざわざ敵呼び寄せてんだバカ!矢が持たねえぞ」
叫びながらブレッドが矢を射て真っ先に姿を現したアラグラーソを仕留める。破魔矢に射られた巨体が爆散する。
「こうなったら慎重に行く必要はねえ!援護する一気に奥まで突っ走れ!」
ブレッドが次の矢を放ったのを合図に駆け出す。
マリが最低限行く手を阻む糸だけを焼き払い、横からくる蜘蛛はブレッドが射殺す。それでも撃ち漏らされたアラグラーソが噴射する粘糸をローズが剣で受け止め、素早く手に持った松明で焼き落とす。
しばらく走り抜けると白い糸が一部の隙もなく囲っている壁にぶち当たった。
この壁の向こう側が雌蜘蛛のいる産卵場所。この糸の壁は性質が普段の糸とは違い同種族を絡めとる。そのため雄蜘蛛たちはこの壁を超えるために大量の餌を喰い、体内にこの繊維を溶かすための体液を溜める。しかし、体全体を通すことはできないため穴から尻だけを突き込んで受精させる。穴は雄蜘蛛の体によって塞がれる仕組みだ。
しかし、この糸も炎に弱いのは同じだ。ローズが松明の火で穴を空けようとすると、
「待って、こっちの方がいい」
そういってマリが腰からダガーを引き抜く。固化した血液でできているような印象を受ける刃は矛盾した表現だが鮮やかな錆色、あるいは濃淡明暗のある赤のみのマーブル模様。
「ルェンワーンのダガーか」
浄火の鉄もミスリル同様七大鋼の一つだ。火の民に伝わる鉄で、あらゆる金属を加工できるドワーフを除けばサラマンダーにしか加工できない特殊な鉄。ミスリルほどの破邪の力はないがあらゆる魔法・魔力を弱め、火に弱い魔族に絶大な効果を持つ。
「そう、いいでしょ」
自慢げに微笑むとダガーで縦に切れ目を入れる。掻き分ければ人は通れるが蜘蛛は絶対通れない大きさの切れ目だ。
「ついて来て」
ダガーで道を切り開くマリが先行し、その後ろにローズ、ブレッドと続く。後詰のマーティンが頭を突っ込んだときだった。
「ゲッ!」
犬の糞でも踏んだようなマーティンの嘆息混じりの悲鳴。それを聞いた前を行くブレッドが怪訝そうに問いかける。
「どーした、マーティン?」
「……………………いや…………………………なんでもねえ」
妙な間とぎこちなく引き攣った顔に違和感を覚えつつも本人が平気というなら問題ないだろうと考えて、
「急ぐぞ、早く来いよ」
柱になっている木の幹の前後に二重になっていた白い糸の壁を抜けるとちょっとした町の広場ほどの大きさもある空間が広がっていた。中央のひときわ大きな巨木を遺してすべての樹が倒され、中央の巨木から八方へと糸が伸び蜘蛛の巣が空からの襲撃者を防いでいる。
足元は大地が見えないほどのびっしりと直径六、七十センチほどの卵が覆い尽くしている。我が子を見守る母蜘蛛は雄蜘蛛よりも一回りは大きい五メートルほど。巨木の頂上付近で八つの目を光らせ、雄よりも数段甲高い威嚇音を発している。
「どうするんだ?」
「奴は俺たちを喰いたいんじゃなくて卵を守りたいんだ。だから、こうするっ!」
手に握ったミスリスの矢をアラグラーソの卵に突き立てる。陶器のような分厚い殻が割れ、そこからドロリとした液が漏れだす。ミスリルの光に浄化された妖魔の卵はそのまま焦げ付いた煙のようにあげて蒸発していく。
ローズとマリも剣とダガーで卵を破壊していく。
「シャァァァァァァ!」
母蜘蛛が怒りの咆哮をあげて糸を噴射する。
丸くつるつるした卵で足場は悪いが、遮る樹も糸もない広々とした空間では回避は容易だ。転がるように避けながらなおも卵を破壊していく。
回避しては卵を破壊し、破壊しては飛んでくる糸を回避し、回避してはまた破壊することを繰り返すこと数回。糸の攻撃を繰り返しても一向に捉えることができず、卵を破壊され続ける現状に苛立った母蜘蛛がついに樹を降りてきた。
「来たぞ!地上に降りるとほとんど糸は使わない。爪の攻撃に注意して手筈通りに行くぞ!」
産卵後の雌は僅かな間だけだが爪に毒を持つ。死に至るような毒ではないが痺れて動きが取れなくなる、という事前のブレッドの説明を思いして、
「了解した」
「わかってるって!」
ブレッドの指示にローズとマリが勢いよく答える。
図体の割に素早い雌蜘蛛の動きにブレッドもクロスボーの照準を合わせられない。樹上に留まる雄蜘蛛と違って地上にいる雌蜘蛛は目を潰すと狂乱して暴れるので目を潰すのは最終手段。故に一本ずつ足を切り落として機動力を削ぐ。
ここまでの道、マリとブレッドの独壇場だったのでようやく見せ場の来たローズが雌蜘蛛に急接近する。
「ハァアアアアッ!」
気合の一声とともに踏み込んで剣を一閃する。抵抗もなく一気に向かって右の前脚が切断される。逆襲のために跳ね上げられた二本目の脚の爪を剣で受け止め、その勢いに逆らわずにいったん距離をとる。
靴がなく素足であることはここまでの道のりでは鬱陶しかったが、ここでは逆に好都合だった。ツルツルと滑り、踏み込み過ぎれば砕ける不安定な卵の上では靴よりも素足の方が動きやすい。ローズと体重が軽く踏み砕く心配のないマリが攪乱しているからターゲットされないが、ブレッドはかなり動きづらそうにしている。
雌蜘蛛が右サイドのローズに気をとられている隙に、今度はマリが斬りかかった。ルェンワーンのダガーが鮮やかな錆色の剣閃を引いて蜘蛛の脚に斬りこむ。
「シャアァァァァァァァッ」
蜘蛛が啼く。マリのダガーが斬りこんだ前脚が跳ね上がり、マリの体が宙に浮く。
「マリッ!」
戦場で仲間が倒れる姿に慣れているローズも十代前半の少女が跳ね飛ばされる姿に思わず名を呼ぶ。しかし、幹だけを足場に十メートル近くも駆け上がる脚力とバランス感覚を持つマリに心配は不要だった。空中でクルリと回転してバランスをとるとつま先から器用に足場の卵さえ割らずに着地する。
「平気、平気。でも、ダガー持ってかれちゃったよ」
悔しそうにこぼしながら腰からもう一方のダガーを抜く。
マリの言葉に視線を雌蜘蛛の脚に向ければ、中ほどまで斬りこんだダガーが毛むくじゃらの足に食い込んだまま挟み込まれている。
「さっさと倒して回収しよう」
ローズの励ましに、うん、と頷いたマリが腰を沈めて構えるが先ほどまでとは違い突っ込む気配がない。非力なマリが硬い甲殻を切り裂き、脚を斬り落とすにはあのルェンワーンのダガーが必要不可欠だったのだ。
雌蜘蛛の間合いの前後で注意を引くことに専念するマリの意図を察して再びローズが斬りかかる。右サイドの脚は残り三本あと一本でも斬りおとせば動きを止められないまでもかなり鈍らせることができる。そうすればあとはブレッドの破魔矢で安全に仕留められる。
しかし、雌蜘蛛も学習したのか、あるいはマリの殺気の変化を感じとったのかローズの方を警戒するように、マリの側へと押し進む。短剣では雌蜘蛛を止められない。マリには下がるしかない。そのことを知っているようかのようだ。
「ハァアアアアッ!」
雌蜘蛛が左サイドに逃げるといってもそれほど速くはない。雌蜘蛛が逃げるより早く打ち込めばいい。そう考えて一際大きく跳躍して踏み込んだが、
振り下ろした剣は地を――正確には卵の殻を叩き割った。
そして、直後少し前方を矢が掠め別の卵を射貫く。
即興メンバーのローズでなく、マーティンならば読んでいたかもしれないブレッドの狙撃。わかっていれば蜘蛛の逃げ道を断つ行動を選択していたはずだ。
しかし、ローズは蜘蛛の脚を斬りおとすことに集中してしまった。斜め前方、すでに脚を斬り落とした防御の薄い方から斬りこんでしまったために雌蜘蛛は容易に後ろに下がれた。
呆けている暇はない。すぐさま後ろに飛び退きつつ、
「すまない。ブレッドに任せるべきだった」
「ローズの所為じゃない」
距離をとった雌蜘蛛はすでに脚を一本斬り落とされ、もう一本を半ばまで両断されて警戒したのか近づいてこない。
「ったくあのバカ何やってんだ!?マリ一人じゃ動き止めんのキツイってぇのに」
「だっ…大丈夫だもん」
「強がんなくていい。しかし、飛び切り速ぇなあの蜘蛛」
三人の話によるとアラグラーソ狩りは七年目だというブレッドはかなりの場数を踏んでいるはずだ。その彼が飛び切り速いというのだから強敵と言える。
「ブレッド、あの蜘蛛は前後左右どの方向にも動けるんだな?」
ブレッドが頷く。
「しかし、普段樹上で暮らしているからジャンプの類はしないんだったな?」
「少なくとも俺はアラグラーソがジャンプしたところは見たことないな」
「私に考えがある。正面から突撃するから援護してくれないか」
一瞬、引き止めようとするような素振りを見せたが、ローズの腕を信じてくれたのか、それとも言っても聞かないと思われたのかただ頷く。
「マリ、右から援護してくれ」
マリが、オッケー、というのを確認してから一気に駆ける。左側に立っていたマリが斜めに駆け抜け右サイドに回り、ローズが左サイドよりの真正面から、マリが少し迂回気味に右サイドから突進する。
「シャアァァァァァァァッ」
威嚇のために開かれた口、その前で打ち鳴らされる鋏。しかし、恐怖を感じるにはいささか物足りない相手だ。
シュッ
ローズの右側を破魔の矢が跳びこしていく気配。耳で捉えたそれを頭で理解するより先に鍛え上げた戦士の反射が足を動かす。踏み出す足に一層大きな力を加える。力の向きは前へ駆け出すためのそれよりやや右を蹴るように。ローズの身体が左前方へと飛ぶ。
巨大とはいえ蜘蛛であるアラグラーソは移動する方向の足を内側に曲げることで左右へ、互い違いに動かすことで前後へ移動していた。
今真正面から矢が襲う。アラグラーソは当然、避けようとする。しかし、足を互い違いに動かすバック走行では矢の射程から逃れるのは難しい。先ほどのように左右を封じられていなければまず選ばないだろう。そして、向かって右サイドにはマリがいる。左サイドをそれと気づかれない程度に開けておけば間違いなくそちらに跳ぶ。まして、四本の脚が残る左サイドは右よりも力が入る。
読み通り、左前に跳んだローズの視界には雌蜘蛛が滑るようについてくる。
自らの行動を誘導されたことに気づいた雌蜘蛛の目の色が変わる。しかし、気づいたところで、曲げたままの左脚ではそれ以上逃げることはできない。右側は微力ながらマリが塞いでいるし、そもそも脚も一本欠いているので瞬発力は相当落ちている。
跳躍の脚力をそのまま剣に乗せて突き出す。切っ先が八つの目の中間に突き刺さり、濁った鏡像が剣の腹に映しだされる。
「ジャアァァァァァァアアアアアアアアアッッッッッッッッッッ!!!」
雄のそれに比べると一際大きく、耳障りな悲鳴をあげる。
「避けろッ!!」
ブレッドが何を懸念しているのかわからなかったが、反射的に雌蜘蛛の目を蹴り、突き刺さった剣を引き抜いて飛び退る。
ギイイイィィィィィン
剣で打たれたような衝撃に視線をおろせば、外套の胸元に横一閃の裂け目が生まれ、下の鎧が露わになっている。マリに剥ぎ取られながらも意固地につけていた鎧が身を守ってくれた。
「助かった、ありがとう」
無理をせずに右脚をもう一本切り落とすだけにしていれば陥らなかった危機に反省しながらブレッドに謝辞を述べる。
「いや、ローズのおかげで楽な仕事だった」
言いながら構えていたクロスボウを下ろす。
前方に視線を戻せば、雌蜘蛛の巨体が膨らみ、爆散するところだった。
「いつの間に……?」
「ローズが飛び退いた瞬間さ」
戦場であっていたら恐ろしい敵になっただろう、気さくな雰囲気を纏う隻眼の射手に戦慄とも武者震いともつかない震えを覚える。
「何はともあれ、依頼は果たせそうだね」
爆散したアラグラーソから愛用の錆色のダガーを回収してきたマリがやりきった顔で満足そうに言う。
「だな、お疲れさん。しっかし、あのバカ何やってんだ?雌蜘蛛狩りに参加してねえから報酬やんねえー」
粘糸の壁のマリが切り開いたあたりを睨みながら罵った。




