第二章 人間と妖魔 1
降り注ぐ木漏れ日の中で思い出し、ようやく今の状況を把握した。喉の渇きと木漏れ日の明るさ、角度からおそらく一日弱意識を失っていたことが推測できる。
「……助かった……のか?よくもまあ」
落ちた高さを思い出して自分が助かった奇跡に驚きが漏れる。思い出して飛竜に咬みつかれた腹に意識を向けるが特に痛みはなかった。しかし、フォールドは砕けてわずかな残骸がブレストプレートとの留め金に残っているだけだし、フォールドから吊られていたタセットもごっそり無くなっていた。おそらくは吹き飛ばされたときに飛竜の牙に食い千切られる形でフォールドが持っていかれ、芋づる式にタセットも持っていかれたのだろう。
座りなおして、邪魔になるだけの鎧の残骸を外していく。ブレストプレートバックプレートは無事。なんとか鎧として最低限の防御力は残っていたことに安堵する。
「ミエルだったら腹を食いちぎられていたところだな」
異民族の踊り子を彷彿とさせる鎧を愛用する友人を思い浮かべたことで、仲間が逃げ切ったかどうか、という心配が心に湧いてくる。しかし、仲間の安否を確かめるためにもまずは自分が森から脱出しなければならない。
思い直して剣を確かめる。ずいぶんとボロボロになっているがまだ何とか剣の形を保っている。何十人という敵と打ち合い、終いには矮小とはいえ竜の皮膚を貫いたのだから当然だ。しかし、ここから先も戦いが続くことを考えると心許ない状況ではある。
「さて、どうしたものか」
森を脱出するといっても高く伸びる木々は天を仰ぎ見ることさえ妨げ、日の位置から方角を知ることもできない。耳を傾けてもせせらぎの音も聞こえない。ここが森のどの辺で今が何時なのか知る術はない。
「とりあえず、もう少し安全な場所と水を探さなければならないな」
日の光が漏れ入ってくる地を失わないように木々の枝を折り、剣で印をつけながら森の探索を始める。高くそびえる木々の枝葉が複雑に絡み合い、日の光が差し込むことを拒んでいるかのような深い森。
「日の光を遮る枝のおかげで命があったと思うと皮肉なものだな」
妖魔の多くは光を嫌い、闇を好む。それ故に昼は日の光の射さない森深くに棲み、夜になってから獲物を求めて森から姿を現す。日の光を遮る枝に命を救われたが、これから先はその枝の生み出す闇にも似た陰が妖魔の活動を許し、間接的にローズの命を脅かす。
四半刻も歩くと探索が無意味なのではないか、という思いが心を蝕み始めた。暗い森の中では植物も食用にできるかそうでないか(元々詳しいわけではないが)判然としない。陰を吹き抜けてくる風は妖魔の寝息のように聞こえ、精神をじわじわと疲労させる。
「せめて木の虚なり、岩陰なり身を潜められるところがあればよいのだが……」
今は眠っている妖魔も夜になれば動き出す。目が眩むために火を忌避する妖魔も多いが、火があるところに人がいると知っている妖魔もいるため安易に火を炊くことは危険なこともあるという。地元の者ならば近隣に生息する妖魔の種類、特性を知って対処することもできるだろうが、はるばる遠征してきたローズにはそんな知識はない。
妖魔の種類、と考えて竜騎士や飛竜の死骸を捕らえた白い物体を思い出す。竜騎士と飛竜の死骸を捕らえて森へと引きずり込んだトリモチのような物体。
「アレはおそらく妖魔の捕食手段だろうな。だが一体どんな奴やら」
妖魔に苛まれることのほとんどないルディア王国の軍人であるローズは妖魔に関する知識に疎い。わずかな手がかりだけでは推測できるはずもない。それでも、何もしないよりマシだ、と推測を巡らせていたときだった。
周囲の闇から、パキパキ、と小枝を踏み折ったような小さな音が聞こえた。続いて何かが葉を擦って騒めかせる。
何かが近づいている。それもかなり大きい。
手近な大樹に背を預けて剣を構える。
小枝を踏み折る音が少しずつ大きくなり、木々がこすれ合う騒めきが増す。近づく音の正体に緊張が高まる。
Eランクの魔獣であっても人一人で倒すのは厳しい。剛の者がようやく倒せるかどうかだ。まして暗い森の中、剣は連戦で摩耗し、妖魔の正体も定かではない。本来ならば戦おうなどとはせずに逃げるか隠れるべきなのだろうが逃げるにしてもどちらが安全かもわからず、隠れるにしても手近にローズが隠れられる場所はない。
不意に音が途絶えた。獲物に跳びかかる前に気配を絶つ、捕食者の狩りである。しかし、気配を絶つ前に獲物に接近を悟られてしまったのは慢心か、未熟か、それとも鍛え抜かれた武人としてのローズの間隔の鋭敏さによるものか。
礫が飛ぶような風切り音が正面上方から聞こえた。
反射的に伏せて転がるように避けると、先ほどまで背を預けていた木の幹に飛竜を捕らえた白いトリモチが張りついている。
トリモチをたどると十メートルほど先に全長数メートルの巨大な蜘蛛が二本の木の間に足場となる糸を張り巡らせその上に鎮座していた。ここに至ってようやくトリモチが巨大な蜘蛛の糸であると認識できた。しかし、丸めた巨大な尻の先端の穴から伸びた糸は糸というには余りに太く縄と言った方が適切なほどだ。
「全く散々だ」
立ち上がり剣を構えなおす。右手に剣を携え半身に構える。
巨大蜘蛛が尻から出している糸を二本の後ろ足で切り離し、木々を伝って場所を変える。
「こちらに近づいて……はくれないか」
数本の大樹を迂回して全く別の角度から現われた蜘蛛が再び糸を噴く。間一髪でそれを躱すと粘度の高い液体をぶちまけたような嫌な音が背後で聞こえた。
同様の攻防を繰り返すこと数回、元いた場所はすっかり糸で覆われ這うようにして糸を潜って包囲網から脱出するが――
そこを蜘蛛の糸が襲った。左足が蜘蛛の糸に絡めとられる。
「キャッ!?」
悲鳴を合図にしたようにローズを捕らえた糸が手繰り寄せられる。宙吊りになったローズを嬲るようにゆっくりとした動作で手繰り寄せる。
ローズの足が蜘蛛の前脚に触れ、蜘蛛がそこに糸を絡めていく。少しでも抵抗しようと振り回す右足にも容赦なく糸が巻き付く。
「シャァァァァァァ!!」
ローズの抵抗を嘲笑うかのように蜘蛛が啼く。
ほぼ両足を絡めとられてしまったが、下半身が安定したことで上半身のバネが活かせた。大きく背を反らし反動をつけて一気に蜘蛛目がけて剣を突き刺す。フォールドがなくなっていたことが幸いし限界まで腹筋運動で身体を起こすことができた。鋏が鳴る口へと呑みこまれるように剣が滑り込み、蜘蛛の甲殻を突き破った感触が柄を握る手に伝わる。
「ジャァァァァァァ!!」
先ほどの嘲笑より濁った悲鳴をあげて蜘蛛が悶える。剣が刺さった口から紫色の体液が大量に迸り、ローズを穢す。
「クッ……」
剣を握る手に力を込めて蜘蛛の胴体へと押し込む。硬い甲殻と不安定な体勢に阻まれて遅々として刃は進まない。指の骨が折れるほどに力を込めてようやくわずかに刃が進む。それでも、数センチしか進まない刃に苛立ちながらもなおも必死に力を込める。
悶え苦しみ暴れる巨大蜘蛛が自らの狂乱で刃をその身に深く沈める。
「ジャラァァァァァァッ!」
断末魔をあげて八本の脚が巨体を支える力を失い、重量に任せて剣がさらに深く沈み、切り口から体液が大量に噴き出す。
「ブプッ……」
噴き出した蜘蛛の体液がローズの顔といわず体といわずに噴きかかり、視界を遮り、呼吸さえも妨げる。直後、完全に絶命した蜘蛛の体がローズの鼻先を掠めて落ちていった。
「フゥー……」
とりあえず眼前の危機が去ったことで息をつくが、
「さて、どうしたものかな」
糸に絡めとられた両足は幸いにもブーツを絡めただけなので慎重に抜けば脱出できるだろうが地上七、八メートルの高さからの落下は好ましくない。しばらく黙考するもいい案が浮かばない。あまり時間をかけると近隣から別の妖魔がやってくる恐れが高まる。
仕方なしにブーツと足の隙間に剣を刺し入れ、靴を内側から切断する。片足が体重から解放され、代わりにもう片足に全体重がかかる。そちらにもどうように剣を刺しいれて切断する。
縛めが斬られてもすぐには落ちず、数センチ緩やかに視界が下方へスライドする。突然抵抗がなくなったようにするりと足が抜けて落下が劇的に加速する。首を護るように体を丸めて落下の衝撃に備える。
卵を床に落としたような音と粘液に包まれた感触。端的に言えば蜘蛛の死骸の中にダイブした。死骸とその中の体液が緩衝材となって再び無事に地に足をつけることができたが、
「……ベトベトだな……」
粘液がべっとりとかかってちょっと拭ってどうにかなるレベルを完全に超えていた。滅入る気持ちを振り起すつもりで髪を払うと髪もべっとりと濡れて嫌な感触を首筋に与えてくる。
「…………最悪」
そのとき、再び周囲の闇から小枝を踏み折ったような小さな音が聞こえてきた。
「チッ、休む間もくれないのか」
妖魔は血の匂いに集まるという。これだけ返り血(?)を浴びていては危険が高まるばかりだが、ここには少なくとも動かない大きな餌がある。しばらくはこれが引き付けてくれるだろう、と期待して音のしない方向へと駆けだした。




