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800℃の微熱




5章


机の上に置かれた数学の問題集を鞄にしまい込み、私は部屋のドアノブに手をかけた。



5月12日(水) 晴れ


放課後になれば、あの静かな図書室で彼女と二人になる。


私はこれからも、生き物に少し詳しい、不器用で地味な「図書委員の佐倉さん」を完璧にまっとうしよう。


彼女のひんやりとした滑らかな指先に触れたい気持ちも、

その甘い匂いに包まれたい衝動も、

暗い胸の奥底に沈めて。


ただのクラスメイトとして、近くで、あの眩しい光を静かに見守り続けよう。


それが、私が彼女の隣にいるために決意したこと。



◆ ◆ ◆


放課後の図書室。


五月の少し湿気を帯びた風が、開け放たれた窓から入り込み、古い紙の匂いと混ざり合う。


カウンター席で、私は「ただの地味な図書委員」を完璧に演じ切っていた。


「へえ、じゃあ深海魚って、自分から光を出して獲物をおびき寄せるんだね」


「うん。太陽の光が届かない真っ暗な世界だから、発光バクテリアと共生したり、自前の細胞で光を作ったりして生き抜いてるの」


「なんだか、プラネタリウムみたいで綺麗」


隣に座る橘さんは、私が持ち込んだ図鑑を覗き込みながら、楽しそうに目を細めていた。


距離は近い。

ふわりと、あのフローラルの甘い香りが鼻腔をくすぐる。


けれど、私は朝の決意通り、必死に冷静さを保っていた。

視線は手元の図鑑に固定し、声が上ずらないように気をつける。


「少しだけ生き物に詳しい友達」としての境界線を、私は見事に守り抜いている。


大丈夫よ。できてる。


こうして自分の気持ちに蓋をしておけば、私はこれからも彼女の隣で、この穏やかで心地よい「ぬるま湯」のような時間を共有できる。

彼女の笑顔を一番近くでこっそり見つめながら、ただの友達としてやり過ごせる。


自分の上手な立ち回りに、私は少しだけホッとしていた。


図書室の壁掛け時計が、閉館の三十分前を知らせる。


「ええと。そろそろ返却された本、棚に戻してこようかな」


私が立ち上がろうとした、その時だった。


「……ねえ、佐倉さん」


不意に、橘さんの声のトーンが微かに下がった。

図鑑に向けられていたはずの彼女の視線が、まっすぐに私の横顔を射抜いているのが、見なくてもわかった。


「え、なに……?」


なるべく平坦な声を装って振り返った瞬間、私の思考は停止した。


橘さんが、下から私の顔を見上げている。


先ほどまでの「隣に座っている距離」とは違う。

彼女の長いまつ毛の影が落ちるのさえ見えるほどの、明らかなパーソナルスペースの侵犯。


彼女の香りが濃くなる。


「今日、全然私の目、見てくれないね」


心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。


「そ、そんなこと……」


「あるよ」


橘さんは少しだけ唇を尖らせて、非難するように、けれどどこか縋るような甘い声で言った。


「深海魚の話をしてる時も、ずっと図鑑ばっかり見てた。……連休中に駅前で会った時、私、なにか変なこと言っちゃったかなって、今日ずっと気になってて」


「ちが、違うよ! そんなことない!」


咄嗟に否定しようとして、ようやく彼女としっかりと目が合った。


潤んだような、少し不安げな瞳。

神が幾重もの奇跡の確率を引き当てて創り出したとしか思えない、狂おしいほどの輪郭と声。

その底知れない透明感に吸い込まれそうになる。


「本当?」


「ほ、ほんと。ただ、その……今日はちょっと、本に集中しちゃってて」


しどろもどろになる私の言い訳を聞いて、橘さんはふわりと、いつものあの笑顔を取り戻した。


「そっか。よかった。嫌われちゃったのかと思って、ちょっと焦った」


安堵したように笑う彼女に、私はこおる。息をするのも忘れてしまいそうなくらいに。


けれど、橘さんの行動はそれだけでは終わらなかった。


彼女の視線が、私の顔から、首元、そして肩へとゆっくりと滑り落ちる。

そして、ひんやりとした彼女の細い指先が、私の制服の袖口にそっと触れた。


「それに今日、制服にアイロンかかってる。すっごく綺麗だね」


ビクン、と大きく肩が跳ねた。


触れられた袖口から、火傷しそうなほどの熱が全身を駆け巡る。


どうして。

どうしてそんな、誰も気づかないような些細な変化に気づくの。


私が、どんなに切ない思いで、不慣れな手つきでアイロンをかけたのか、知るはずもないのに。


「あ、えと……これは、たまたま、母が……!」


「ふふっ。佐倉さんって、そういうところ可愛いよね」


橘さんは嬉しそうに目を細めると、袖口に触れていた指を離し、何事もなかったかのように立ち上がって本の詰まったカートを押し始めた。


残された私は、席に一人立ち尽くしている。


頭の中で、けたたましい警報音が鳴り響いている。


あんなに固く誓った決意など、上目遣いの潤んだ一瞥と、袖口をなぞるわずかな指先の微熱だけで、芯からいともたやすく甘く溶かされてしまった。


崩れるものではなかった。決意とは溶かされてしまうものなのか。


無理。隠し通せるわけがない。


私がどんなに「無害な図書委員」の仮面を被ろうとも、橘栞という人は、いとも簡単にその隙間を見つけ出し、痺れるような甘い熱をじわりと這わせて、奥底にある一番無防備で柔らかな部分を暴き出してしまうのだ。


息が荒くなる。心臓の音がうるさくて、耳の奥が痛い。


ぬるま湯だと思っていたこの場所は、一歩足を踏み外せば二度と戻れない、底なしの深海だった。


カートを押す彼女の華奢な背中を見つめながら、私は絶望的な甘さの中で悟った。


この想いを静かに沈めておくことなど、私には到底不可能だということを。



そういえば、Xに上げたけどこっちには忘れていました。

書いちゃうと気が済むタイプなのT.T

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