深海の中で
3章
ゴールデンウィークの喧騒は、私のような人間にとって息苦しいだけのものだった。
連休中、重い時間の流れが私を押しつぶす。
逃避するように机に向かって問題集を開き、黙々と複雑な計算を繰り返した。
感情を挟む余地のない数字の世界だけが、行き場のない熱を遮断してくれたから。
なのに。
一人静かな部屋にいても、ふとした瞬間にあの甘いフローラルの香りを思い出しては――シャープペンシルを動かす手が止まり、心臓の音がうるさくなった。
春から初夏への気温変化による自律神経の乱れ。
そう理屈をつけてやり過ごそうとしても、どうしてもあの光に透けるような髪と、柔らかい笑顔がちらついて集中できない。
だから外の空気を吸おうと、足りなくなった問題集を言い訳に部屋を出た。
自宅から歩いて二十分ほどの駅前には、それなりに大きな商業施設が集まっている。
外の風に当たれば少しは頭も冷えるだろうと思っていたのに。
想像以上に混んでいる。人の多いところは苦手だ。
行き交う人々の輪郭はどこかぼやけていて、私の視界は誰にもピントが合っていなかった。
やはり用事を済ませて早く帰ろう。
外へ出たことを後悔しながら、すれ違うのもやっとの人の波を抜けようとした時。
不意に、人混みの向こうから声が降ってきた。
「あ、佐倉さん! ――佐倉さーん!」
ビクリと肩を揺らして振り返る。
声だけで誰かはすぐに分かった。
2組の橘栞さん。
いや、一瞬だけ幻聴を聞いたのではないかと思ってしまった。
いつも図書室で見かける彼女とは、まるで雰囲気が違う人が立っていたから。
隣には、橘さんとよく似た顔立ちの大人の女性――おそらくお姉さんだろう――がいる。
そして何より私の目を引いたのは、橘さんの服装だった。
オーバーサイズのベージュのジャケットに、細身のパンツ。
いつもふんわりとしている髪はタイトにまとめられ、どこか中性的で、ハッとするほど洗練された男の人のような出で立ちだった。
お姉さんらしき人はこちらに軽く会釈したあと橘さんの耳元で何かを囁き、別のフロアを指差して歩いていった。
橘さんはお姉さんに小さく手を振り返してから、小走りでこちらへ向かってきた。
「偶然だね。本、買いに来たの?」
私の目の前で立ち止まった彼女から、ふわりと、あの甘い香りが漂ってくる。
マニッシュな服装と香りのギャップに、脳の処理が追いつかない。
「あ……うん。問題集を、少し。橘さんは、お姉さんと……?」
「うん。姉さんの買い物に付き合わされてて」
そう言って、橘さんは少し照れくさそうに自分のジャケットの襟をつまんだ。
「ねえ、変じゃないかな。今日、ちょっと男装っぽい格好にしてみたんだけど、シャーロックホームズみたいになっちゃって」
「ううん……」
大きく目を見開いているのが自分でもわかった。
「この間の図書当番でさ、『エカチェリーナ2世』の話したでしょ? 連休中にあの本を思い出したら、軍服を着た挿絵もあったのね。なんだかああいう、自立した強さと凛とした雰囲気がいいなって思って。でもホームズになっちゃった」
周りの喧騒に声をかき消されないように、顔を少し寄せながら話す彼女。
近い。
休日の、お姉さんとのプライベートな時間。
男装めいたその姿は、やわらかな陽射しのような普段の彼女とは違う、知的で凛とした「カッコよさ」に溢れていた。
同性の私でさえ、思わず息を呑んで見惚れてしまうほどに。
けれど、それ以上に私の胸を激しく打ち鳴らしたのは、別の事実。
こんなにも人が溢れる休日の街中なのに。
周囲に溶け込むような地味な格好をして、誰の目にも留まらないモブのような私を、彼女は見つけてくれたのだ。
すれ違ってもおかしくない人混みの中で、私の姿を的確に捉え、迷わず名前を呼んで駆け寄ってくれた。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
「……すごく、似合ってる。すっごく、かっこいいよ」
絞り出した声は少し震えていたかもしれないけれど、どうしてもそれだけは伝えたかった。
「ほんと? よかった」
橘さんはホッと息を吐き出すと、ほんのりと頬を染めて嬉しそうにはにかんだ。
「……あーあ、本当は姉さんを放っておいて、このまま一緒に本を見たかったんだけどな。ごめんね。休み明けの水曜日、また図書室で。深海魚の話の続き、楽しみにしてるから!」
じゃあね、と小さく手を振って、橘さんはお姉さんの待つ方へと戻っていく。
私はその凛とした背中を見送りながら、パーカーのポケットの中で両手をぎゅっと握りしめた。
顔に一気に熱が集まっていく。
胸の奥で、暴動のように心臓が跳ね回っている。
……もう、言い逃れはできなかった。
自律神経の乱れでも、閉鎖空間の錯誤でもない。
凛々しい男装姿に射抜かれたという訳でもない。
ただ彼女が、私を見つけて名前を呼んでくれた。
そのたった一つの事実で、私の世界は一瞬で鮮やかに塗り替えられてしまったのだ。
私は、橘さんに恋をしている。
いつかチョウチンアンコウのように、彼女の一部になって溶けてしまっても構わないと思うくらい、深く、どうしようもなくだ。
佐倉さんの恋が実りますように。
イラストはGemini画伯です。




