チョウチンアンコウ
「私は恋に落ちたかもしれない。」
新学期。二年生になって初めてのクラス替えは、想像していた以上の災難だった。
仲の良かった友達は綺麗に別のクラスへ散り散りになり、私の周囲を囲んだのは、制服のスカートを短く折った華やかな女子たちのグループだ。休み時間ごとに高音で炸裂する笑い声と、SNSのトレンドの話。その輪に加わる語彙も度胸も持たない私は、急激に教室の隅でたたずむ透明人間と化している。
早く「安心できる避難所」を確保しなければ…。そう判断した私は、図書委員に迷わず立候補した。図書室なら静かだし、冷暖房も完備されている。何より、面倒な終わりのホームルームや清掃当番を免除され、苦手な人たちと離れる正当な理由ができる。
放課後、図書室のパイプ椅子に腰掛け、委員長の長い挨拶を聞き流していた時。斜め前の席に座る横顔に、ふと視線が止まった。
2組の橘栞さん。
廊下ですれ違うたび、光に透けてふわりと溶け出しそうな淡い色の髪と、整った顔立ちが嫌でも目に入るような人だ。周りにはいつも友達が集まっていて、春の陽射しみたいな柔らかい笑顔を見せている。
髪を雑にひとつ結びにして、数学の参考書ばかり開いている私とは、同じ高校に通っていながら生きている次元が違う。そう思っていた。
だから、当番を決めるくじ引きで、彼女と同じ「水曜日の図書担当」になった瞬間、私は心の中で悲鳴を上げた。
隣に座ると、ふわりとフローラル系の、甘くて優しいシャンプーの香りが漂ってきた。自分のボサボサの毛先や、アイロンのかかっていない制服の袖口が急に恥ずかしくなって、体が固まる。
「佐倉さんだよね。これからよろしくね」
橘さんがこちらを向いて言った。ただそれだけなのに。
私は他人の視線が苦手だった。目が合うとそっと逸らすクセがある。なのに私はいま彼女の笑顔を見ている。
「……あ、うん。よろしく」
絞り出した声はかすれていて、我ながら可愛げがなさすぎて落ち込んだ。自分をジミ子だという認識は持っている。そんな自分が好きだという気持ちまであるのに、彼女の眩しさを意識すると自分が今までよりも何倍もモノクロな存在に感じた。
私はただ俯いて、これからの一年間をスタンプを押すマシンとして全うしなければいけない、と思った。
4月21日(水) 雨
初めての二人での図書室当番。
窓の外はあいにくの雨で、図書室の中はインクの香りと雨の日特有の匂いが満ちていた。利用者もまばらで、静寂が二人の間に横たわっている。
橘さんは返却された本をカートに並べる作業をしていた。
その指先は小さくて、爪がとても綺麗に整えられている。視線が横顔を追う。「まつ毛が長い」思わず見惚れてしまいそうになり、慌てて視線を手元に落とした。
どうして同じ年齢の女の子なのに、こうも醸し出す雰囲気が違うんだろう。
自分の不器用さが嫌になって、小さく息を吐く。
「ねえ、それ何を読んでるの?」
不意に頭上から声が降ってきて、私は肩を跳ねさせる。
橘さんが背後から身を寄せ、私が手元に置いていた本を覗き込んでくる。距離が近い。ふんわりとした甘い香りが再び鼻腔をくすぐって、心拍数が急上昇するのが分かった。
「えっ、あ、これは……」
見咎められたのは、図書室の隅の棚から見つけこっそり読んでいた『深海生物の奇妙な生態』という図鑑だ。表紙には、暗闇の中で鋭い歯を剥き出しにしたチョウチンアンコウがドアップで印刷されている。
終わった、と思った。もっと女の子らしい恋愛小説とか、おしゃれな雑誌とかならまだしも、こんなグロテスクな深海魚の本を好んで読んでいるなんて。確実に引かれる。
「あ、ごめんね! 変な本読んでて……」
慌てて隠そうとした私の手に、橘さんの細い指がそっと重なった。ほんの一瞬触れ合っただけの彼女の肌はひんやりとしていて、でも滑らかで、それなのに触れられた場所から火傷しそうなほどの熱が全身に広がり、私の体温は一気に跳ね上がった。
「ううん、隠さないで。これ、チョウチンアンコウでしょ? おもしろい形してるんだよね、こういうの好きなの?」
橘さんは眉を下げて笑いながら、図鑑のページを興味深そうに見つめた。気味悪がる様子は少しもない。
「まあまあ興味はあるかな?……橘さんは気持ち悪くないの? こういうの」
恐る恐る尋ねると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「なんで? 面白いよ。私、こういう自分と全然違う世界の生き物の話、聞くの好きだよ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと温かくなった。私の中で勝手に作っていた「キラキラした遠い存在の橘さん」という壁が、少しだけ崩れた気がした。
「……チョウチンアンコウのオスってね」
調子に乗った私は、ついついマニアックな知識を口走ってしまった。
「メスよりずっと小さくて、泳ぐのも下手だから、一度メスに出会うとそのまま体に噛みついて離れなくなるの。で、最終的にはメスの体に皮膚も血管も吸収されて一体化して……生殖機能だけを残して一生を終えるんだよ」
言い終えてから、猛烈な後悔が襲ってきた。何をやっているんだ私は。女の子相手に、いくら生物の話だからって生殖なんて言葉を出すなんて、気まずすぎる。
しかし、橘さんは目を丸くしたあと、くすくすと楽しそうに笑った。
「ええ……痛いのはちょっと怖いけど、なんだか愛って感じもするね。そこまでして一緒にいたいんだね」
愛って言った!?
そんなロマンチックな解釈、教科書のどこを探しても載っていない。
彼女の柔らかい声と笑顔が、光の妖精を乗せた風が図書室を駆けぬけたように感じた。
胸の奥で、ドクンと大きな音がした。
これはただの動悸。体調不良よ。
そう自分に言い聞かせながらも、次の水曜日が来るのを心待ちにしている自分がいることを、私はもう否定できなくなっている。
ずっと投資家のおじさんを書いてきたので、キレイなものを書きたくなった。
プロットは3月まで(いま4月)あるので、ほそぼそと続きを書くかもしれません。
あとXにも同時に掲載してます。




