迷宮侵食《ダンジョン・イロージョン》
胴体を貫かれ、巨大な風穴を穿たれた――樹骸巨兵。
その異形の姿が、ぐらりと揺らぐ。
「やった!!」
イリヤが思わず歓声を上げた。
確かな手応え。 あれほどの一撃を受けて、無事でいられるはずがない。
ギ……ギギギ……。
嫌な音が、耳に届く。
「……っ!」
バニッシュの顔が強張る。
巨兵は、まだ“終わっていなかった”。
空洞となった胴体から、黒い瘴気のようなものを滲ませながら――それでもなお、前へと動く。
ズ……ズズ……!
壊れかけた巨体を無理やり引きずり、最後の執念だけで進んでくる。
「まずい……! 逃げろ!!」
バニッシュの声が低く響く。
倒れてくるあの巨体が、このままでは巻き込まれると判断する。
バニッシュはすぐさまリュシアの身体を背負い上げた。
「セレスティナ! 黒牙!」
「はい!」
「うん!」
二人も反応は早い。
イリヤも、はっと我に返ると慌てて飛び上がる。
「こっちだ!!」
バニッシュが叫び、全員が一斉に駆け出す。
足元が揺れる。
地面が軋む。
背後から迫るのは、崩れ落ちる巨体の気配。
ズド……ズドド……!
樹骸巨兵が、限界を迎えつつあった。
向かう先は――広間の中心にある紅く脈打つ、迷宮核。
グガァシャァァァンッ!!
凄まじい衝突音が、広間を引き裂いた。
崩れ落ちる巨体が、そのままの勢いで――迷宮核へと、激突した。
「迷宮核が……」
黒牙の呟きが、震える。
紅い結晶は、確かに砕けていた。
中心からひび割れ、欠片が崩れ落ちている。
「これで……終わったの?」
イリヤが、恐る恐る問いかける。
だが――ボコッ……と、嫌な音が核の奥から響いた。
「……っ!?」
バニッシュの目が見開かれる。
砕けたはずの迷宮核が、異様な脈動を始めていた。
鼓動のように、膨らみ――歪む。
「……逃げるぞ!!」
バニッシュが叫ぶ。
「え……!?」
一瞬、三人が戸惑う。
その迷いを断ち切るように、バニッシュは続けた。
「暴走する……!」
歯を食いしばり、声を張り上げる。
「迷宮侵食だ!!」
「――っ!!」
その言葉の意味を、セレスティナはすぐに理解した。
黒牙とイリヤも、ただならぬ事態だと悟る。
ボコボコボコッ!!
砕けた核が、大きく膨れ上がる。
その中心へ――崩れ落ちた樹骸巨兵の残骸が、ずるりと飲み込まれていく。
「まさか……! 最初から……!」
セレスティナの顔が強張る。
「ああ……!」
バニッシュが頷く。
樹骸巨兵は、ただ襲ってきたわけではない。
最期の最期で――自身を核に“喰わせる”ことで、迷宮を暴走させたのだった。
ギギギ……ボゴッ!!
核がさらに歪み、脈動する。
その周囲から、赤黒い肉塊のような何かが溢れ出す。
それは、液体のようであり、煙のようでもあり――触れたものすべてを侵食していく。
床が、壁が、音を立てて崩れ、飲み込まれていく。
「くそっ……!」
バニッシュは舌打ちし、踵を返す。
「脱出するぞ!」
全員が一斉に駆け出した。
「ダメだよ!! 道が塞がってる!!」
黒牙の叫び声を上げる。
「なにっ!?」
振り返ったバニッシュの視界に映るのは――先ほど通ってきた道が、樹骸巨兵の落下によって完全に塞がれていた。
「……っ!」
別の道を探すが、どこもかしこも瓦礫と崩壊で遮られている。
そして、その間にも――ズズ……ボコボコ……!
侵食は止まらない。
赤黒い波が、床を這い、壁を喰い、空間そのものを侵し始めていた。
「くっ……!」
バニッシュは唇を強く噛み締める。
このままでは、逃げ場がない。
「セレスティナ!!」
「はい!」
「転移、できるか!?」
「できます!」
セレスティナはすぐさま膝をつき、手をかざす。
魔力が広がり、床に魔法陣が描かれていく。
複雑に絡み合う古代術式。
光が重なり、空間が歪む。
転移陣が、形成されていく。
転移の光が弾けた次の瞬間――バニッシュたちの視界は、一変していた。
足元に広がるのは、苔むした大地。
頬を撫でるのは、湿り気を帯びた柔らかな風。
そして――目の前には、妖精族の聖域たる泉。
ダンジョンの最深部から、一気に地上へと引き戻されたのだ。
「はぁ……はぁ……」
バニッシュは膝をつき、荒い息を吐く。
背に負ったリュシアの体温を確かめるように、ぐっと腕に力を込める。
セレスティナも、その場に膝をつきながら、魔法陣の残光を見つめていた。
転移は成功した――だが、猶予はほとんどない。
「……な、何じゃ……?」
泉のほとりで待っていたオルムが、目を見開いていた。
「お主ら……一体どうやって……!?」
突然現れたバニッシュたちに、理解が追いついていない。
「それよりも! 他の妖精たち、全員を集めてくれ!」
バニッシュが、即座に声を張り上げる。
「な、なぬ!? 一体どういう事じゃ……!?」
オルムはさらに困惑する。
「お願い! ダンジョンが暴走して……!」
イリヤが、涙を滲ませながら叫んだ。
「この辺一帯が――侵食されるぞ!」
バニッシュの言葉が、重く落ちた。
「な……!?」
オルムの表情が、一瞬で強張る。
「し、しかし……」
オルムは、震える声で言葉を絞り出す。
「ワシらは……この地を離れるなぞ……」
妖精族にとって、この場所はすべてだ。
生まれ、守り、受け継いできた聖域。
「おじいちゃん!!」
イリヤが、涙をこぼしながら叫び、小さな拳をぎゅっと握りしめる。
「今はそんなこと言ってられないでしょ!! このままじゃ……みんなが……!」
その言葉に、オルムの身体がびくりと震える。
ぐ……ぐむむ……と白い眉の下で、葛藤が渦巻く。
守り続けてきた誇りと―― 失ってはならぬ命。
その狭間で、老いた妖精は歯を食いしばる。
「……わかった。ちょっと待っとれ!」
そう言い残し、オルムは飛び立った。
小さな身体で、必死に羽ばたきながら―― 仲間たちを集めるために。
その背中を見送りながら、バニッシュは拳を握る。
オルムの怒号と、イリヤの必死な呼びかけによって――妖精たちは次々と泉のほとりへと集められていった。
小さな身体を寄せ合い、不安げにざわめく群れ。
「な、何が起きてるの……?」
「本当に、ここを離れるのか……?」
困惑と恐怖が、空気に満ちる。
だが、その中心で――セレスティナが静かに両手を広げていた。
「……転移の準備ができました! 何処に飛びますか!?」
その問いに、バニッシュは即座に答えた。
「俺たちが通ってきた街道近くまで頼む!」
「……わかりました!」
セレスティナは頷き、魔法陣へとさらに魔力を注ぎ込む。
複雑な紋様が輝きを増し、光が幾重にも重なっていく。
――その時、ボコッと、不気味な音が泉の中心から響いた。
「……っ!」
全員の視線が、一斉にそちらへ向く。
ダンジョンの入り口として歪められていた――女神ルミナ像。
その表面が、ぐにゃりと膨れ上がる。
赤黒い肉塊のようなものが、内部から押し出されるように変形していく。
ドクン……ドクン……!
脈打つそれは、明らかに異質。
神聖だったはずの泉が、穢され、侵されていく。
「チッ……!」
バニッシュが舌打ちをした。
(もう来たか……!)
迷宮侵食。
その波が、地上にまで及び始めている。
「――鏡律封陣!!」
残り僅かな魔力を、無理やり引き絞る。
瞬間、淡い光の膜が展開された。
泉の入り口を覆うように、反射の結界が張り巡らされる。
バニッシュの身体が、わずかに揺らぐ。
限界を越えた魔力の酷使。
「行け!! セレスティナ!!」
振り絞るように叫ぶ。
「はいっ!!」
セレスティナも、最後の魔力を解き放つ。
転移魔法陣が、強烈な光を放った。
光が――すべてを包み込む。
その刹那――バゴォォォンッ!!
膨れ上がった肉塊が、結界へと叩きつけられた。
バニッシュの張った反射膜が、激しく軋む。
パリンッ!!
結界が砕け散ったと同時に、赤黒い侵食が、一気に広がる。
泉を、地を、木々を――すべてを飲み込む勢いで、這い上がってくる。
かつて神聖だった妖精族の聖域は、黒き災厄に、呑み込まれていった。
転移の光が消えた先――バニッシュたちが足を踏みしめたのは、街道から少し外れた森の中だった。
だが、そこに広がっていた光景は――“森”と呼べるものでは、もはやなかった。
「……な……」
誰かが、言葉にならない声を漏らす。
かつて、迷いの霧に守られていた妖精族の住処――リーヴェラ。
その一帯は、街道近くの森にまで侵食し、完全に別のものへと変質していた。
木々はねじ曲がり、幹は膨れ上がり、赤黒い肉塊のように脈打っている。
葉は腐り落ち、地面は粘つくように沈み込み、ところどころから泡のようなものがボコボコと噴き出していた。
鼻を刺すような異臭が漂い、生命の気配は一切感じられない。
侵食は、すでに止まっているようだったが――そこにあったはずの景色は、完全に消え去っていた。
「お……おぉ……」
オルムが膝をつき、小さな身体が震える。
「こんなことが……」
その声は、かすれていた。
周囲の妖精たちも、言葉を失い、ただその光景を見つめている。
泣き出す者、呆然と立ち尽くす者、羽を震わせることすらできず、地面に座り込む者。
誰もが、理解できずにいた。
自分たちの住処が――消えたという現実を。
「……すまない」
バニッシュが、ぽつりと呟く。
その顔には、苦悩が浮かんでいた。
「止めることが……できなかった」
拳を握りしめる。
「ワシらは……ワシらは……どうしたら……」
オルムが、震える声で言う。
その問いは、誰に向けたものでもなかった。
ただ、失われたものの大きさに、立ち尽くすしかない老妖精の嘆きだった。
バニッシュは、その姿を見つめる。
そして――ぐっと表情を引き締めた。
オルムの前まで歩み寄り、片膝をついた。
「オルム、俺たちの街に来ないか?」
「……何じゃと?」
オルムが、ゆっくりと顔を上げる。
「お主らの……街に、じゃと……?」
「ああ」
バニッシュは、はっきりと頷いた。
「じゃが……ワシらは……他種族と一緒になぞ……」
オルムは、視線を逸らす。
長い年月の中で築かれた価値観。
それは、簡単には覆せない。
だが――バニッシュは、ふっと笑った。
「確かに、俺たちは……ずっとそう思ってた。他の種族とは分かり合えない。疑って、争って、共存なんてできないってな。だが――今は違う。こうして一緒に暮らして、戦って……分かったんだ」
仲間たちへと、一瞬視線を向ける。
リュシア、セレスティナ、黒牙、種族も、生き方も違う者たち。
だが今は、同じ場所に立っている。
「俺たちは……協力して生きていける。だから――お前たち妖精族とも、きっとやっていける」
まっすぐに、オルムを見つめる。
「一緒に来てくれ」
差し出された手は、救いではなく――共に生きるための手だった。
「そんなこと……」
オルムが、言葉を詰まらせる。
「そうしましょう!」
イリヤの声が、響いた。
「おじいちゃん! どうせ、ここにはもう住めないし、それに――この人たちなら、信頼できるわ!」
まっすぐな瞳で、オルムを見つめる。
「……イリヤ」
オルムが、孫を見つめる。
その顔は、いつものような生意気で騒がしい少女のものではなかった。
どこか――強くなった、顔。
バニッシュたちと過ごした時間が、確かに彼女を変えていた。
オルムは、ゆっくりとバニッシュへと視線を移す。
この男は――妖精族のためにここまで来た。
命を懸けて、ダンジョンに潜り、そして今、すべてを失った自分たちに、手を差し伸べている。
その瞳は――遥か昔、リーヴェラを訪れた英雄たちのそれと、よく似ていた。
やがて――オルムは、覚悟を決めたように、小さく息を吐いた。
「……よろしく頼む」
そう言って――差し出されたバニッシュの手を、ぎゅっと握った。
その瞬間、失われたものの代わりに、新たな繋がりが生まれたのだった。
小高い丘の上、そこからは――赤黒く変質した森が、一望できた。
かつて妖精族が住まい、迷いの霧に守られていた神秘の地。
今やその面影はなく、ただ異形の塊となって大地を覆い尽くしている。
その光景を、四つの影が静かに見下ろしていた。
「あ~らら、本当にこれで良かったのかにゃ?」
軽い口調でそう言ったのは、リー=フェイロン。
中華風の衣を纏い、鼻にちょこんと乗せた小さな丸眼鏡。 糸のように細められた目と、どこか底の見えない笑みを浮かべている。
「仕方がないよ」
隣に立つ青年が、穏やかに応じた。
アーク=ライオット――漆紅の鎧に身を包みその胸には誇りと象徴であるクローヴァの印、背には深紅のマント、その佇まいは、静かでありながらも圧倒的な存在感を放っている。
「今回はあくまで“調査”が目的だしね」
彼の視線は、ただ真っ直ぐに侵食された森へと向けられていた。
だが、その奥底には何かを見極めようとする鋭さが宿っている。
「そもそも!」
苛立ちを隠さず声を上げたのは、鍔広の魔女帽を被ったダークエルフの女性。
「ラギウスが一人でどっかに行かなければ、こんな事にはならなかったのよ!」
腕を組み、怒気を露わにする。
「同感」
その横で、淡々と頷いたのは、ショートヘアの海人族の女性だった。
表情の起伏は乏しいが、その一言には確かな同意が込められている。
「あの筋肉は、反省すべき」
バッサリと言い切る。
「誰が筋肉だよ」
背後から、低い声が割って入る。
四人が振り返ると――そこに立っていたのは、ラギウス=ドラグニスだった。
肩を鳴らしながら、気だるげに歩み寄ってくる。
「戻ったようだね、ラギウス」
アーク=ライオットが、爽やかな笑顔で言った。
「かっ! 邪魔が入らなきゃ、迷宮核をぶっ壊してやれたんだがな」
ラギウスは不満をぶつけるように言う。
「だいたい貴方が勝手なことをしなければ、こんな――……ん?」
ダークエルフの女性が、途中で言葉を止めた。
視線が、ラギウスの右腕に釘付けになる。
「ちょっと! 何よその怪我!?」
信じられないものを見たように思わず叫ぶ。
ラギウスの肩には、深々と刻まれた斬撃の跡、そして右腕は――焼け焦げ、鱗の隙間から痛々しくダメージが残っている。
「おお、ちょっとな。治してくれや」
本人はあっけらかんとして、何でもないことのように、右腕を差し出す。
「はぁ~~~!?!?!?」
絶叫が丘に響いた。
ダークエルフはぶちぶちと文句を言いながら、ラギウスの治療を始める。
治療を受けているラギウスにアークは近づいて、静かに口を開いた。
「それで? 君がそこまでの傷を負わされるなんて……何があったんだい?」
穏やかな口調だが、その瞳は鋭く、すべてを見逃さない。
ラギウスは、治療されながらにやりと笑う。
「なかなかに歯ごたえのある奴らだったぜ」
「ほ~……そいつは興味深いにゃ~」
リー=フェイロンが、喉の奥で笑った。
「一人は……あちこちで噂になってる女だ」
ラギウスが続ける。
アークは顎に手を当てる。
「なるほど……魔族の娘か……他にもいるのかい?」
「もう一人」
ラギウスの口角が、ぐっと吊り上がる。
「コイツは……お前と同じ目をしてた男だ」
アークの瞳が、わずかに細まる。
「たぶん――天選者だ」
その一言で、場の空気が、ぴたりと止まった。
ダークエルフも、海人族も、リーも――一斉に反応する。
「……ほぅ?」
リーが、丸眼鏡をくいっと持ち上げる。
「その男の名前は――まさか……バニッシュかにゃ?」
「なんだ、知ってんのか?」
ラギウスが片眉を上げる。
「そうだにゃ~」
リーはにやりと笑う。
「ここに来る前に、ちょっと世話になったにゃ~」
だが、その糸目が――ほんのわずかに開いた。
「でも、彼ならあるいは……」
含みのある言葉。
その意味を、誰もが完全には読み取れない。
アークは、ふっと息を漏らした。
「あはは……君たち二人が認めるなら、相当なものだね」
ラギウスとリー、この二人が認めるほどの存在。
「俺も……一度会ってみたいよ」
その言葉には、純粋な興味が込められていた。
「かっ! 次会ったときは――全力でぶち倒す!」
ラギウスは笑いながらそう言って、治療途中の右腕にぐっと力を込めた。
――バンッ!!
巻きかけの包帯が、弾け飛ぶ。
しん、と一瞬の沈黙。
「あ……」
誰かが、ぽつりと漏らした。
ラギウスは、まるで気にしていない様子で腕を差し出す。
「もう一回やってくれ」
悪びれる様子のないラギウスに、ダークエルフの肩が――ぶるぶると震える。
「……貴方って人は……!! もう知らないわよ!!」
堪忍袋の緖が切れたダークエルフの怒号が、丘の上に響き渡った。




