第6話 9歳の決意
滋樹の父、芳雄は寂しい人生を送ってきた。芳雄は自分の父親を知らない。父親は芳雄が生まれてすぐいなくなった。今も行方が知れない。
芳雄の母親は元々良家の娘であった。しかし世間に疎く男に騙され妊娠した。男は中絶を迫ったが母親はそれを拒否した。こうして生まれたのが芳雄である。男は逃げ、実家からは勘当された。当時まだ20歳そこそこだった母親は、一人で子育てすることを強いられた。その時、決意した。
「誰にも頼らない。子どもは立派に育てあげる。」
強い決意の下、若い母親は厳しい躾を子に施した。基本的生活習慣から始まり、礼儀作法、人との接し方、物事の是非善悪など早いうちから子どもに叩きこんだ。そうした厳しい教育は子どものためというより、自分を捨てた男と自分との縁を切った肉親に対する意趣返しの意味合いが強かった。
芳雄は母親から優しくされた記憶が薄い。母親との関係で覚えているのは一方的に叱られている場面ばかりである。母親を怖れていた。
小学校に上がってすぐのころ、手が滑って食器を床に落とし割ってしまった。そのとき母親に言った。
「お皿、割れちゃった。」
母親は鬼のような形相で怒鳴りつけてきた。
「割れちゃったとは何? あなたが割ったんでしょ。」
すごい剣幕だった。一事が万事こんな調子である。母親の前では些細なミスも許されない。
母親はウソを絶対に許さなかった。都合の悪いことをごまかそうとすると芳雄に対する追及は、さながら凶悪事件における警察の取り調べとなる。そしてその処分は時に、頬への容赦ないビンタ。
厳しい教育は思春期に入っても続いた。母親は交友関係にもよく口を出してきた。「挨拶の仕方がなってない」、「親がよくない」、「見るからに不良」、などという些細な理由で交友関係ににケチをつけ、以後の付き合いを禁じる。あれこれ友人関係に口を出されることもあり、自然と仲間との付き合いは減っていった。その結果、休み時間は図書室で一人静かに本を読み空想の世界に浸る、そんな学校生活を送るようになった。結局、本音を話せる友人ができないまま大人になった。
母子の生活は厳しかった。母親は飲食店で接客の仕事をしていたが給料は安く、アパートの家賃を払うと、手元には生活するのにギリギリの額しか残らなかった。勤め先の店長は生活保護の利用を勧めたが、誰にも頼りたくない母親はそれを拒んだ。
生活は苦しかったが芳雄はよく勉強し、学業成績は優秀だった。高校の担任は大学への進学を勧めた。しかし母親に無理をさせたくないとの理由で芳雄は地元の中小企業に就職した。その勤め先で妻となる由美子と出会った。
由美子は当時、経理課に所属していた。芳雄より4歳上、笑顔が愛らしい天真爛漫な美しい女性であった。芳雄は由美子とすぐに意気投合した。由美子と一緒にいるとそれまで経験したことがない開放的な気分を味わえた。
物心ついてからずっと母親の監視下で生きてきた。そんな生活を続けていくうちに芳雄は他人の視線を異様に気にし、必要以上に気遣いするような人間になっていった。こんなことを言ったら相手は不快になるのではないか。こんな態度をとったら相手から変に思われるのではないか、そんなことが常に気になる。その気苦労から逃れるため一人でいることが多くなっていった。
しかし由美子といるときは違った。彼女はいつでも笑顔で芳雄を受け入れてくれる。自分の悪いところ、嫌なところ、隠したいところ、全て由美子の前では曝け出すことができる。生まれて初めて本当の自分を出すことができた。
「生きるのってこんなに楽だったんだ」。
それまで靄がかかりくすんで見えていた世界が、鮮明なカラー映像として目に入ってくる。びっくりした。人との関係で世の中の見え方が変わる。目に映るこの鮮やかな情景を失いたくない。すぐに結婚を申し込んだ。相手は喜んで承諾した。そして二人だけの新居を構え、ずっと自分を縛り付けてきた母親から逃れることができた。
貧しいながらも結婚生活は順調で二人の子をもうけることができた。上の子に「堅一」、下の子に「滋樹」と名付けた。父親の愛を受けられず、暖かい家庭生活を知らずに育った芳雄は、それまでの心の隙間を埋めるかのように自らの家庭を大事にした。子どもたちにあらん限りの愛情を注いだ。中でも次男の滋樹は、自身と顔立ちや性格が似ていることもあり格別の思いを寄せた。芳雄からの溢れんばかりの愛情を受けてきた滋樹は母親と同じくらい父親が好きだった。
その父親が滋樹のいる地下の霊安室に入ってきた。真っ青な顔、表情はなく、目は虚ろ。滋樹の姿に気づいても何の反応もない。こんな父親、初めて見た。いつもなら滋樹に気づくと満面の笑みを浮かべていた父親、それが今は別人のように強張った顔でこちらを見ている。
突然母親を失い、これからどう生きていくか考え続けていた9歳の滋樹。
父親の姿を見て決意した。
「お父さんのために生きる」




