元気でね
滋樹の母、由美子はずっと腹部の違和感に悩まされていた。近くの診療所に通っていたが年老いた町医者は胃薬を処方するだけだった。このやりとりがルーティーン化していた。症状は収まらない、どころか悪化する一方である。由美子は大学病院で精密検査を受けることにした。2週間後、神妙な表情で医師は言った。「手遅れです」。
悪性腫瘍が胃を広く侵食していた。頭が真っ白になった。そして考えた。幼い子を残したままこの世を去るわけにはいかない。気丈な母親は敵との全面対決を選択した。夫の芳雄が同意した。医師は万に一つの可能性を否定しなかった。
そして開腹した。勝負はついていた。敵は原発部位のみならず、隣接する臓器をも支配下に置いていた。施しようのない状況だった。
術後の衰えは著しかった。
食に対する欲求がなくなった。あったとしても一口、二口。腹に収まっても暫くすると戻す。体はやせ細り、艶のあった肌は老人のように萎び同時に黄色く変色していった。だるさと意欲の低下が著しい。痛みは増し手足を動かすことさえ億劫になる。やがて昼夜の区別がつかなくなり、意識の混濁が夢と現実の境目を不明瞭としていった。
ボーっとしながら病室のベッドに横たわっていた。その時、
声が聞こえた。
目を開けた。
彼がいた。
朦朧とする意識の中で言った、
「元気でね」。
これが滋樹への最後の言葉となった。。
永江は当時のことをはっきりと覚えている。彼の頭に記録されている画像情報はほとんどがモノクロである。しかし、この時の情景は鮮明なカラー映像として頭に残っている。
3日後、その夏の最高気温を記録した日、オフィスでは午後の仕事の手を休め甘いものを口にし始める頃、強張った表情の祖母に連れられ滋樹は病院へ向かった。
「今日はいつもと違う。おばあちゃんの様子が変だ。」
タクシーに乗り込んでからもずっと沈黙が続く。
「どうしたんだろう、何でこんなに慌てているんだろう。」
病院に着いた。エレベータに乗った。病室の前に来た。中に入った。いつものように声をかけた。応答がない。訝る滋樹。
祖母が事務的口調で言った。
「お母さんは死んだのよ。」
頭をハンマーで叩かれた。情景が揺れる。夢?、現実? 頭が混乱する。
滋樹には母親の本当の病状が知らされていなかった。だからどんなに弱々しくなっても、いずれ家に戻ってくると思っていた。それ以外のことなど当然考えられなかった。二次元世界のものでしかなかった「人間の死」、それが今、目の前にある。しかも「最も近しい関係のもの」として。
呆然とした。そしてようやく理解した。これは現実だと。しかし不思議と悲しい気持ちにならなかった。頭の中にいる「もう一人の自分」が囁く。「なぜ悲しくないんだ? なぜ泣かないんだ? おかしいだろう。母親が死んだんだぞ。泣くのが当然だろう」。その声に押されて滋樹は泣こうと努力した。でも泣けない。涙を流そうとした。でも涙が出ない。
だって悲しくないんだから。
その時の感情が20年経った今でも理解できない。なぜ悲しくなかったのか、なぜ泣けなったのか。自分は欠陥人間なのではないか、ずっと永江は自問自答している。
頭の混乱が収まってくると次に滋樹は考え始めた。これから自分はどうやって生きていくべきか。冷静に考え始めた。しかしなかなか結論が出ない。結論が出ないまま1時間が過ぎた。仕事を抜け出した父親がようやく病院に着く。そして滋樹たちのいる地下の霊安室に入ってきた。その姿を見て、
滋樹の考えは固まった。




