四章 “エージェント”8
新しいコミューンは、温暖な気候と肥沃な土地に恵まれていた。作物がたくましく育つ、自然に祝福された風土。木々の緑は濃く、森にはさまざまな種類の動物が棲んでいる。
私の計算では、我々が到達したのはウガンダ北西部のはずだった。コミューンの近くには湖があり、それがマイケルの言っていたモブツ湖である可能性が高いのだが、確証はない。ウガンダには多くの湖が点在し、おまけにコミューンの人々はその湖を「大きな池」と呼んでいた。長い間に、本来の固有名詞が失われてしまったのだ。私は湖の規模やいままで通って来た道程を考慮して、コミューンはモブツ湖の東側にあると推測した。
地図を見ると、モブツ湖は南北に細長く、長さはだいたい百五、六十キロほど。近くにはビクトリア湖やタンガニーカ湖といった巨大湖が控えているため、ちっぽけな湖と錯覚するがそんなことはない。たくさんの魚が棲む、立派な大型湖だ。
モブツ湖のすぐそばを赤道が通っている。地理的に言えば地球上でいちばん暑い場所だ。しかし一帯は高原地帯にあるため、昼も夜も最適な気温で過ごすことができる。人が生きていくうえでは、絶好の環境だった。
はじめの数日間こそ私とマイケルは客人扱いだったが、旅の疲れが癒えたらなんらかの役割を持つ必要があった。コミューンは農作業のグループ、狩りのグループ、漁のグループに大別されている。いちばん多いのは農作業のグループで、チェチェもそこに属しているが、私とマイケルは狩りのグループに志願した。
住人たちにその旨を伝えると、さっそくイタリが狩りの方法を教えてくれるという。イタリはベテランの狩人だ。ある朝、我々は彼らのグループに同行して森に出掛けた。
事前に聞いた話では、彼らの狩りは主に網猟だった。弓や罠も使うが、ダイカーという森に棲む小型のアンテロープを網で囲って捕らえる。
「ダイカーはね、夜行性で日没になると森に落ちている果物を漁るんだけど、昼は藪でぐっすり眠っている。しかも、あたしたちが近づいても寸前まで逃げない。じっと息を潜めて敵をやりすごすのが、ダイカーの護身術なのさ」
イタリは森を歩きながら、私とマイケルに講義をはじめた。狩りには、ギショー、ルリサ、エンケという比較的若いノウスが加わっていた。私とマイケルを含めて、六人のメンバーだ。我々は網を背負い、手には山刀や槍を握っていた。
「わりと呑気な動物なんだな。簡単そうだ、任せてくれよ」
私は言ったが、実際我々兄弟は狩りには多少の自信があった。故郷では一日に五頭のカモシカを仕留めたことがある。逃げない獲物なら、しくじるはずもなかった。
「じゃあ、あんたたちには網を囲ってもらおうか。あたしとエンケが藪を突ついてダイカーを追い詰める。二人はギショーやルリサと協力して、ダイカーの逃げ道を断っておくれ」
いいよ、と私は請け負った。
「兄さん、あまり調子に乗らないほうがいいみたいよ。みんな、私たちに期待してないもの」
イタリたちの気配を読み取ったのか、マイケルが私に忠告した。
「そうなのかい?」
誰にともなく聞くと、ギショーが肩を震わせて笑いを堪えていた。ほかの住人たちも、私と視線を合わせないようにして小さな笑い声を漏らしている。
「マイケル、あんたも意地が悪いな。なにもわざわざ教えなくても。確かにあんたたちと狩りをするのは初めてだからね、少しだけ心配はしている。ただ、期待してないというのは違うな。あんたたちが、上手く森を動ければ問題ない。とにかく、やってみれば分かることさ」
「イタリの説明だと、簡単そうだけど。むしろ逃げない獲物だと、我々の腕の見せ所がないんじゃないか気掛かりだ」
私はそう言い、ギショーの先を歩いた。藪から逃げ出した獲物を網で囲って捕まえる。それだけのことだ。カモシカのほうが数十倍難しい。
しばらくして、イタリが小川の近くの藪でダイカーの糞を見つけた。
「用意はいいかい?」
イタリは杖代わりに使っていた木の枝をヒュンと振り下ろした。
「そのうちダイカーが、藪から飛び出してくる。あんたたちは向こう側で網を張って待っているんだ」
私とマイケルはペアになって、イタリの指示通り三十メートルほど離れた木々の間に網を張った。網は一・五メートルほどの高さだが、幅は七、八十メートルにも達する。ギショーとルリサの分と合わせて網は三つあるから、藪の二百数十メートル四方を包囲したことになる。
藪には何種類かの背の高い雑草が密集していた。ほとんど隙間はなく、動物が姿を隠すには都合がいい。私はダイカーの護身術に納得した。うかつに逃げ回るよりは、息を殺して忍んでいたほうが賢い選択だろう。
イタリとエンケは自分たちの背丈ほどもある藪に分け入り、木の枝で草を打ちはたいた。反対側からも、ギショーが指笛を吹いて威嚇する。私とマイケル、ルリサは樹木の陰で待機していた。まだダイカーの現れる様子はない。
「マイケル、おまえは自分の運命を受け入れられそうか?」
私はマイケルにささやき掛けた。チェチェの話を聞いたのは三日前だが、あれからマイケルとは意見交換をしていない。しようにも、チェチェの推論を自分の中で処理できずにいた。
「特殊な運命にあるっていう予感はしていたんだけど。その前に私たち一族には謎が多すぎるよ。結局、“エージェント”って一体なんなのかな?」
「父さんや母さんが聞いたら、腰を抜かしただろうな」
私はチェチェの真似をして、人差し指を立てた。
しゃがみこんだマイケルの襟元から、胸の谷間が覗いている。どういうわけか、ふくらみが大きくなった気がする。身体も知らない間に、ずいぶん曲線的になった。二年も前に死産したというのに。
私にも、あるひとつの予感があった。
「おれは今夜、森で瞑想するよ。チェチェみたく先祖と対話できるかもしれない。それに、おれの持っている記憶が本当にいちばん古いなら、もっと詳しく“エージェント”のことが分かるだろう。そうしたら、いろいろな謎が解ける。チェチェがなぜ二百五十年も生きているのかもな」
「先祖の記憶か。そんなものがあること自体、いままで知らなかったけどね」
マイケルは持参したレモンを齧り、酸っぱさに顔をしかめた。
イタリとエンケは、まだ草を叩いていた。さっきは枝の切れ目から見えていた太陽が、右側の一部を隠している。たぶん三十分以上は経過しているだろう。藪はあらかた探し終わったはずだ。
彼らの勘が外れたようだ、そう思ったとき、エンケの張りのある大声が響いた。
「行ったぞ、追え」
ばさばさと草をかきわける音がして、藪から小鹿に似た動物が飛び出してきた。ルリサの張った網のほうに駆けていく。ルリサは木の陰に隠れていたが、ダイカーはそれを見破り素早く方向転換した。
「ブルース、そっちだ」
ルリサが叫ぶ。我々は走った。網の幅は七、八十メートルで、それが我々の守備範囲になる。木々に邪魔されて姿を見失ってしまったが、ダイカーはその守備範囲ぎりぎりのところに向かったらしい。我々はちょうど真ん中の位置にいたから、網の端までは四十メートルほどだ。
焦る気持ちをさらに追い立てるように、網が激しく波打った。獲物がかかったのだ。
「かかったぞ、マイケル。はやくしろ」
前を行くマイケルの足取りが、木々の枝に遮られていた。山刀で太い枝を打ち落としているが、空いている片方の手は顔をガードしている。枝や葉が飛び散ってくるのだ。もたつく我々の脇を、イタリとエンケが疾走していった。我々よりずっと遠くにいたはずなのに、簡単に追い越されてしまう。機敏な動きだ。狭い木々の間を風のようにすり抜ける。彼らの身長は私の胸までしかない。その小柄な体格が、森ではひとつの武器になっていた。
ダイカーは網に絡まってもがいていた。イタリが押さえ込もうとしたが、寸前のところでするりと逃げてしまった。網の端にかかったため、隙間ができてしまったのだ。ダイカーは全速力で樹林の繁みへと消えた。
「すまない。おれたちが遅れたせいだ」
私は仲間たちに謝った。
「たいした距離じゃないから、すぐに着けると油断してました。甘かった」
マイケルも肩を落とした。
「惜しかったけど、最初はこんなものだよ。網の端にかかったのも、運が悪かった」
淡々と、たいして悔しがりもせずに、イタリが言った。
「さあ、ほかの場所に行ってみよう。これくらいでしょげることはない。狩りは失敗するほうが多いんだから」
地面には仕事を全うできなかった我々を象徴するように、網がだらしなく長々と横たわっていた。エンケはその端をつまみ、私に渡した。網にはダイカーの体毛が引っかかっていた。
我々は場所を移して二度目の狩りをした。適当な藪を見つけると、やはりイタリとエンケが雑多に入り乱れた草をかきわけ、手当たり次第に枝で打ちつけた。今度はすぐに当たりがあった。しかしそれがダイカーでないことは、私にも一目で分かった。藪から飛び出してきたのは、黒い大きな塊だった。華奢なダイカーより、はるかに肉厚な生き物だ。それがエンケに向かって、凄まじい勢いで突進していた。
「オオイノシシだ、気をつけろ」
エンケは叫びながら、オオイノシシの体当たりを間一髪でかわした。
「ブルース、行ったよ」
次いでイタリの声が上がった。獲物はまたも、我々の網に向かってきた。そしてオオイノシシを捕らえると、網はダイカーのときよりも、数倍強く波打った。木に結びつけた両端の糸は切れ、網に絡まったままオオイノシシは突進をつづけようとしていた。
私は駆けつけながら舌打ちした。網が耐えられない恐れがあった。
「まずい、破られるよ」
マイケルが私の背中に向けて言った途端、我々とは別の方向から人影が現れた。ルリサだった。彼は木々の枝の隙間を狙って、手にした槍を投げつけた。槍はオオイノシシの背中に刺さった。しかし怒声を轟かせながら、オオイノシシはまだ暴れていた。厚い肉にしっかりと刺さらなかったのか、背中の槍がぽろりと落ちる。ついに網が破られ、オオイノシシの頭が外に出ようとしていた。
「二人とも、どいて」
背後から声がしたと思ったら、ギショーが我々を追い越した。彼も槍を持っている。オオイノシシは、もうほとんど網の外に出ていて、裂け目にかかった後脚を引っ張ろうとしていた。最後のチャンスだ。後脚が外れたら、我々には追いつけない。
ギショーはスピードを緩め、槍を投げる態勢に入った。まだ距離はあったが、ここで投げなければ、またも目前で獲物を取り逃がしてしまう。駄目で元々だった。
はっ、と腹の底から声を絞り出すと、ギショーは槍を投じた。槍は障害物だらけの森に適するように、短めに作られてある。木の葉を落としながらも、獲物目掛けて一直線に飛んでいった。
一秒の半分もない差だった。槍はオオイノシシの首筋に突き刺さった。やっと後脚が自由になり、駆け出そうとする態勢に入ろうとしたところで、オオイノシシは最悪の結末を迎えることになった。
「ルリサ、止めを刺してくれ」
ギショーが額を拭って、ルリサに指示を出した。大きなダメージは負わせたが、完全な致命傷ではない。オオイノシシは、まだなんとか立ち上がろうと四本の脚を震わせていた。
ルリサは素早く走り出すと、獲物に馬乗りになり、首筋の槍を引き抜いて額に突き刺した。
「ご苦労さん。オオイノシシだなんて、久し振りだね」
イタリがギショーを労った。
「それにしても、ばったり出くわしたものさ。誰も怪我しなくてよかったよ。いまは発情期だから、こっちが襲われかねない」
ルリサが止めを刺したのを見届けて、ギショーは虚脱した口調で言った。心底ほっとしたようだった。ルリサの最初の一撃で手負いになった分、危険だったのだ。網に絡まっていなければ、誰かが襲われていた可能性がある。
「あんたたちの網、破られてしまった。でも、なんといってもオオイノシシだから」
イタリが、私とマイケルに向かって言った。大物を捕らえたことで、表情は明るい。
「網は直せばいいし、立派な収穫があったのはおれも嬉しいよ。だけど、正直落ち込んだね。君たちが、我々に期待しないわけを痛感したよ。とてもじゃないが、君たちにはかなわない」
私はイタリたちに脱帽した。森を駆ける速度が、あまりに歴然としている。私やマイケルの体格だと、どうしても途中で木の枝が邪魔になって、捕獲場所に着くのに遅れてしまう。それに、たとえ身長があと三十センチ低かったとしても、あの天性の瞬発力が得られるものでもない。イタリたちの足腰には、持って生まれた強靭なバネが仕込んであった。
「そういうことみたいだね。少なくともこの森では、私たちの経験は通用しない」
マイケルも、彼らに呆れている様子だった。
「まったくな、簡単だなんて言った自分が恥ずかしくなる。次からは弓を持ってくるよ。君たちが狩りの名手でも、弓だったら負けないぜ」
私の精一杯の強がりにも、イタリは優しく微笑んだ。
「あんたたちが来て、チェチェは喜んでいるよ」
「一脈通じているっていうのは本当みたいだ」
「そりゃそうさ。彼はね、二百年以上もあたしたちのコミューンに住んでいる。でも長く生きるっていうのも孤独なもんなんだね。住人の死と誕生を、彼はずっと見守ってきたんだよ。あんなに強い精神能力を持っているのに、自分が何者なのか彼は知らない。それがあんたたちと出会って、なにかのヒントを掴んだみたいなんだ。あたしにはあんたたち一族のことは難しすぎるけど、二人はもう大切な仲間だよ」
仲間という一言が、心の奥に染み込んだ。今更ながらコミューンの一員として認められたと分かり、小さな感慨が込み上げた。イタリやほかの住人たちの温かな態度が、私も彼らに親近感を持っていることを気付かせた。
「仲間といっても、新米だよ。獲物はおれとマイケルが担いでいこう」
「そうだね、それくらいは役に立たないと」
マイケルも素直に請け負ったので、我々はオオイノシシを棒に縛り付け、運搬役を務めた。
「二人とも、そんな無理することはない。あとで交代するよ」
ギショーの言葉に、ほかのメンバーも頷いた。
肩に獲物の重みを受けながら、私は自分にもささやかな未来があることを実感した。




