三章 ナイルの奥へ7
我々はそうして、再びナイルを遡った。目的のコミューンはこのはるか上流にある。これからの道程を考えると気が重くなったが、体力が回復につれ、“彼”の下へ急がなければという使命感が募ってきていた。私はその使命感に逆らえなかった。どうしても、逆らえなかった。強大な磁力が私をがっしりと掴んでいたからだ。それは圧倒的な吸引力だった。すべての意思が“彼”に飲み込まれてしまう。“彼”の磁力の前では、私は奴隷同然にあらゆる選択肢を奪われた。だが、それは悪い感じではない。なんらかの理由で、“彼”は私を求めているのだから。
自制心が奪われるという点では、恋愛感情とはあながち間違った比喩ではないのかもしれない。私はショーンの意見を見直した。
我々は、見えないけれども切れることのない糸をたぐり寄せながら、ナイルに沿って進んだ。そしてムカマたちのコミューンを四十キロほど南に下った地点で、ナイルはふたつに分かれていた。地図で確認すると、ひとつは青ナイルで、エチオピアへとつづいている。もうひとつは白ナイルで、ブルンジ山地に発するカゲラ川を水源にしていた。カゲラ川は、タンザニア、ケニア、ウガンダの三国にまたがったビクトリア湖に注ぎ込み、そこから派生した水はキョオガ湖、モブツ湖を経て一路北進していく。
アフリカがその昔「暗黒大陸」と呼ばれていた時代、幾多の命知らずたちがこのナイルの源を求めて探検した。生きて帰って来なかった者もいた。彼らもまた、“なにか”に呼ばれていたのだ。
いま、我々の眼前にある両ナイルの合流地点はかつてスーダンの首都だったハルツームで、対岸のビル群が--何百年か前まで摩天楼と呼ばれていたであろうビル群が、亡霊のように立ちすくんでいた。それだけではない。ハルツームはすっかり砂の街と化し、悪夢の残骸となっていた。
街が滅んだ直接的な原因は、おそらく紛争だった。路上ではいくつもの戦車や装甲車が錆びついた腹を向け、建物の壁には戦闘機の翼やヘリコプターのローターが突き刺さっていた。兵器を使っているから軍隊を持つ勢力同士の争いには違いないが、その惨状からは戦略的な痕跡が認められない。敵も味方もなく、自暴自棄に弾薬を撃ちまくったような気にさえさせられる。戦うことでしか、彼らは文明崩壊の恐怖から逃れられなかったのかもしれない。
公園や学校などでは大きな穴が掘られ、そこに白骨死体が山と積まれていた。爆撃に吹き飛ばされた民家の跡が生々しい。政府機関らしい重厚な建物の前庭では、色褪せてぼろぼろになった国旗が、折れたポールの下敷きになっていた。
「さて、青ナイルと白ナイルのどっちに行けばいいのかな?」
私はマイケルに地図を渡した。紛争で壊滅した都市など、もう珍しくもなんともなかった。物言わぬ白骨の人々を偲んだり感慨に浸ったりしても、いまが空しくなるだけだった。
「こっちだね」
マイケルは、迷うことなく白ナイルを指差した。
合流地点には、大きな島がひとつと小さな島がふたつ浮かんでいた。青ナイルはそのうちの大きな島に水流を二分され、えぐりこむようにして白ナイルと一本化する。もっとも川幅は青ナイルのほうが広いし、勢いもある。だから正しくは、白ナイルが青ナイルに取り込まれると言うべきかもしれない。
だが全長は白ナイルのほうが長い。私は、どこまで遡るのかマイケルに聞いてみた。
「はっきりとは分からないけど、たぶんこのモブツ湖の辺りじゃないかな」
再び地図に目を落とすと、その湖は南北に細長く、ちょうど真ん中をウガンダとコンゴの国境が走っている。形は発育不良の芋のようだ。
「ここからだと、目測で直線約千五百キロってところか。まだまだ遠いけど、だいぶ目途がたってきたな」
「もう一息だよ、兄さん」
マイケルは言った。それは自分を鼓舞しているようでもあった。
ハルツームの先は、砂漠地帯とまばらに草の生えた半砂漠地帯の繰り返しだった。マイケルによると、コミューンはもう目的地までないという。後は気力と運の勝負だ。
目的地までは順当に行けば二カ月ほどで着くかもしれないが、その三倍四倍かかることもあり得えた。長い長い流域では、自然環境がどのように変わっていくのか予想もできない。これまでも地図上では推し量れない障害に、何度も泣かされてきた。
そして悪い予感は必ず当る。スーダン南部に差し掛かったとき、大きな難関が現れた。サッドという大湿原地帯だ。
地図上では、サッドはただ白ナイルの本流の周りに湿原であることを表す細かな点々が打ってあるだけだった。私は足場の悪い沼地を思い浮かべていたので、それなりに難儀する覚悟はあったのものの、想像力が足りなかったようだ。サッドには、いままで歩いたどんな土地にもないシビアさがあった。
なにしろ陸が消えてしまったのだ。




