三章 ナイルの奥へ5
家に戻ると、一人のノウスがいた。ムカマやチャンダギとは対照的な白い肌。外部から来た人間であることは一目瞭然だった。
そのノウスは床にあぐらをかき、私に背を向けていた。肩まで垂らしたあめ色の髪に見覚えがあった。
マイケルは彼に、目線で私が帰って来たことを合図した。ゆっくりと振り向く。横顔のとがった鼻先が見えた瞬間、彼が誰なのか分かった。一体何年振りのことだろう。
「君、ショーンか? こんなところで会うなんて、嘘だろ」
私は声をあげた。ショーンは飛び跳ねるように立ち上がり、入り口で立ちすくむ私の身体に腕を回した。
「ブルース、本当に君なのか?」
「それはこっちの台詞だよ。どうして、ここにいるんだ?」
私は彼の腕や頬に触れた。そうしないと目の前にいるのが、幻ではないと信じることができなかったからだ。
「やはり知り合いでしたか」
ムカマが言った。
やはりって、と聞き返そうとした私より先に、チャンダギが説明をはじめてくれた。
「さっきマイケルに同調したときに、あなたたちの故郷のイメージが断片的に伝わってきたんだよ。雪を被った高い山がいくつもそびえているんだけど、どこかで見た風景だった。でもなにかの勘違いだろうと思って、気にもしなかったんだ。それが、ついさっき、ふと思い出した。喉に引っかかった魚の骨が、ぽろっと取れるみたいにさ。あの山脈はショーンの記憶でも見ていたんだ」
あの山脈とは、もちろんアルプスのことだった。ショーンはマルーシュカの子供で、私とは言ってみれば幼馴染の間柄である。つまり同郷のよしみなのだ。
「マイケルに聞いたよ。コミューンが全滅したって」
ショーンは唇を震わせて、言った。
ショーンが〈コール〉を受けて旅立ったのは十数年も前のことだが、その頃コミューンにはわずか十二、三人が生き残っているだけだった。当時の我々は笑うことも忘れ、閉ざされた未来のために黙々と麦の種を撒き、畑を耕した。ノウスも一人二人と抜けていき、夜になっても明りの灯る家は数えるくらいしかなかった。住人の誰もがコミューンの衰退を諦観しながら、機械的に出がらしの日々を送っていた。
そんなある日、ショーンに〈コール〉が訪れたことを知ると、母親のマルーシュカは毅然とした態度でこう言った。
いつか私たちのコミューンはまた大勢の人で賑わうようになるわ。そうしたら、仲間を連れて戻ってらっしゃい。
マルーシュカは気丈な女性だったが、心からショーンを愛していたのだと思う。見え透いた強がりの裏側は、彼を手放したくない気持ちでいっぱいだったのではないか。
それにしてもショーンがアフリカに渡っていたとは、まったく意外なことだった。私は、彼女の死をどう伝えようかと迷った。
「コミューンのみんなは土に還ったよ。仕方のないことさ」
「最後まで母さんを看取ってくれたって・・・。ありがとう、ブルース。礼を言うよ」
言葉を詰まらせながら、ショーンは言った。マルーシュカが病に倒れたことも、マイケルから聞いたようだった。
「マルーシュカを看病したのはマイケルだよ。礼なら彼に言ってくれ。彼女の臨終は、本当に安らかだった。まるで丘に花摘みに行くみたいな死に顔だったよ」
そうか、とショーンは力なく頷いた。そしてマイケルのほうに視線を移した。
「だけど、これがあのマイケルだなんてね。私がアルプスにいた頃は、七つか八つのおとなしい子供だったけど」
「私だってこのコミューンにショーンがいるとは気付きませんでしたよ。あなたはあの砂漠地帯を一人で渡って来たのですか?」
「途中まではね。ここから二週間歩いた下流のところまで、仲間の住人が迎えに来てくれたんだ。彼らの助けがなければ、危うくミイラになっていただだろうね」
ショーンは昔と変わらない陽気な笑顔を見せた。
しかしそこまで危険を冒して、なぜほかのコミューンに移らなければならないのか。私はショーンに〈コール〉に対する疑問をぶつけてみた。
「ショーン、ひとつ聞きたいんだ。君は我々との生活よりも、ここでの生活を選んだ。故郷にいたノウスは、みんなそうさ。どうしてなんだ?」
ショーンはしばらく考えあぐねた末、こう答えた。
「たぶん、ここが自分に与えられた場所だからだろうね。ムカマやチャンダギたちと暮らすようになって分かったんだけど、私たちノウスのコミューンはもっとも波長の合う者同士が集まっているんじゃないかな。そりゃ故郷にいたときだって、みんなのことは大切に思っていた。君やコミューンの人たちだって、よくしてくれたしね。でもここの人たちといると、言い難いことだけど、故郷にいたときとは比べものにならないほどの親密感を覚えるんだ。手袋がぴったり指にはまるみたいにさ」
今度は私が悩む番だった。黙って頭の中を整理していると、それまで静観していたムカマが話しに割って入ってきた。
「その、〈コール〉というのですか。実は私の兄も〈コール〉を受けて、ほかのコミューンに旅立って行ったんです」
「本当かい? でも君や君の兄さんは、ノウスから生まれたんだろう?」
声が裏返った。私にとって、ネイティブなノウスがほかのコミューンに移るというのは初耳だったのだ。マイケルやショーンとは異なり、ノウスから生まれた者たちは、そこの土地で一生を送るものと思い込んでいた。
ムカマは話をつづけた。
「私たちは先祖がサピエンスだった頃から、ここで生きてきました。でも、たとえばショーンのように肌の色も民族性も違う人間が〈コール〉によって移住してくることも時にはありますし、逆に兄のように出て行くこともあります。要はいちばん精神的結びつきが強い者同士が集まるということじゃないでしょうか? たぶんある程度の年齢になると、それに感応する能力が芽生えるんだと思いますよ」
私は少し目の前の霧が晴れたような気がした。
「なるほど。君たちには、遠くにいる相手とでも意思の疎通ができるスピリチュアル・ネットワークがある。そいつを介して自分の適所を見つけ出すんだな。生まれた土地よりも気の合う仲間がいれば、そこに導かれていくということか」
相変わらずだな、とでも言いたげにショーンが呆れたような顔をしている。
「君は子供の頃から本ばかり読んで、いろいろなことに理屈をつけようとしていた。だけど〈コール〉は本能なんだ。理屈じゃ説明できない。あえて譬えれば、恋愛感情みたいなもんさ。もちろん私にはそれがどんなものか正しくは分からないけど、君たちサピエンスは男と女が好きになってひとつ屋根の下に住むだろう。つまり、そういうことだよ」
ふうん、と私は唸った。少々乱暴な譬えなんじゃないかと思ったが、反論できる材料が浮かばなかった。それに所詮、サピエンスの私には、彼らの精神社会を完璧に理解することなどできはしないのだろう。ノウスが恋愛感情の複雑さを理解できないように。
「兄さんも〈コール〉を受けているのに」
マイケルはまたクセタをあやしていた。クセタもすっかりなつき、二人で木を削った動物の模型を床に並べて遊んでいた。
「おれは“彼”に惹きつけられているだけさ。おまえみたいに、ほかの住人の気配を感じているわけじゃない」
天井が低いので、かなり蒸し暑い。狭い部屋の中には、クセタを含めて五人のノウスと一人のサピエンス。私だけが歯車の噛み合わない回転木馬に乗っている。