二章 呪縛の継承13
一階のロビーの脇にある階段から、一気に三階へと上った。廊下の突き当たりにある扉が研究室らしかった。三階に上がったのは初めてだが、使用されている痕跡のある部屋はそこしかない。
銀鼠色の仰々しい観音開きの扉に、パシャスが手を掛けた。私はその腕を掴み、首を振った。そして彼の身体を押しのけ、扉を開けた。
部屋の奥にはシャクティがいたが、背中を向けていたため、まだ私たちの侵入には気付いていなかった。
「シャクティ」
私が声を掛けると、シャクティは小さな悲鳴をあげて振り向いた。
「ブルース・・・」
手には試験管を持っていった。我々の姿に気付くと、シャクティはほとんど反射的と思える動作で試験管を背中に隠した。私は肩で息をしながら、頬をひきつらせたシャクティをじっと見据えた。
「その人たちは誰? ここには入らないでって言ったでしょう。お願い、研究の邪魔をしないで。出て行ってちょうだい」
「マイケルを解放してください。そうすれば、いますぐ出て行きます」
低いがはっきりした声でパシャスが言った。シャクティは動じずに、彼を睨み返した。
研究室には緊迫感が張り詰めた。小さな火種ですら爆発を誘引するような危うい雰囲気が、背筋をなぞった。
私はやはり彼女を取り囲むことがいたたまれなくなり、部屋を見回した。そして、息を飲んだ。
右手の壁に置かれたガラス張りのケースには、何十本もの薬品類が並べられていた。その横にはネズミや犬の胎児のホルマリン漬け。実験テーブルには甘酸っぱい臭気を放つフラスコがいくかあり、それぞれが竹やガラスの管で繋がれていた。
蛍光灯やオーブンレンジどころではなかった。そこには画面が細かな数字で埋め尽されたモニターがあり、複雑な構造を持った計測器らしきものがピーピーと甲高い音を発していた。奥の壁は用途の分からない機器類で一面覆われている。大きなものもあれば小さなものもあり、数え切れないほどのコードがそれらの機器類を結んでいた。
この部屋こそが、この建物の心臓部だった。太陽エネルギーも、本来はこれらの機器を作動させるためのシステムだったのだ。
もちろん、ある程度の機器が残っていることは予想していた。私が呆気に取られたのは、むしろ一族の執念に対してだった。
「君たち一族は、本当にすごい。ここまで高度な環境を維持していたなんて。改めて、この部屋の重要さが分かったよ」
「そう、ここは私たち一族の聖域なのよ。ここにあるすべてが、私たちの希望を生み出すための道具。たとえあなたでも、部外者は入ることが許されないわ。さあ、はやく出て行ってちょうだい」
シャクティは開き直ったかのように、声を張り上げた。
「おれは部外者なのか? この建物で暮らしているんだぜ」
シャクティの強固な態度に軽いショックを受けながら、私は言った。彼女が薬の研究に命を懸けるのは当然だし、邪魔をされないために立ち入り禁止にするのも理解できる。しかし、いまの言動はあまりに排他的だった。
「ごめんなさい、厳密に言えばあなたは一族の人間ではないから。ここはある意味、墓所でもあるの。先祖の魂は、現実の墓ではなくここに眠っているの。薬の研究を見守るためにね。私はそんなふうに考えている。そして彼らを天国に送るには、サピエンスの社会を復活させるしかないの。ここにある機器や道具は、彼らの遺言よ。私は誰にも、それを見せたくないし触らせたくもない」
シャクティには、どんな言葉をも撥ねつける意思が見て取れた。それは彼女が呪縛に囚われているせいだった。シャクティは自分の命よりも、先祖の無念を晴らすために研究をつづけている。そうしないと、最後のサピエンスとして先祖の元へ行くことが許されないのだ。複雑な構造の機器類や試験管やホルマリン漬けの犬の胎児たちが、彼女から安寧を遠ざける。この建物がシャクティを支配していたのではない。先祖の魂が、彼女を動かしていたのだ。
私は込み上げてくる虚しさを堪えながらも、シャクティに詰め寄った。
「部外者なら、もうここにいるだろう? 彼らは前に話したヘーラの仲間たちだ。マイケルの気配がこの建物の中にあると教えてくれた。どうして、おれを騙したんだ」
シャクティは手を延ばし、顔色も変えずに私の胸をそっとさすった。なにかが、おかしかった。研究室にいるシャクティは、ふだんと様子が違って見えた。
「あなたがこのノウスたちになにを吹き込まれたのか知らないけど、マイケルは私に協力してくれているの。確かに嘘をついたり、内緒にしたのは悪かったわ。でもブルース、私のしていることは私たち二人だけのためではないの。ノウスのためでもあるのよ」
「どういうことだ?」
シャクティはマイケルがいることを認めた。レンとパシャスが動き出しそうなのを右手で制して、私は聞いた。
「そうね。簡単に説明すれば、ノウスは長くないということよ。雌雄が分かれている生物と違って、ノウスの場合、子は親の完全なコピー。親のかかった病気は、必ず子もかかることになるわ。なぜなら両者は寸分違わぬ同じ細胞組織で構成され、同じ病原体に感染するんだから。強力な免疫機構を持つ彼らでも、いつかはそれを上回る病原体が現れるわ」
「馬鹿な・・・」
「サピエンスは父親と母親の遺伝情報を半分ずつ受け継ぎ、絶えず組成を活性化させているの。それが有性生物の優れたところ。でも、ノウスは百年経っても、二百年経っても、同じ顔で同じ細胞を持った人間がそこにいるのよ。こんなに脆い生物はないわ。自然の目を欺くには、休むことなく変化していなければいけないのよ」
すぐそばには、レンやパシャスがいた。シャクティの台詞は、心理的効果を狙って彼らに向けられているようにも感じられた。
詭弁ならいいが、シャクティの話は正論だった。レンとパオのように、ノウスの親子はまさに生き写しだ。彼らの家系は、孫が生まれても曾孫が生まれても、変わらない容姿をしているはずだった。そしてそれは、遺伝的な欠陥を永遠に克服できないことも意味している。
「そんな話を聞くために、私たちはここに来たのではありません。あなたはなぜマイケルを閉じ込めているのですか? 彼は協力などしてない。気配がそう言っている」
針のような視線を送りつけて、パシャスがにじり寄った。二人のノウスは、シャクティの言ったことなど意に介していなかった。
「あなたたちには関係ないわ。ここは私の家よ。帰ってちょうだい」
冷ややかな口調でシャクティは応じた。レンとパシャスは、まさにヘーラのイメージ通りの呪われた女だと確信しているだろう。この部屋に宿る先祖の魂が、彼女をそうさせているにも関わらず。
「よせよ、シャクティ。ここにマイケルを連れてきてくれ。ちゃんと話し合おう」
私は言った。彼女を信じたいという気持ちが、まだどこかに残っていた。
「お願い、ブルース。これ以上はなにも聞かないで。実験が終わったら、すべて説明するから」
「実験って、なんだい? ふうん。あんた、やっぱりそういうことしていたんだね」
すかさずレンが口を開いた。間延びした声だが、静かな怒りが込められていた。
「シャクティ、ひょっとして君はマイケルを実験に使っているのか? なんの実験だ。マイケルは、どこなんだ」
私はシャクティの身体を揺さぶった。痛い、とシャクティが悲鳴をあげる。
「あそこだな」
気配を察知したのか、レンとパシャスがふいに駆け出した。二人は右側の壁の奥にある扉に向かっていた。
やめて、と叫ぶと、シャクティは私の腕を振り払い、テーブルの上に放置された細身の実験用ナイフを投げつけた。くるくると回転しながら、ナイフは二人を目掛けて飛んでいった。




