閑話「出会い」
その場所は薺がよく自宅までの近道として使っていた路地裏。
そこに、その子猫はいた。
雨上がりで湿ったアスファルトの上。
ボロボロになった段ボール箱の隅で、その黒い塊は力なく震えていた。
「……あ」
薺は思わず足を止めた。
手のひらに乗るほど小さな、真っ黒な子猫。
泥にまみれた毛並みは固まり、四肢は小刻みに震えている。
「ニャア……」
細く、今にも消え入りそうな鳴き声。
見上げたその瞳は、吸い込まれるような金と銀のオッドアイだった。
「キミ、大丈夫……?」
割れ物を扱うように慎重に、持ち上げる。
手のひらに感じる体温はあまりに低く、その命の火が今にも消えかかっているのをまざまざと教えてくる。
そんな小さな命を見捨てられるほど、彼女は非情ではない。
「……冷たいね」
薺はハンカチで子猫を包むと胸に抱き、家路を急いだ。
胸元に感じる、微かで、けれど必死に鼓動を刻む小さな心音。それが途絶えてしまわないことだけを願い、薺は泥だらけのパーカーも構わずに走った。
自宅に飛び込むと、すぐに暖房を入れ、乾いたタオルで子猫の体を優しく、根気強く拭いていく。
「……よかった。……まだ、生きてる」
しばらくして、少しだけ温かさを取り戻した黒い塊が、その小さな鼻を「ピクッ」と動かした。金と銀、二色の瞳が再び弱々しく開かれる。
「……キミ、強いね。……あんなに冷たかったのに」
薺は安堵の溜息を漏らし、その小さな頭を指先でそっと撫でる。
その時、ぱたぱたとスリッパを鳴らして奥の台所から薺の母、菖蒲が顔を出した。
「おかえりなさい、薺! 今日は少し遅かった……あら、まあ!?」
エプロン姿の菖蒲が、薺の泥だらけの服と、その腕の中に抱かれた小さな塊を見て目を丸くした。
驚きに一瞬固まった菖蒲だったが、すぐに娘の必死な表情を見て、すべてを察したように柔和な笑みを浮かべる。
「お外にいたのね。……そんなに汚れてまで、よく頑張って連れて帰ってきたわね。偉かったわ、薺」
菖蒲は優しく薺の頭を撫でると、手際よく動いた。
すぐに温かいミルクと、小さな湯たんぽ代わりのペットボトルを用意し、古い毛布を敷いたカゴを差し出す。
「さあ、まずはこの子を温めてあげないとね。……薺も、雨で濡れちゃってるでしょう? 風邪を引いちゃうわ。お風呂を沸かしてあるから、先に温まってきなさい」
「……でも、この子が……」
「大丈夫よ。お母さんがしっかり見ててあげるから。ね?」
菖蒲の温かい声に、薺の張り詰めていた緊張がふっと解けた。
薺はコクンと頷くと、バロンと名付けた小さな命を菖蒲に託した。
風呂から上がり、髪を乾かしながらリビングに戻ると、そこには微笑ましい光景があった。
菖蒲が指先にミルクをつけて、子猫の口元に運んでいる。子猫は弱々しくも、必死にそれを舐めとっていた。
「薺、見て。この子、あんなに弱っていたのに、自分から飲もうとしてるわ。とっても強い子ね」
「ん……。名前、どうしよう」
「薺が連れてきた子だもの。貴方が付けてあげて」
薺は指先のミルクを求める子猫を見つめる。
「……バロン」
薺は昔見た映画に出てきた猫のキャラクターと同じ名前を呟いた。
深い意味はなく、なんとなく、それがぴったりだと思ったのだ。
「バロン? 男爵様ね、ふふ、素敵じゃない。格好いいお名前をもらえて良かったわね、バロンちゃん」
菖蒲は目を細め、いとおしそうに子猫の喉元を撫でる。
「……うん。……強そうなのが、いいと思って。オスみたいだし」
薺の言葉に、菖蒲はミルクの容器を置き、濡れた髪を乾かしきれていない娘の肩を優しく抱き寄せた。
「そうね。薺が初めて自分で『守りたい』って連れてきたお友達だもの。お母さんも全力で応援するわ。今日から、この子はうちの家族ね」
「……ありがとう、お母さん」
窓の外では、先ほどまでの雨が嘘のように上がり、雲の切れ間から微かな月光が差し込んでいた。
膝の上で、小さな熱が「ゴロゴロ」と微かな音を立て始める。
「……よかった」
心の中でそっと呟き、薺は瞼を閉じる。
明日から自分の日常がどれほど騒がしくなるか、まだ彼女は予感すらしていない。
けれど、今はただ、この静かなリビングの温度と、新しい家族の鼓動だけを感じていたかった。
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〘あとがき〙
今回は少し短めのほのぼの回です。
時々こんな感じの話を挟んでいこうかなという試みでございます。
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