第001話 召喚の境界
高校三年の夏前、六時間目が終わり、教室のあちこちで進路や受験の話が聞こえていた。
俺、黒瀬湊は窓際から二列目の後ろの方で、空欄だらけの進路希望調査を眺めていた。
「黒瀬くん」
斜め前から、白峰紗月が俺の机を覗き込んだ。
整った顔立ちで、人の小さな変化によく気づくやつだ。
「それ、提出まだだよね」
「まだ名前しか書けてないんだよな」
「今、鞄に入れようとしてたよね」
「……放課後までには出すよ」
「もう放課後になるよね」
白峰は少し笑って、自分の席へ戻った。
俺がもう一度プリントを見ても、空欄は埋まらなかった。
「湊、購買行くけど何かいる?」
三枝直也が鞄を肩に引っかけながら言った。
「焼きそばパン」
「先に金」
「信用ないな」
「前も忘れただろ」
小銭を渡すと、直也は笑いながら教室の前へ向かった。
終礼の時間は過ぎているのに、担任はまだ来ない。
その時、床が光った。
机の脚の下を白い線が走り、椅子の影を裂いて教室中へ広がっていく。
誰かの椅子が倒れた。
「なに、これ」
線は一瞬で大きな円になり、その内側に見たことのない文字が浮かんだ。
光が床から上がってくる。
足が先に引いた。
この円の中にいたらまずい。
理由は分からないが、すぐに外へ出ないといけない気がした。
「全員、円の外に出ろ!」
天城が叫び、一斉に何人かが動いた。
机と椅子がぶつかり、鞄が床へ落ちる。
白峰がこちらを見た。
俺は足元の光へ目を落とした。
ほとんどの生徒は円の中にいるが、俺の席は円の外縁にかかっている。
右半身は円の中にあり、左半身は円の外にある。
後ろの端にいた灰原も、同じように境界を跨いでいた。
光が強くなる。
「黒瀬くん!」
白峰の声を聞きながら、俺は円の外へ出ようとした。
足が動かない。
床の光が足首に絡みつき、肩が円の内側へ引かれる。
「湊!」
直也の声がした。
次の瞬間、右半分だけが光の奥で消えていく。
左半分だけが、召喚陣の外に残っている。
体が、二つの場所に分けられていた。
痛みは遅れてきた。
叫んだのかどうかも分からないまま、視界が白く潰れる。
灰原の方から短い悲鳴が聞こえた。
白峰がまだ何かを叫び、天城がこちらへ手を伸ばしている。
その全部が遠くなり、足元が消えていないのに、下へ吸い込まれる感覚がした。
息ができない。
そう思ってから、息をする体がないことに気づいた。
肺も、喉も、手足もない。
それでも、俺は落ちていた。
俺は死んだ。
その理解だけが、妙にはっきりしていた。
白い線が何度も意識の端を走り、輪になり、絡まり、すぐにほどけていく。
教室の床にあった魔法陣と似ていたが、それは俺を運ぶのではなく、弾き出そうとしていた。
薄い膜が破れるような音がして、落ちる向きが変わった。
白い線が遠ざかり、湿った闇が近づいてくる。
闇の中に、今にも消えそうな小さな鼓動があった。
避ける間もなく、それにぶつかった。
触れた瞬間、俺の意識はその体の内側へ引きずり込まれた。
細い骨が軋み、冷えた体が震え、空っぽの腹が痛んだ。
土と石と、淀んだ水の匂いが押し寄せた。
寒い。
暗い。
怖い。
その感情が俺のものなのか、この体のものなのか分からない。
石の上で体を起こそうとした。
手をついたはずだった。
けれど、石を叩いたのは手ではない。
薄い膜の張った、小さな翼だった。




