Ch.00 プロローグの魔女 001
「なぜ⋯」
男は魂の抜けたような声で低く呟く。
男の足元から揺らめく炎は、手の届くものすべてを呑み込みながら燃え盛る。
ドン——!
亀裂の入った柱が割れて倒れ、ひびの入った天井は破片を床に落とし、濛々と埃を舞い上がらせる。
「なぜ⋯なぜ⋯」
男は血にまみれた手で自らの頭を抱える。
「なぜ全員殺したんだ!」
指の間から流れ落ちた血が涙と混ざり合い、顎の先から赤くぽたぽたと滴る。
「それは⋯当然じゃない?」
花のように美しく、血のように妖艶で、炎のように残酷で、夕焼けのように蠱惑的な女。
まるで童話の中にしか存在しないような、紅い髪の女が炎を切り裂いて近づいてくる。
「あなたが私を裏切ったんだから」
女は気品をもって膝をつき、男を見下ろす。
「これはすべて、あなたの罪によって引き起こされたこと。あなたが背負うべき罰よ」
「⋯何だって?」
男は焦点を失った目をかろうじて上げ、女を見つめる。
「そういうことなら⋯私だけ殺せばよかったじゃないか!なぜ私たち二人の問題のせいで他の人たちが死ななければならない!なぜ何の罪もない人たちまで⋯!」
喉がひりひりと焼け、心臓が肋骨を砕かんばかりに激しく脈打つ。
脊髄を伝い上がってきた冷たい感覚が脳裏を刺す。
男の頭が力なくがくりと落ちる。
視線の先、床に無造作に転がる折れた刃が目に入る。
「私だけ⋯死ねば終わる話じゃないか⋯」
男は手を伸ばし、折れた剣の柄を掴む。
両手に重ねた刃の欠片は、たとえ折れていようとも、己の喉を貫くには十分なほど鋭い。
男は目を閉じる。手首をひねり、そのまま刃を喉へと引き寄せる。
「いいえ、あなたはここでは死なない」
紅い髪の女が手を振り、男の手首を軽く払いのける。
カン——!
金属音を立てて床を転がる折れた剣。
男の頬には、かすった刃が残した赤い線が一筋走り、血の滴が滲む。
「あなたが死ねない理由⋯」
女はまるで恋人に触れるように優しい手つきで男の頬を撫でる。
彼女の爪の先が男の血で赤く染まる。
肌に触れる穏やかな温もりに、男の首筋に立った鳥肌がびりびりと震える。
男は反射的に顔をそむけ、彼女の手を拒む。
「あなたも、その理由を知っているでしょう?」
女は男の顎を強引に掴み、無理やり視線を合わせる。
やがて男の額に流れ落ちた前髪をそっと払いのけてやる女の目元が、満足げに細まる。
「⋯私が、あなたを愛しているから」
女は男の額に深く口づけをする。
***
「はっ——、はっ——!」
目が覚める。幸い、夢だった。
「くそ⋯」
男はずきずきとこめかみを押さえながら、ベッドの上に身を起こす。
べたついた冷や汗で濡れた衣服が肌にじっとりと張り付く。
男は顔を上げ、窓を見つめる。
暗く広がる夜空と、その中に浮かぶ青みがかった三日月が目に入る。
コンコン——。
扉を叩く音に、男の視線が固まり扉へと向く。
「お母さんが、食事の準備ができたと、下りてくるようにとのことです」
少年の声。記憶によれば、この宿屋の子どもだったはずだ。
「わかった。今下りる」
男は汗で濡れた衣服を見下ろし、食事の後に洗って着替えることに決める。
卓上に置いておいたペンダントを手に取り、首にかける。
指先に触れたペンダントが微かに振動する感覚が伝わる。
「⋯待っていたのか?」
ぎいっ——、古びた蝶番の音とともに扉を開けた男の足が、ふっと止まる。
扉の前に所在なさげに立っていた少年と目が合ったからだ。
男は握っていた扉の取っ手を軽く持ち直す。
少年のこそこそとした視線が、開いた扉の隙間からせわしなく動き回るのが見える。
部屋の中を覗きたかったらしい。
「ついてきてください。ご案内します」
少年は足がしびれていたのか、努めて元気よく歩き出す。
男はわざわざその好意を断ろうとせず、後ろについていく。
むせ返るような酒の匂いと、ざわめく話し声。
夜の更けていく田舎町の宿屋の下の階は、一日を締めくくろうとする人々の熱気で満ちている。
男は少年が案内した隅の席に腰を下ろし、食事を待つ。
「⋯坊や、私に聞きたいことがあるのか?」
この少年は、自分の案内役を終えたにもかかわらず立ち去ろうとしない。
もじもじと動く指、大きく見開いた輝く瞳が、何かを切望している。
「おじさん」
ちょうど宿の主人が近づいてきて、粗いライ麦パンと熱いスープの入った皿を卓上に置く。
男は軽く頷きながら宿の主人をちらりと見やりつつも、耳は少年の唇の先に向けたままだ。
「⋯魔女について、よく知っていますか?」
ごくっ。スープをまさに飲み込もうとしていた男の喉がかたくなる。男は慌ててコップを掴んで一気に飲み干す。
「⋯なんでそんな質問をするんだ?」
「今日いらっしゃったとき、大きな剣を背負っていたから。なんとなく、おじさんは魔女についてよく知ってそうだなと思って」
「この子がお客様に何て失礼な⋯!ご不快をおかけしたなら本当に申し訳ありません。遠くからいらしたお客様を見ると必ずこうなんです」
咳き込む音を聞いた宿の主人が青ざめた顔で急いで近づき、少年の背中をぴしゃりと叩く。
乾いた平手の音とともに少年の短い悲鳴が空中にぶつかる。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「構いません。食事をしながら軽い話をするのは私も好きですから」
男は宿の主人から受け取った布で口元を拭い、目の前の少年をまっすぐ見つめる。
「坊や、魔女のことが気になるのはなぜだ?」
「僕は騎士になって妹を守らなきゃいけないから。魔女は小さい子を食べるでしょう」
少年は両手を鉤のように曲げ、空中を引っかく仕草をしてみせる。
「まったく、この子ったら⋯。夜になかなか寝ようとしないから、魔女に連れていかれるよって脅したら⋯」
宿の主人は赤くなった顔で少年の口を慌てて塞ぐ。
しかし少年はくぐもった声を上げながら、なんとか目つきで言葉を続けようともがく。
男の口元にかすかな弧が描かれる。
「妹を守る騎士になるためなら、おじさんの知っている魔女の話を少し聞かせてあげてもいいな」
「本当に?」
思いがけない返事に、少年の目がふたたびきらりと輝く。
「じゃあどこから始めようか⋯。坊や、お前は魔女がどんな存在だと思う?」
「魔女は⋯つまり⋯すごく怖い魔法を使って人々を苦しめる、邪悪で悪い怪物です」
「ふむ、そうか。では坊や、魔女はなぜ人々にそんなことをするのだろうか?」
少年は指先を下唇に当てたまま、首をかしげる。
「もしかして魔女もかつては君や私と同じ人間だったと知っているか?」
少年は意外そうに激しく首を横に振る。
「魔女もまた、呪術を通じて人間の枷を脱ぎ捨て、新たな存在として生まれ変わっただけで、元はごく普通の人間だったんだ」
「じゃあ⋯僕も魔女になれるんですか?それと、誰かが無理やり僕を魔女にすることもできますか?」
「残念ながら君は魔女にはなれないな。まず魔女は女性しかなれないが、君は男の子だろう」
少年はそれでやっと安心したように胸をなで下ろす。
「それに魔女は、自分の意志がなければ決してなれないんだ。たとえ強力な魔法使いが無理やり君を魔女にしようとしても、君の心が許さなければ不可能なことだよ」
「それなら⋯魔女はなぜ自分から魔女になろうとするんですか?」
「それは⋯ふむ、坊やが理解するには少し難しい話かもしれないな。生きていると、ときに自分の力ではどうにもならない大きな壁にぶつかることがある。そういうとき、人間であることを捨ててでもその力を借りて問題を解決しようとする者がいるんだ」
「例えば?」
「例えば深い復讐心とかね⋯。君もものすごく頭に来るときがあるだろう?そういう状況みたいに⋯」
「あ、じゃあお母さんも魔女になれますね!たまにものすごく怒ってるとき見ると、魔女とそっくりだから!」
その瞬間、隣のテーブルで見ていた傭兵たちの荒々しい笑い声が弾け、宿の主人の顔はたちまち怒りで真っ赤になる。
「はは、そうかもしれないけれど、お前のお母さんがいくら怒っても魔女になることはないよ」
「なんで?」
「魔女になるには、自分の人生のすべてを投げ捨てなければならないんだ。魔女は望んだ目的を果たすと、一握りの塵となってこの世から永遠に消えてしまう。でもお前のお母さんは、お前たちを残してそんなふうに先に逝ってしまうような方じゃないだろう」
「怒っても、自分を捨てられなければ魔女にはなれないんですね」
少年はひどく真剣な表情で大きく頷く。
「じゃあ魔女についておもしろい話は他にないですか?」
「ふむ⋯魔女はとても美しいんだ。ほとんどの魔女は魔法を使って、自分が一生のうちで最も美しかった頃の姿を取るからね。いや、それ以前よりずっと妖艶に変わることもある」
「じゃあお母さんは本当に魔女じゃないですね。お母さんはきれいじゃないから」
「もう、この子は本当に⋯!」
周りのくすくすという笑い声がひときわ大きくなる。
「⋯もうお客様の食事の邪魔をするのはやめて、上に上がって寝なさい。夜が更けたよ」
「嫌です!まだ聞きたいことがたくさんあるんです」
少年は慌てて男の太ももをつかみ、母親に向かって頑として粘る。
「坊や、大人たちの夜は更けているから、もう寝室に下がった方がいいぞ」
男は腰をかがめ、少年の耳元で低くささやく。
「でも⋯」
「お前が遅くまで起きているせいでお母さんが頭に血が上ってしまったら、本当に人間であることを捨てて魔女に変わってしまうかもしれないぞ。そうなったら、おじさんでさえお前を守る方法がなくなってしまうぞ?」
お母さんがひと握りの塵になってしまうかもしれないという警告に、少年の瞳が恐怖で小さく震える。
「僕は⋯お母さんの言うことをちゃんと聞く良い子だから、もう寝ます!おやすみなさい!」
「ああ、良い夢を」
少年は丁寧にお辞儀をしてから、階段の上へと駆け上がっていく。
男は遠ざかっていく少年の後ろ姿を見ながら、口元に穏やかな微笑みをたたえる。
「魔女についてずいぶん深くご存知なんですね」
隣のテーブルで一人杯を傾けていた頭巾を被った女が、顔を隠したまま顎をしゃくりながら話しかけてくる。
「私にも魔女についてひとつ教えていただけますか?」
「⋯旅をしながら拾い集めた噂話を並べただけです」
「まあ、噂話だなんて⋯」
女は自分の杯を持って男の隣の席へと音もなく歩いてきて腰を下ろす。
「⋯それがどれほど貴重で危険な情報か、ご自身ではわからないようですね?」
女がベールの向こうで低くくすりと笑う。
「魔女は美しく、人を惑わせ、ひどく残酷。それゆえ聖十字教団では魔女に関する書物をすべて禁書として管理しているのですが、あなたはその貴重な本々をずいぶんたやすく手にされているようですね?」
「旅人というのは元来、噂と文字に飢えているものですよ」
「ふむ⋯旅人ね。果たして本当にそうでしょうか?」
女は何がそんなに楽しいのか、杯に注いだ酒をひと口で飲み干す。
「⋯魔女についてかくも詳しく語れる者は世に二種類しかいません。もちろん、どちらも正気の者ではありませんが」
女は指を二本立てて見せる。
「一つは彼女たちを追いかけ首を吊る異端審問官」
女が人差し指を折る。
「もう一つは彼女たちを崇め血の祭壇を積み上げる崇拝者」
女はひとつ残った中指をゆっくりと折り、男の心臓の辺りを指す。
「審問官と崇拝者、あなたはどちらですか?」
「まだ挙げていない手がもう一つ残っているようですが」
男は女の指先の前に自分の顔をぬっと近づける。
「私が魔女本人という可能性もあるのではないですか?」
「⋯あなたが、魔女だと?」
女の動きが一瞬で凍りつく。
「あはははは!なぜ私はそれを思いつかなかったのでしょう!こんなに骨格たくましくりりしい魔女様がいらっしゃるとは!本当に光栄なる出会いですね」
やがて女は腹を抱えながら込み上げる爆笑を抑えられなくなる。
「⋯それでは頼もしい魔女様にお聞きします。あなたは魔女をどう思いますか?」
突然、女の声から笑いが消え、険しく沈んでくる。
「ある者は魔女を神として祀り、ある者は魔女を狩ります。詩人は魔女の美しさを謳い、法官は魔女の罪悪を告発し、書記官は魔女について記録し、聖職者は魔女の痕跡をすべて消し去ろうとする。これほど世の眼差しが引き裂かれているのに、この哀れな魔女という存在をいったい何と呼ぶのが相応しいのでしょうか?ご自身を魔女とおっしゃったのですから答えてください。魔女とは真に何ですか?」
「⋯少なくとも善と悪という粗末な物差しで測れる存在ではありません」
「では、あなたが下す魔女に関する定義は何ですか?」
男はしばし考えに沈むように静かに目を閉じる。
「⋯愛する者」
「え?」
女の瞳が微かに揺れる。
「⋯私の知るある者が魔女をそう呼んでいたんです」
「詩人ですか?ずいぶん気恥ずかしいロマンですね」
女は鼻で笑いながらも、男の奇妙な答えを噛み締めるように唇をわずかに動かす。
「⋯その者はなぜ魔女をそう定義したのですか?」
「魔女が抱く深い怨恨も、血塗られた復讐も、そしてそのために自分のすべてを惜しみなく燃やす行為でさえも、その根を辿ればやはり誰かへの凄絶な愛が宿っているからだと言っていましたよ」
「愛がその狂気すべての発端だということですね」
「まあ、そう見ることもできるでしょう」
男は己の杯を持ち上げ、喉の奥へ酒を流し込む。
「ではあなたが思う魔女の愛とは、いったい何ですか?」
「難儀な問いですね。愛の形をどうして一言でまとめることができましょう。それぞれが抱く温度は人それぞれなのですから」
男の口元に苦い沈黙が溜まる。
「ただ、あえて答えを出すとすれば⋯魔女の愛は『すでに終わった愛』です」
「終わった愛?」
「魔女は終わった愛にしがみついて復讐を夢見て、自分自身を蝕みます。どれほど血を流しても、その手に握っていた相手が生き返ることはないのですから。すでに終止符の打たれた関係というわけです」
「ひどく悲劇的ですね」
「それゆえ他者の目に映る魔女は、ただの未練に命を懸けた愚か者に過ぎないのです」
男は再び己の杯に酒をなみなみと注ぐ。
「しかし魔女本人にとってそれは『いまだ続く愛』なのです。たとえ相手ともはや向き合えなくとも、己の心の炎は消えていないのですから。彼女たちにとって愛は、決して終わったことがないのです」
「始まりと終わりがすれ違った愛か⋯。なんとも哀れな罰ですね」
女もまた己の杯に酒をなみなみと注ぐ。
「⋯あなたはいったい何者ですか?」
女が軽く杯を合わせてきて、男は無言でそれに応じる。
「初めてあなたを見たときは、傭兵の粗い革衣を纏った教団の猟犬かと疑いました。そうでなければ教団の目を逃れて魔女の本質をここまで見抜くことはできないはずですから」
「まだ疑いを捨てきれないようですね」
「それが『愛する者』とは⋯。異端審問官たちが魔女をそんな名で呼んでくれるはずがないし、崇拝者たちもまた同じく。魔女を道具と見なす者たちが、彼女たちに熱い心が欠けていると信じるのは当然の理でしょう?」
「立っている場所によって見える景色が違うものですよ」
男が杯を唇へと運ぼうとした刹那、女の白く冷たい指が男の杯の上を覆い押さえる。
「ですからもう一度聞きます。あなたは何者ですか?」
「何のことかよくわかりませんね」
男は杯を押さえた女の指を払いのけず、そっと包み込むようにして横へと押しやる。
「すでにお答えしたはずですが」
男は一気に酒を飲み干し、杯を置く。
「風に乗って漂う話を集める、ただの旅人に過ぎないと」
「なるほど⋯。ご自身を魔女と紹介されたときよりは説得力がありますね」
女もまた満足げな微笑みを浮かべながら己の杯を傾け、喉を潤す。
「⋯時間が惜しげもなく過ぎてしまいましたね。そろそろ席を立たなければならないようです」
女は軽く椅子を引いて立ち上がる。
「あ、去る前にこちらを通りがかる旅人に小さな親切をいたしましょう」
女がさっと身を傾け、男の耳元に唇を近づける。女の息から奇妙なほど冷ややかな冷気が滲み出る。
「⋯今夜が明ける前に、この村を去ってください」
女の声が風のように細く忍び込む。
「闇が完全に降りたら、本物の魔女が目覚めるかもしれないから」




