番外編 逆行したけど、ざまぁだけ。
王太子殿下との婚約を解消した後、ある日目覚めると十歳に戻っていた。
……惜しい。八歳より前なら殿下と婚約しないで済んだのに。
思いながら体を起こす。メイドがやって来て着替えを手伝ってくれる。公爵家の使用人と公爵領の領民達、そしてもちろん家族が私の守るべきものだ。
彼女達のためにも悪に戻ろう。
冷徹に利益だけを計算し、それを得るために行動する悪に。初めから守ると決めた人々以外への情へ流されたりはしない。
どうでも良い人間達に、優しい善い人間と判断されたところでなんの意味もない。下手をすれば八つ当たりの的にされるだけだ。
実際のところ、殿下への恋心は少しも残っていなかった。
朝食の席で父に告げると、とても喜んでくれた。
すぐに国王陛下と話をつけると言って、食事が終わるなり私を連れて登城した。婚約してから父以外はずっと王都の公爵邸で暮らしている。父は王都と領地を行ったり来たりだ。母や兄、心なしか生まれたばかりの弟も笑顔で見送ってくれた。
──王宮の中庭で護衛に見守られながら父を待つ私に、声をかけて来た人間がいた。
「公爵令嬢!」
「……王太子殿下」
「こんなところでなにをしている。王宮に来たのに、婚約者の私のところへは来ないつもりか?」
私は頷いた。
もう婚約者ではなくなる。
父は私を政略結婚に使う気はない。好きな相手と結婚して公爵領で暮らしてほしいと以前から言っていた。王太子殿下との婚約が解消されたら、王都に来ることはないだろう。事業については代理人を立てれば済む。
「ふん。……まあいい。これをやろう」
そう言って彼が懐から取り出したのは、小さな蛙だった。
幼いころは苦手で、見せられると泣き叫んでいた。殿下はそんな私を楽しそうに眺めていた。謝られたことは一度もない。
今の私、恋を終わらせた未来の私はそれほど蛙が苦手ではなかった。蜘蛛なら怯えていたかもしれない。
「私には飼えませんので」
「……いつものように泣き叫ばないのか」
恋をしていたころの優しく善き人間になろうとしていた私なら、たとえ少しも怖くなくても泣き叫んで殿下の機嫌を取っただろう。
でも今はそこまでする気がない。
私との婚約が解消されたら、殿下にはなんの後ろ盾もなくなる。嫌な思い出しかない学園は早々に売り払うつもりだし自分が通う気もないので、利用価値のない彼とは二度と会うこともない。
「公爵令嬢?……私を嫌いになったか?」
私を泣かせた後の彼は、いつもこう聞いてきた。
悲しげな顔に胸が締め付けられて、ついそんなことはないと言ってしまう、そうすると嘲笑を浮かべて去っていくのだ。だったらこのまま婚約しておいてやる、と言い捨てて。
今の私は彼を好きではない。しかし嫌いとは言い難い。どうでもいいのだ。
とはいえ、どうしてどうでも良くなったかまで話して説明するのは面倒だ。
未来の話などしたら、間違いなく莫迦にされる。どうでもいい相手だからと言って、嘲笑されれば嫌な気分になる。以前の学園で周囲の人間にされたときと同じように。
私は首肯した。ここは、殿下が嫌いになったということにしておこう。
「な、なんで? どうして私を嫌いになったんだ!」
会うたび嫌がらせをして謝罪もしてこない人間を好きでい続けていた、以前の私のほうがおかしい。
心優しい母や兄が照れ隠しだと言ってくれるのを信じていたのだ。本人の口から聞いたわけでもないのに、真に受けていたのが間抜けである。
常に善意で他人に接する母や兄が大好きだし憧れているけれど、やっぱり合理的な悪である私や父と弟でおふたりを守ってあげなくては。
「……お待たせ、帰ろうか」
やがて、父が迎えに来た。
殿下はなにやら叫んでいたが、私達の婚約が解消になったと聞くと口を噤んだ。
彼の母親は亡くなっている。国王陛下には新しい妃殿下と第二王子がいる。私との婚約がなくなれば、彼の基盤はなにもない。側近候補を輩出していた家々も、そうなれば彼から手を引くことだろう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
予想通り元王太子殿下はいなくなった。
巻き戻る前のようにこっそりと始末されたわけではない。
太子を辞すよう求められて、国王陛下を襲って自害したのだ。即死ではなかったが、国王陛下も後日崩御した。
次の太子になる予定で控えていた第二王子は目の前で繰り広げられた光景に正気を失い、震えながら部屋に閉じ籠っている。
妃殿下が後見人となって政をおこなうつもりだろうけれど、前の王妃の妊娠中に国王陛下を誘惑して成り上がった女性への支持は薄い。元より彼女は大した身分でもなかった。国王陛下だけが溺愛していたのだ。
少なくとも父が妃殿下と第二王子の支持層に回ることは絶対にない。
第二王子との婚約を打診されたが断って、私は公爵領へ戻った。
母や兄、弟も一緒だ。
王都の学園はとっくの昔に売り払っている。私のように余裕のある人間は少ないので、学園からの援助を前提とした平民枠が出来ることはないだろう。
薬種問屋に少女の母が来たときは、雇わないようにと告げている。
恨みや憎しみからではない。
蛙の子は蛙とやらで、少女の弟の父親は薬種問屋で働いていた妻子持ちだったのだ。自分の経営する店に問題を起こすのがわかりきっている人間を引き入れたくはない。親娘揃って、どうして独身で相手のいない人間を狙わないのか。
街道の通行料を恵んでやっていないので、伯爵家は借金漬け。
薬草を安価で降ろしたりはしていないので、子爵家は財源がなく潰れてしまった。
騎士団の団長は前とは違うし、売り払った学園に新しい教員を雇う余裕はない。
時間が巻き戻ったのだから今の彼らに罪はないのだが、私が元王太子殿下から手を引くと、彼に寄生していた人間はどうしても落ちぶれてしまうのだ。
前のとき、彼らは学園の卒業パーティで私を断罪して、殿下は婚約を破棄するつもりだったと密偵からの情報で掴んでいたけれど、その後はどうするつもりだったのかしら。彼らの基盤を私が支えていなかったとしても、公爵家に戦争を仕掛けることになるのに。
でもまあ、なにもしてないのに落ちぶれさせたのだから今回の私こそが正真正銘の悪、彼女が言っていた悪役令嬢なのかもしれない。
王国の未来には暗雲が立ち込めているが、私と父、弟がいるから公爵領は守り通して見せようと思う。
……またいつか、私がだれかに恋する日は来るのかしら。
今度はもう恋をしたとしても、無理して優しい善い人間になる気はない。自分が自分でなくなったら、恋さえ本物かどうかわからなくなる気がする。
私は私のまま、悪として生きていく。
あの日彼女が呟いた通り、私は悪役令嬢なのだ。




